きみの家と、その周辺の話
4 【共同作業】
渓太の家は今朝の慌ただしさを残していた。ソファには脱ぎ散らかしたスウェットがあったし、朝使ったのか食器が流し台に置かれたままだった。
「ごめん、汚くて」
渓太はスウェットを乱暴に掴み取って言った。それに対して俺は笑いながら、首を横に振る。
部屋を汚くしているのは、何も渓太だけではないだろう。
特に俺の部屋なんかはひどい。クローゼットまでたどり着かなかった洗濯物の山が、ベッドの端にあったりする。山になると、今さら片付けるのも面倒くさくなっている。
渓太に見せたらどんなリアクションを取るだろうか。自分よりひどい人間がいることに、少しは気持ちが軽くなるんじゃないだろうか。そんな機会があったらなと思う。
渓太は「着替えてくる」と声をかけてきた。「適当に座ってていい」とも言った。
うなずいてから、俺はコートを脱いで畳む。それをバッグとともにソファの端っこに置いた。
そういえばと、以前来たときのように仏壇の前で手を合わせた。渓太のお母さんに向けて、「お邪魔します」と小さく唱えた。返ってくる言葉はなくても、した方は勝手に満足するものだ。
待っているのも暇なので流し台の食器でも洗おうかとキッチンに立った。夕飯をいただくのだし、これくらいはしておきたい。
ただ、このままだと動きにくいので、学ランの上着をテーブルの椅子にかけて、シャツを腕まくりした。暖房が効いてあたたかくなっていた。
洗っている間に、渓太はスウェット姿でキッチンに現れた。
「そんなことしなくて良かったのに」
「いや、お邪魔するんだから、これくらいはしないと」
「じゃ、俺はこっち」
腕まくりをした2人が、横に並ぶ。俺が泡をつけた食器を渓太がゆすいでいく。完全な流れ作業だった。
流し台は狭くて、たまに肘が当たる。身体のでかい渓太が窮屈そうなところが気の毒だ。
「あんまり無いよね。男同士で隣り合って洗い物するって状況」
「確かに、そうかもな」
今の状況を改めて考えたら、面白く思えてきた。笑っているのは俺だけで、渓太は首を傾げながら「だからって、そんなに面白いとは思わない」と不思議がっていた。
俺の目からはとても面白く写るのに、渓太には伝わらないなんて、残念な気がした。
◆
おじさんの分の夕飯も必要なため、カレーを作ることにした。日景家で2日に分けて食べる予定らしい。
にんじん以外の必要な材料は揃っているようだ。なぜにんじんが無いのかというと、渓太が苦手なのだという。お子様のような理由に、また笑いそうになる。
渓太は包丁をまな板の上に置いた。料理はあまりしないと言っていたし、包丁で皮をむくのは少し難易度が高いと思う。素朴な質問が浮かんだ。
「包丁で皮をむくの? 皮むき器とか、ないの?」
「そんなものは、この家にはない」
「そうなんだ」
渓太は深呼吸の末、神妙な面持ちでじゃがいもを手に取った。簡単には声をかけられない重い雰囲気を漂わせている。
包丁で皮をむく。しかし、がっつり刃を立てたらしく、形が角ばっていく。
じゃがいもの芽を取ろうとするのだが、手つきがどう見ても怪しい。手が大きい分、細かい作業には向かないのかもしれない。
不器用に見えるが指を切らないように避けているのは、逆に器用なのか。見ているのが怖いからとは言わないようにして、渓太に声をかけた。
「俺もやってみたい」
貸してほしいと手を伸ばすと、渓太はすんなりゆずってくれた。
家事をこなした経験はあっても、料理はほぼしたことがなかった。せいぜい学校の家庭科ぐらいだ。うちでは電子レンジを使う調理が得意だった。
それでも、包丁を持つ手に緊張感はなかった。角ばったじゃがいもを持って、包丁で芽を取る。何個かやっていくうちに、じゃがいもをどう傾ければ上手く皮むきができるか、わかってくる。
渓太は鍋を用意しつつ、俺の手元を興味深そうに見ていた。
「見てるとやり辛いんだけど」
「ごめん」
渓太の目を意識すると、変に指先に力が入った。目の力が強いせいもある。静かに見ているだけなので、何を思われているのかわからない。だからこその緊張感があった。
渓太のそういうところは苦手だと思う。少しでも表情を変えてくれるなら、気持ちを理解しやすくて安心できるのに。きっと、俺だけではなく、他の人もそう思っているだろう。
「でも……寛人は包丁を使うのが、うまいな」
渓太は口の端を上げる。あの渓太が笑った。首の後ろが熱くなるのを感じた。意識が全部、渓太に集中して、じゃがいもを持つ手が滑る。手元が狂って、包丁の切っ先が左手の親指に当たった。
「いって……」
親指の先端がじわっと痛み出す。
渓太はティッシュボックスからティッシュを数枚抜いてから、俺の手に押しつけた。「これで抑えて」といったきり、どこかへ行ってしまった。
ひとりになってティッシュを指に押し当てると、何をやっているのだろう、と途方に暮れる。
手伝うどころか、迷惑をかけている。渓太はたとえ迷惑だと思っても余計なことは言わないだろう。今日だって断らなかったのも、優しさからかもしれない。そんな優しさに甘えるしかできない自分が、指の痛みとともにまた情けなく思えた。
渓太が再び戻ってきたときには、絆創膏を両手に持っていた。
差し出してくるのかと思って手を伸ばすのだが、渡してくれなかった。
「手を」
手首が渓太の手に包まれた。大きな手は力をこめるわけでもなく、添えているぐらいの力だった。
言葉は足りなかったが、手当てをしてくれるのだろう。何もそこまでしなくてもと思うが、断るのも申し訳ない気がして、待つ。
渓太はティッシュで血を拭き取ってから、丁寧に絆創膏を貼ってくる。近い位置にある真剣な顔は、貼ることに集中しているようだ。不器用な手が小さな絆創膏を貼ってから、優しくひと撫でした。
「これで大丈夫」
相変わらず頬の動きは鈍いのに、目元がやわらぐと優しい顔になった。そんな顔もするのかと、意識がそこばかりに行ってしまう。
大きな手は離れた。俺の手にぬくもりだけを残していく。
言葉が足りなくても、行動だけで優しさがわかる。俺は絆創膏を貼られた指を自分でも逆の手で触れた。
「ありがとう」
顔が熱くてうつむいたまま言った。渓太は「ん」と、うなずくだけだった。
◆
指を怪我したことで、切る作業は渓太にしてもらった。玉ねぎを刻むときに泣き続ける渓太の顔がどれだけ珍しかったか。笑う俺にムッとしながらも、涙がこぼれ落ちて、いつもの強面が崩れた。
ルーを入れて鍋をかき回しながら、先程の渓太の顔を思い出して笑う。少しだけ可愛いと思ってしまった。
スマホを手にしながらキッチンに現れた渓太の前では、笑わないように、と顔を引き締める。またへそを曲げられては困るからだ。
「父さんが、もう少しで帰るって」
「おっけー。渓太は風呂でも入ってきたら?」
「じゃあ、そうする」
そう言ったのに、渓太は動き出す気配はない。
「どうしたの? 風呂行くんでしょ?」
「行く……」
「それとも一緒に入る?」
「は? ……いや、それは無理」
「無理かぁ、傷つくなぁ」
傷ついた振りをしたものの、冗談だった。別に断られても良かった。
渓太の目が泳いでいるように見えるのは、おそらく何かを言いたい時だ。言いたいが、どう話せばいいのか考えているのだろう。
助け舟のつもりで、もう一度、冗談でも言おうとしていたら。
「あの、今日、うち、泊まっていけば」
「えっ?」
「いや、送っていくにしても、夜、寒いし、暗いし。明日、休みだし、なおさら泊まっていけば」
渓太が一気に話してくれた内容に面食らった。こちらから送ってくれるように頼んだわけではないのだが、どうやら今日もそのつもりらしい。確かに夜、薄着の渓太が寒い中を歩くのは困る。見ていて寒くて仕方ない。
「いいの?」
「ん、寛人ひとりならどうってことない」
「着替えも貸してくれるの?」
「ん、必要なもの全部貸す」
何でそこまで熱心に泊めたがるのかわからないが、断る気にはならなかった。
「ありがとう」
渓太は目元を緩めていた。それだけで嬉しがっているのがわかった。