トラウマ・シェア
6 【名前呼び】
ふたりはソファに座り直すと、これからについて話を続けた。
家賃や家事を半々でというのは、ツカサが言い出したことだ。さすがにすべてをカイ任せにするのは気が引けた。ふたりの生活において、負担を半分でも背負えれば自分も過ごしやすいと考えた。
ツカサの決定にカイは不服そうだった。
「俺が全額出してもいいんだけどな。家事も嫌いじゃないし」
「いえ、そこまで借りを作る気はないので」
「借りかぁ。うーん、そうなるのか」
まだつき合いの浅いツカサにまで気前のいいところを見せてくる。そんなカイを見ていると、不安が頭をよぎった。
「もしかして、これまでの恋人とかにも全部やってあげたんですか?」
「うん、まあね。何かこう、手をかけたくなっちゃうの。最初は喜んでくれるのにさぁ、だんだん重いっていうんだよな」
カイは遠い目をして、長い吐息をもらす。過去を思い起こしているのか、横顔が疲れているように見えた。
ツカサは顔の知らないカイの元恋人たちがどんな気持ちだったのか、自分なりに想像した。
「それはたぶん、その人も横山さんのこと好きだからじゃないですかね。自分も何かしてあげたいって思うのに、横山さんほどにはできなくて辛くなっちゃう……みたいな」
ツカサは自分のとぼしい恋愛経験から話したが、カイの見開いた目に気づいて、途端に恥ずかしくなった。カイはツカサよりも多くの経験をしているだろうに、偉そうに語ってしまった。教えられることなんてないのに。
ツカサの考えとは裏腹に、カイはすんなりとうなずいた。
「そっか。相手も俺に何かしたかったのか。俺は自分のしてあげたいことばっかりで相手のことを考えてなかったかも。次はその辺りに気をつけてみる。ツカサくん、ありがとう」
「いえ、そんな……って、名前?」
ツカサは自分の名前を呼ばれて、違和感を聞き逃さなかった。
「ルームシェアするんだから、下の名前で呼ぼうよ。相沢くんって呼びにくいし、ツカサくんって呼びたい」
「良いですけど。私の方は横山さんって呼びますよ」
「何で?」
「先輩ですし」
真面目に答えたのだが、カイは小さく吹き出した。
「先輩って。俺、33歳よ。ツカサくんはいくつ?」
「30歳です」
「たった3歳じゃない。敬語なんて必要ないよ。ここはプライベートなんだから」
うっかり「わかりました」と言いそうになるが、カイのペースに乗せられてはいけないと思い直した。「いえ、それはダメです」と突っぱねる。
「えー、ダメなの?」
「横山さんが呼ぶには構いませんが、私は呼びませんので」
ルームシェアは一時だ。長く住むつもりはない。せいぜい、退去日を迎え、新居を見つけられれば、この生活は終わる。会社ではほとんど顔を合わせることもないだろう。
冷たいかもしれないが、そこまで親しくする必要はなかった。名前を親しく呼ぶことでのメリットは、ツカサになかった。
「残念。仲良くなれると思ったのに」
「そうでしょうか」
「うん、仲良くなりたい」
仲良くなるという感覚があまりわからない。大学までの友達なら自然とできたが、就職してからは友達というものはできなかった。特に趣味の話をするわけもないし、ほとんど仕事の話で終わる。その中で特に親しい友達を作るのは難しかった。
考えこむツカサに、カイは明らかに焦りだした。
「あ、ここまで言っておいて何だけど、嫌ならいいからね。本当、俺って距離感がわからないからさ。昔から『距離なしで疲れる』とか。ツカサくんが嫌なら『横山さん』のままでいいから……」
カイが焦っているところを見たからか、自虐的な言葉が刺さったのか。どの時点で考えを変えたのか、ツカサ自身にもわからない。特に理由はなかった。
「カイさん」
気まぐれに名前を呼んだだけだった。
それなのに、呼ばれた方はくしゃっと顔を崩して笑う。
「嬉しいな」
ぼそっと呟いた言葉通りに、カイは本当に嬉しいのだろう。全力の笑顔に、ツカサは「うっ」と声を上げた。整った顔をしたカイが笑うと、本当に心臓に悪い。視線をそらして、高鳴った心音を落ち着かせる。
「よし、色々決まったし、寝ようか!」
「え、あ、はい」
カイの切り替えの早さに戸惑いつつも、ツカサは笑顔から開放されて少しだけホッとした。カイの笑顔を長く見つめるとおかしくなりそうだったからだ。
カイに案内された部屋は使われていないゲストルームだった。ベッドとクローゼットと、サイドテーブルと、必要最低限の家具が配置されている。
「定期的に掃除はしているんだけど」
「すみません」
「シーツとかは変えておいたから、安心してね」
何から何までお世話になって、ツカサは頭を下げた。カイは、それに軽く「いいんだって」と返す。
「じゃあ、ツカサくん、おやすみ」
「おやすみなさい……カイさん」
言い慣れない名前を呼んで、呼ばれた当人はまた笑顔で受け入れる。いつかはこんなやり取りも当たり前になるのだろうか。ツカサには到底思えなかったが、これもルームシェアの間だけだ。慣れていくしかないのだろうなと思った。
カイが部屋から去っていくと、ツカサはベッドの上に横たわる。サイドテーブルに置かれたリモコンを操作して、明かりを落とす。そこまではいつものようにできた。
しかし、暗い天井を眺めている間に体に異変が現れた。鼓動が早くなり、首筋が汗ばんでくる。警告の鐘のように耳の奥がうるさい。暗い天井から垂れ下がった女の髪の毛。首に伸びる白い腕。
まるで、あの夜の再現のようだ。
――コワイ。
首を絞められる感覚を取り戻して、ツカサはベッドから起き上がった。「はあっ、はあっ」と乱れた呼吸を落ち着かせようとする。
このまま安らかに眠れる気がしない。ツカサはベッドから立ち上がると、部屋から飛び出した。