きみの家と、その周辺の話

7 【変化】


 季節は一度巡り、新たな春を迎えた。高校2年生になり、1年と違う顔ぶれにも慣れてきた。新しい友達もできた。

 変化は学校生活だけでなく、家の中でも着実に起きていた。

 母さんは出かけることが多くなった。

 誰かから連絡があると、「ちょっと用ができたから」と、化粧直しをして、どこかへ出かけていく。行き先は知らない。「ちょっと」の時間を測ったこともなかった。

 夕飯は作ってくれるし、一緒に食べてくれるし、不満はない。ないのに、ひとりで椅子に座っているだけで、いたたまれなくなった。高校生にもなって、「母さんは俺よりも」と思わなくてもいいのに考えた。

 たまらず、渓太に「泊まっていい?」と連絡した。渓太も忙しいはずなのに、俺の申し出を断ることはなかった。必ず、「いいよ」と言ってくれた。

 さすがにお世話になりっぱなしなのも気が引けるので、残った夕飯のおかずをタッパに入れて、持ち出す。あらかじめ母さんにも了承を取っていた。この頃は、それを見越して多めに作ってくれていた。



 渓太の家にはおじさんもいて、どんな時でも「よく来たね」と言ってくれる。タッパ入りの袋を渡せば、中を覗き込んで「これ好きなんだよ」と嬉しそうに応じてくれた。「母さんに言っておきますね」といつもの言葉で返す。

 そんなおじさんと俺とのやり取りの中を、風呂あがりの渓太が割って入ってきた。

「父さん、風呂入れよ」
「えー、夕飯を食べてからにしようと思ってたのに」
「その後、寛人も入るんだから、早く」
「わかったよ」

 渋々といった感じでおじさんは浴室に向かう。俺がおじさんに向けて差し出したはずの袋は、いつの間にか渓太が持っていた。湯気を纏った渓太は、適当に拭いたのか、髪の毛はまだ濡れすぼっていた。

「もっとちゃんと拭きなって」

 笑いながら首にかけていたタオルの端で拭いてやれば、顔を背けられた。触られたくなかったらしい。

「そんなのはいいから。中に入れよ」

 素っ気なく返されて、拒まれたように思えた。少し寂しく思いながらも置いていかれる方が嫌だった。遠ざかる大きな背中を追いかけた。



 渓太の家で風呂までいただき、眠る場所まで提供してもらう。渓太はベッドに横たわって、俺は布団を敷いて床寝する。暗がりの天井を眺めながら、まだ寝る気配のない渓太に声をかけた。

「最近、ごめんな。渓太の家に入り浸ってるみたいで」
「みたいじゃなくて、入り浸ってるだろ」

 呆れたように言われる。こちらとすれば、図星を突かれたために、何も言えなくなる。

「ごめん」
「いいって、気にするな。父さんも、寛人がいてくれたほうが家の中が明るくていいって言ってる」
「おじさんって、いい人」
「いい人っていうか、脳天気なだけだろ」
「脳天気だって、ちゃんと家庭を守っているのはすごいよ」

 家庭を守れず、自分の手で壊してしまう人もいる。そんな典型的な自分の父親を思い出し、おじさんと比べてしまうのが情けなかった。比べようがないのに、つまらないことを想像して勝手に傷つく。

「まあ、それで助かったことは何度もあるしな」
「そうだよ」

 お互いにひとしきり笑った後、沈黙が降りてきた。その沈黙を破るのはいつも俺の役割のような気がしていたが、今日はできそうになかった。

「何か、あったのか?」

 意外にもたずねてきたのは、渓太の方だった。答えるべきか迷った。ここ最近の不安を渓太に話すべきかどうか、頭をめぐらす。母離れできていないと思われるかもしれない。

 渓太ならば、笑わないで聞いてくれるかもしれない。これまで俺の話をぞんざいに聞いていたことはなかった。

 今置かれている状況を説明することにした。

「俺の母さんのことなんだけど」
「おばさん?」
「うん、もしかしたら、うちの母さん、誰かと付き合っているかもしれない」

 面と向かって確かめたことはなかったが、母さんの変化は緩やかに訪れた。

 新しい服が増えたこと、化粧直し、出かけるときにつけるアクセサリー。誰かと通話中の明るい声は、よそ行きというよりかは、もっと甘さを含んでいる気がした。

「考えたくなかっただけかもしれない。でも、もし、再婚するとか言われたら、どうしよう」

 ひとりになると、どうしても考えてしまう。母さんが幸せを感じているのなら、嬉しい。嬉しいのに、いつその人を紹介されるか怯えている。そんなことを母さんに言えるわけもなかった。

「不安だよな」
「うん。まだ会ったことはないけど、俺にとっては他人のままだし。いきなり父さんと呼べ、とか言われたらどうしようかって。同居するとか考えたら、もっと嫌だった」

 生まれたときからずっとそばにいた父親を、父さんと呼ぶのは抵抗がない。でも一緒に生活したこともない男を、いきなり父親だと思うのは無理があった。たとえ、母さんと交際中だとしても、父親だとは思えなかった。同居もできるならしたくない。

「……無理に、呼ばなくてもいいと思う。同居もしたくないなら、はっきり言えばいい」
「そうかな?」
「ん、寛人は本当の父さんを忘れたくないんだろう。俺だって、死んだ母さんを忘れろと言われても無理だし」

 別の女の人を連れてきたとして、「母さん」なんて、たやすく言えるわけがない。長い時間をかけて信頼できると思ったら、しかるべきタイミングで「母さん」と呼ぶ。同居なんて考えたくもない、と渓太は言った。

「わがままでも、そこだけは譲れない」

 そう言い切る渓太に肩の力が抜けた。知らない間に気を張っていたらしい。

 ――そうか。無理に譲らなくていいんだ。

「寛人もわがままを言ってもいいと思う」

 本当にその時が来るまでわからないが、心は軽くなったと思う。母親から打ち明けられたとき、渓太の言葉を思い出すつもりだ。

 この場で渓太に話してみてよかったと心から思った。

「ありがとう」

 渓太は渓太らしく、「ん」とだけ返してきた。
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