忘れろは、嘘
第4話【蒼空の心】
充が邦紀に告白する1週間前。
昼休憩になると教室を出ていく邦紀を眺めて、蒼空はため息をついた。彼女とつき合いはじめてから、邦紀とは本当に挨拶する程度になっていた。
話したくても向こうが乗り気ではない。すぐに話が途切れる。昼休憩になると、邦紀は後輩のもとに行ってしまう。
自分で招いたことだが、確実に避けられている。あからさまな態度に寂しさを感じながらも、蒼空は彼女と昼飯を食べた。
彼女とは手を繋ぐ以上のことができていなかった。それでも彼女は辛抱強かった。とがめたりはしなかった。
今日も空き教室で昼飯を一緒に食べた後、ふたりで世間話をした。蒼空の話すゴシップに興味をそがれたように窓の外を眺めたりしない。ちゃんと相づちを打ってくれる。こういうときにあいつとは違うと実感した。
ふいに話が途切れた。彼女と蒼空の視線が絡む。恋人同士の良い雰囲気というのは、こういうことなのだろう。蒼空は今度こそ、キスしようと顔を近づける。唇が触れるまであと少し。
既のところで、ある人の悲しい顔がちらついた。伏せた瞼を戻す。胸が締めつけられる。
できない。したくない。自覚してしまえば、もうそこから先には進めなかった。
蒼空は一歩後ずさって、顔をうつむかせる。
「ごめん」
ついに彼女の怒りが爆発した。積もりに積もっていたのだろう。
「どうして、キスしないの? したくないの?」
「したくないわけじゃないよ」
できないのだと、真実は言えなかった。
「じゃあ、わたしのこと好き?」
“好き”と返せばいいのに、蒼空は嘘をつけなかった。黙りこむことが、必然と答えの代わりになる。
「最低!」
彼女のその言葉がしっくり来た。蒼空は自分でも最低だと思う。
「好きじゃないのに、何でわたしとつき合ったの?」
「好きになれるって思ってた」
「好きな人を忘れるため?」
「……俺に好きな人なんていないよ」
好きな人と聞いて一番に浮かんだのは、あの人だった。しかし蒼空の嘘は、彼女を騙せなかった。
「嘘つき。目の前にいるのはわたしなのに、今思い浮かべたのは違う人でしょ」
「そいつはそんなんじゃない!」
口を滑らせたと蒼空は後悔した。
「やっぱりそうなんだ。そいつって誰?」
「誰って……」
「言ってよ」
話をしたくなかった。言い淀んでいると、彼女は蒼空の頬を平手打ちした。
「ホントクソ。あんたなんて、大嫌い。もう二度と、顔も見たくない」
怒りのこもった声を吐き出して、彼女は空き教室を出ていった。蒼空はひとり残されて、頬を撫でる。腫れた頬が自分の愚かさを物語っている。
子供の頃のように無邪気に「好き」と伝えられたら、どんなにいいだろう。彼女のように本音でぶつかれたらどんなにいいか。思ったとしても、蒼空は何もしなかった。動かなかった。
吐き出すため息は、重かった。
蒼空が彼女に振られてから、1週間が経った。放課後、生徒会室に行くまでの通路で声をかけられた。
話したこともない意外な人物で、蒼空は戸惑いしかない。邦紀が何度も「可愛い後輩」と言っていた男だ。
蒼空から見れば、どこに可愛げがあるのかわからない。笑いもしない、無愛想な男。身体が小さいことと、長めの髪がさらさらなくらいだ。
わざわざ「村居せんぱいとは仲良くさせてもらっています」と挨拶をしてくるのも、可愛くない。「安屋充です」と言われても、覚える気はなかった。今のところ可愛らしさを微塵も感じられない。
なぜこんなにも安屋充に対して冷たい気持ちしか持ち得ないのか、蒼空自身もわからなかった。
「本題は?」
話を早く切り上げたくて、蒼空は不躾にたずねた。
「俺、村居せんぱいに好きって言いました」
自分では伝えられないことを後輩は告げたと言う。人目はないものの、はっきり言える後輩に、蒼空は面を食らった。
「へえ。それで、あいつはなんて?」
「教えたくありません」
「振られた?」
半笑いになったのはバカにしたわけではなく、動揺を隠すためだった。
自分では好きと言えないくせに、他の誰かとは付き合ってほしくないと思っている。どうか、この男を振っていてほしいと願ってしまっている。
充は不快そうに蒼空をにらみつけた。
「振られましたよ」
「そうか」
人の不幸なのに、ホッとした気持ちになる。蒼空の顔は嬉しさで崩れていた。その顔が気に障ったのか、充は蒼空を指差してきた。
「笑わないでください。俺はちゃんと真っ向勝負して振られたんです。あんたとは違う」
「確かにね。俺は好きな人に好きって言えないから」
「どうして、言えないんですか?」
「重いんだよ。好きって言葉が軽く感じるくらい。長年、積もり積もった想いだから。本当に好きな人には、こんな俺から逃げてほしい」
「その割にはちゃんと振らないんですね。あいまいにしておいて、本当ははっきりさせたくない。“村居せんぱい”が本気でぶつかってきたら、あんたはどうするんです? いや、やっぱり聞きたくないです。じゃ」
言うだけ言って充は、後ろを向いてそのまま歩いていってしまった。残された蒼空は、自分の頭を抱えて、「怖いな」と呟いた。
充にすべて見透かされていた。邦紀と充となら幸せになれるかもしれない。それなのに、想像しただけで胸が苦しい。なぜ自分じゃないのかと思ってしまう。
蒼空は自分の胸に手を当てる。胸の中にいつも、邦紀がいた。
幼い頃の邦紀は体が弱かった。蒼空は毎日のように見舞った。欲しがるままに学校の話をした。
ベッド上の邦紀は、蒼空の話を聞きながら、目を輝かせていた。だが、何日かぶりに学校に行く際には、不安そうに目を伏せた。
かなりの期間休むと、学校に行くのが怖いらしい。そんな友人を元気づけたくて、蒼空は無邪気に伝えた。
――「僕がそばにいれば、学校なんて怖くないよ。だから、ずっと一緒にいよう。僕はクニが大好きだから!」
思えばあの頃からだ。邦紀には自分が必要だと本気で信じた。
この思いが小学生時代で終わっていれば良かったのに、10年経っても変わっていなかった。
さらに重くなっている。蒼空は親友相手に重い感情を持ってしまった自分を恥じていた。親友ヅラして、隣で性欲を殺しているなんて、知られたくなかった。
どうにかして遠ざけなければ、邦紀を逃がせなくなる。だから、わざと突き放そうとした。それなのに。
――「俺とお前がつき合えば、彼女はいらねえし、そうすれば、お前とずっと一緒にいられるだろ」
蒼空は嬉しすぎて、何度も思い返した。すぐに、邦紀の口から「嘘だ、忘れろ」と言われたが、忘れるわけにはいかなかった。忘れたくなかったからだ。
蒼空の頭のなかで、邦紀の顔が浮かぶ。眉間にシワを寄せて、耐えるような表情だった。肩が震えていて、今にも泣きそうだった。
話し終えた時、悲しく笑った。邦紀のそんな表情は、はじめて見た。
蒼空は拳に力をこめていた。抱きしめたくなるのを必死に堪えていた。これでいいと自分に言い聞かせた。
それなのに、彼女とキスする寸前で浮かんだのは、邦紀のその顔だった。
「さすがにこのままじゃなぁ」
終わらせなければ、次の恋もできやしない。誰に言うでもなく呟いて、蒼空は歩き出した。