浮気され同士

6 【したことで】


「さっきの話。浮気したって言ったら、どうする?」

 挑発するように聞いた。俺は狭間に対して何を期待しているのだろう。まだ少しは俺のことを好きでいてくれていると希望を持っていたのかもしれない。

「俺が言えることもないけど、そんなことでいちいち悩んでんの?」

 狭間は怒るどころか、俺の手を外して、腹を抱えた。「マジかよ」とひーひー笑い始めた。眼鏡をずらして目尻の涙を拭く。

「そうか。お前が浮気するなんてな。良かったじゃん。俺と別れる理由ができて」

 ずっと好きだったはずの顔や声に傷つけられるのは、今に始まったことではない。浮気されるたびに心を削られてきた。好きというだけで、どうにか、かたちを保っていた。保とうとしてきた。それが今、完全に壊れた音がした。

「その通りだよ。俺はずっとお前みたいな男が好きだった。浮気されても傷つけられても、どうやっても別れられなかった。昨日の夜、あいつに聞いたんだ。お前と別れるにはどうしたらいいかって」

 このタイミングで昨夜のことを思い出す。坂根は「俺を利用しろ」と言った。優しい声に揺れた。坂根は慰めるために、抱き締めてくれた。俺はその腕にすがった。きっかけはこいつでも、全部、俺のせいだ。

「それを聞いても辛くない俺って、最低だな」
「本当に最低」
「ごめんって」

 別れ話をしているはずなのに、何でこんなにも心は冷めているのだろう。熱いものがどこにもない。

 狭間は憑き物が落ちたように笑った。

「俺だって、お前なら好きになれると思ってたよ。こんなにも俺の近くに来たやつは初めてだったから。それで付き合うことにした。でも俺には、人を好きになることができなかった。お前でもダメだった。気づいたときに早く別れてやれば良かったな。そうすれば、傷つけることもなかったのに」

 最後まで自分勝手なやつだった。俺と別れても狭間は失恋の痛みを知らない。恋人になる前は、まあまあいいやつだっただけに、哀れに思えてきた。思えたとしても、俺には何にもできない。偽の恋人としているのも、カウンセラーになるのもごめんだ。

「もう終わりにしたい」
「そうだな、友達に戻るか」

 友達には戻りたくなかった。しかし、別れるにしても現実がのしかかる。この部屋から出るのも追い出すのも経済的には難しかった。

「いや、友達より格下の同居人で」
「え、同居は許してくれるの?」
「その辺はしょうがない」

 歓喜のあまり狭間が俺に抱きつこうとしたが、膝の下を蹴ってやめさせた。友達以下となったやつには制裁もいとわない。

「何すんだよ!」

 と、狭間が膝を擦っても、ざまあみろとしか思わなかった。俺はこいつの嫌うカップラーメンが無性に食いたかった。



 坂根のことを想うと、何にも手がつかなくなる。胸の奥が重くなってくる。たまねぎの汁を飛ばしたかのように目は痛む。からしのチューブをぶっ込んだみたいに鼻の奥が痛む。そうまでして泣きたいのは、なぜなのか。

 大学で顔を合わせても、すぐに目をそらす。お互いを認識していないかのように振る舞う。周りの奴らは俺と坂根が女を巡って喧嘩したと思っているらしい。ふたりが浮気をして気まずくなっているとは思わないのだろう。

 気晴らしで行った飲み会に、坂根がいた。示し合わせたわけでもないのに、坂根は俺の隣に座った。肩が触れるか触れないかの距離にいた。

 坂根は誰とも話していなかった。飲みに徹している。あまり飲めないのは知っている。飲み過ぎだ、もう飲むなと言いたいのに、指を握って我慢した。

 坂根と俺の間には透明なパーテションができているみたいだ。壁のように分厚くて見えないもので仕切られていたらいいのに、ちゃんと見える。気配も感じる。声や息づかいも、意識を集中させるとわかる。

 俺も飲みに徹した。飲んでいると、あの夜を含めて忘れられる気がしたからだ。何杯か飲んだところで意識は無くなっていた。薄い幕のような意識のなかで、覚えているのは会話だけだ。耳元でした声に、俺が反応しただけの会話にもなっていない会話だ。

「大丈夫か?」
「あー、はざまに、電話する」
「狭間?」
「んー、はざま」
「恋人の?」
「んー、そうだっけ」

 後で聞いた話によると、俺は狭間を呼び出したらしい。狭間はうんざりした顔で、俺を背負って帰ったらしい。そんなことがあったのを知ったのは、翌朝になってだった。

「お前、ふざけんなよ」

 青筋を立てた狭間は、事の次第を教えてくれた。浮気よりいいだろうと思ったが、頭が痛かったから「ごめん、ごめん」と布団に額をつけて謝った。



 坂根には恋人がただの同居人になった話をしていなかった。これまでに連絡を取ろうとは何度もした。

『遊びに行っていい?』
『飯食わない?』
『あれから、どうなった?』
『話したいことがある』

 どれも送らずに消した。坂根には忘れろと言ったくせに、俺は覚えていたからだ。

 少しずつあの夜のことを思い出した。ベッドの上で抱き締められたときのこと。坂根の吐息、体温、重み。何で忘れていたのだろうということがたくさんあった。

 坂根が夢の中にまで出てきたときはまいった。朝から涙が溢れて仕方なかった。

 連絡を取る手段はあるのに、使うまでにつまずく。スマホを祈るように握り締めて、通知が来ていないことを確かめた。今日も来ていない。飲み会からもう一週間が経っていた。

 大学でも会わなかった。ここのところ体調が悪いのだろうか。今日あたり、部屋まで行ってみようか。いや、迷惑だろうと、行き着いて、考えは同じ場所を巡る。

 部屋を出たところで、朝から同居人と女の顔を見つけた。「うげぇ」と変な声を出したのは、口を付けあっていたからだ。角度を変えて、ちゅうちゅうと吸い合う姿は滑稽でしかなかった。

 俺の冷たい視線を感じたのか、女の人は気まずそうに出ていった。同居人よりかはまだ、空気を読める人だったようだ。元凶はまったく気にしていないふうで、欠伸をひとつした。

「狭間、お前なぁ!」
「ごめんごめん」
「ごめんじゃない」
「連れ込むなってあれほど言ったのに!」
「近かったから、つい」

 同居人は出会った頃のように屈託なく笑っているはずなのに、今はまったく心が動かない。整っているとは思うが、それ以上はない。訴えても一向に響かないことに腹が立つくらいで、他には何にもなかった。

「色々切らしてたから、買い物に行くけど、お前も行く?」
「行くかな。俺も欲しい物あるし」

 恋人ではなくなって変わったことと言えば、こうやって気軽に誘えるようになったことだ。嫌われたらどうしようという、しょうもない考えがない。先に好きになったからという弱みもない。ただ、対等に立っている。服も適当なものでいい。特別である必要はない。この関係がしっくりくる。
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