きみの家と、その周辺の話
7 【変化】
季節は一度巡り、新たな春を迎えた。高校2年生になり、1年と違う顔ぶれにも慣れてきた。新しい友達もできた。
変化は学校生活だけでなく、家の中でも着実に起きていた。
母さんは出かけることが多くなった。
誰かから連絡があると、「ちょっと用ができたから」と、化粧直しをして、どこかへ出かけていく。行き先は知らない。「ちょっと」の時間を測ったこともなかった。
夕飯は作ってくれるし、一緒に食べてくれるし、不満はない。ないのに、ひとりで椅子に座っているだけで、いたたまれなくなった。高校生にもなって、「母さんは俺よりも」と思わなくてもいいのに考えた。
たまらず、渓太に「泊まっていい?」と連絡した。渓太も忙しいはずなのに、俺の申し出を断ることはなかった。必ず、「いいよ」と言ってくれた。
さすがにお世話になりっぱなしなのも気が引けるので、残った夕飯のおかずをタッパに入れて、持ち出す。あらかじめ母さんにも了承を取っていた。この頃は、それを見越して多めに作ってくれていた。
◆
渓太の家にはおじさんもいて、どんな時でも「よく来たね」と言ってくれる。タッパ入りの袋を渡せば、中を覗き込んで「これ好きなんだよ」と嬉しそうに応じてくれた。「母さんに言っておきますね」といつもの言葉で返す。
そんなおじさんと俺とのやり取りの中を、風呂あがりの渓太が割って入ってきた。
「父さん、風呂入れよ」
「えー、夕飯を食べてからにしようと思ってたのに」
「その後、寛人も入るんだから、早く」
「わかったよ」
渋々といった感じでおじさんは浴室に向かう。俺がおじさんに向けて差し出したはずの袋は、いつの間にか渓太が持っていた。湯気を纏った渓太は、適当に拭いたのか、髪の毛はまだ濡れすぼっていた。
「もっとちゃんと拭きなって」
笑いながら首にかけていたタオルの端で拭いてやれば、顔を背けられた。触られたくなかったらしい。
「そんなのはいいから。中に入れよ」
素っ気なく返されて、拒まれたように思えた。少し寂しく思いながらも置いていかれる方が嫌だった。遠ざかる大きな背中を追いかけた。
◆
渓太の家で風呂までいただき、眠る場所まで提供してもらう。渓太はベッドに横たわって、俺は布団を敷いて床寝する。暗がりの天井を眺めながら、まだ寝る気配のない渓太に声をかけた。
「最近、ごめんな。渓太の家に入り浸ってるみたいで」
「みたいじゃなくて、入り浸ってるだろ」
呆れたように言われる。こちらとすれば、図星を突かれたために、何も言えなくなる。
「ごめん」
「いいって、気にするな。父さんも、寛人がいてくれたほうが家の中が明るくていいって言ってる」
「おじさんって、いい人」
「いい人っていうか、脳天気なだけだろ」
「脳天気だって、ちゃんと家庭を守っているのはすごいよ」
家庭を守れず、自分の手で壊してしまう人もいる。そんな典型的な自分の父親を思い出し、おじさんと比べてしまうのが情けなかった。比べようがないのに、つまらないことを想像して勝手に傷つく。
「まあ、それで助かったことは何度もあるしな」
「そうだよ」
お互いにひとしきり笑った後、沈黙が降りてきた。その沈黙を破るのはいつも俺の役割のような気がしていたが、今日はできそうになかった。
「何か、あったのか?」
意外にもたずねてきたのは、渓太の方だった。答えるべきか迷った。ここ最近の不安を渓太に話すべきかどうか、頭をめぐらす。母離れできていないと思われるかもしれない。
渓太ならば、笑わないで聞いてくれるかもしれない。これまで俺の話をぞんざいに聞いていたことはなかった。
今置かれている状況を説明することにした。
「俺の母さんのことなんだけど」
「おばさん?」
「うん、もしかしたら、うちの母さん、誰かと付き合っているかもしれない」
面と向かって確かめたことはなかったが、母さんの変化は緩やかに訪れた。
新しい服が増えたこと、化粧直し、出かけるときにつけるアクセサリー。誰かと通話中の明るい声は、よそ行きというよりかは、もっと甘さを含んでいる気がした。
「考えたくなかっただけかもしれない。でも、もし、再婚するとか言われたら、どうしよう」
ひとりになると、どうしても考えてしまう。母さんが幸せを感じているのなら、嬉しい。嬉しいのに、いつその人を紹介されるか怯えている。そんなことを母さんに言えるわけもなかった。
「不安だよな」
「うん。まだ会ったことはないけど、俺にとっては他人のままだし。いきなり父さんと呼べ、とか言われたらどうしようかって。同居するとか考えたら、もっと嫌だった」
生まれたときからずっとそばにいた父親を、父さんと呼ぶのは抵抗がない。でも一緒に生活したこともない男を、いきなり父親だと思うのは無理があった。たとえ、母さんと交際中だとしても、父親だとは思えなかった。同居もできるならしたくない。
「……無理に、呼ばなくてもいいと思う。同居もしたくないなら、はっきり言えばいい」
「そうかな?」
「ん、寛人は本当の父さんを忘れたくないんだろう。俺だって、死んだ母さんを忘れろと言われても無理だし」
別の女の人を連れてきたとして、「母さん」なんて、たやすく言えるわけがない。長い時間をかけて信頼できると思ったら、しかるべきタイミングで「母さん」と呼ぶ。同居なんて考えたくもない、と渓太は言った。
「わがままでも、そこだけは譲れない」
そう言い切る渓太に肩の力が抜けた。知らない間に気を張っていたらしい。
――そうか。無理に譲らなくていいんだ。
「寛人もわがままを言ってもいいと思う」
本当にその時が来るまでわからないが、心は軽くなったと思う。母親から打ち明けられたとき、渓太の言葉を思い出すつもりだ。
この場で渓太に話してみてよかったと心から思った。
「ありがとう」
渓太は渓太らしく、「ん」とだけ返してきた。