きみの家と、その周辺の話

3 【ふたりのルール】


 俺はあくびを噛み殺しながら、スマホのアラームを止めた。時刻は朝の7時。母さんはまだ帰ってこない。おそらく帰るのは、10時頃になるだろう。

 母子家庭となってから、親子の間にはルールがいくつかできた。特に適用されているのは、午後9時までの門限と、できる方が家事をやることのふたつだ。

 母さんがどれだけ働いてくれているか、知っている。父さんと離婚した後、パートから正社員として働くようになったことも。毎日くたくたになりながら帰ってくることも。

 だからせめて、自分のできる限りのことはしたかった。面と向かって母さんに言わないが、心の底からそう思っていた。

 洗濯ができるまでの間、冷蔵庫のなかを探る。昨晩、食べそこねたものが、本日の朝食だった。

 母さんが用意してくれたのは、肉団子と春雨サラダとスープだった。

 肉団子はトマトベースのたれがかけられており、上にはごまが振られていた。春雨サラダにはきゅうりとハムが入っている。スープはわかめと卵を落としたものだった。

 電子レンジをフル活用して、おかずを温め直すと、手を合わせて「いただきます」と言った。炊いておいたご飯と一緒に食べると、本当に美味しい。

 美味しいのだが、昨日のチャーハンを思い出した。チャーハン自体は特別うまくできたわけでもないのに、渓太と一緒に食べると美味しかった。

 はじめて行ったはずの家なのに、居心地も良かった。おじさんもいい人そうだった。

 この時間になれば、渓太も起きているだろうか。

 こちらから挨拶をしておこうかと思い、スマホを起ち上げると、ちょうど通知音が鳴る。

 画面の表示を確かめて、顔がにやけそうになった。

 それは渓太からのメッセージだった。「おはよう」とシンプルな挨拶。昨晩もそうだが、結構マメな方なのだろう。スタンプを返すと、すぐに既読がついた。どんな顔で画面を眺めているのか、想像したらおかしかった。



 学校に着くと、廊下で渓太とすれ違った。同じ学校に通っている限り遭遇するのは当たり前だろう。こちらは身構えることなく、「おはよ」と声をかけた。

「あ、ああ」

 ぎこちない挨拶だった。その目は、まるで話しかけられるとは思っていなかったように揺れていた。

 学校でいきなり話しかけるのは迷惑だったのかもしれない。昨晩、一緒に夕飯を食べたからといって、馴れ馴れしかったのかもしれない。

 おそらく、渓太は学校では俺と話さないと決めている。あくまでも昨晩のような場面でなければ、話してはいけないのかもしれない。そうやって壁を作られるのが、とても残念だった。

 次の言葉を考えるのをやめて、「じゃあ」と教室に逃げるように入った。渓太が引き止めるかのように名を呼んできたが、振り返らなかった。

 元々、ふたりに接点はなかった。同じ中学に通っているだけ。もしあの日、夜の公園で出会わなければ、接点なく卒業式を迎えているはずだった。

 名前を呼ぶことも、挨拶をすることもなかったかもしれない。寂しいが、渓太がどう思うかが大事だ。渓太が話しかけたくないなら、自分もそうするまでだ。

 ここで線引きがされてよかった。そう納得するしかなかった。



 そんなことがあっても、渓太からのメッセージは届いた。学校では話しかけられたくないくせに毎朝、短い挨拶が届く。

 学校で受けた素っ気ない態度は許せないが、挨拶だけでもよかった。今、この時間に渓太が朝や夜を迎えていると思うと、胸の辺りが温かくなってくるのだ。

 朝食を食べ終えた余韻でダイニングテーブルに着いたままでいると、母さんがエプロンを外しながら現れた。

「あ、そうそう、寛人。今日はお母さん、夜勤だからね」
「そっか。わかった」

 何ともないように返す。忘れていた冷たさが、身体を包む。その冷たさをいっそう感じたのは、渓太を思い出したためだ。

 渓太の家で受けた一晩の温もりが心地よかった。そんないい思いをしたせいか、ひとりだと孤独を強く感じる。

 スマホでメッセージを送った。

『母親が今日、夜勤らしくて家にいない。夕飯一緒に食べない? ダメならいいんだけど』

 一気に入力して、勢いで送る。『ダメならいいんだけど』と断られてもいいように保険もかけた。渓太には自分の余裕がないところを見せたくなかった。

 実際はいろいろと弱いところを見せている気がするが、感情のすべてを見せたわけではない。もっと奥底にある寂しさは、渓太や他の人には理解してもらえないだろう。それくらいは自分でもわかっている。

『いいよ。あの公園で待ってて。迎えに行くから』

 早い返信に驚きつつも、断られなくて良かったことに肩から息をついた。

 しかし、学校から一緒に帰ったりはしないんだな、とか。公園で待ち合わせしてからでないと、いちいち会えないのか、とか。

 考えれば考えるほど、渓太の線引きの細かさに苦笑したくなった。

 もっと友達みたいに普通に会いたいのに。悪いことをしているわけでもないのに。

 その辺りは渓太と話してみてどうにかならないだろうか。俺はもっと、渓太に近づきたいと思う。



 日が傾いてきて、街灯が点き始めた頃。

 待ち合わせの時間は特に設定していなかった。ゆっくり行けばいいと思っていたのに、すでに公園についてしまっていた。

 公園内には、小学生ぐらいの子どもたちが、まばらにいた。ブランコを立ちこぎしていたり、どこから声を出しているのかわからないような叫び声を上げたりしている。聞き慣れない歌は、アニメのものだろうかと思った。

 つい何年か前は、自分もそちら側にいたはずだった。中学生になると落ち着くものだなと思いながら、花壇近くのベンチに腰をかける。

 渓太はまだ来ないのだろうか。スマホのゲームで暇つぶしでともしておくかと画面に触れていたら、通知音がした。

『もうすぐそっちつく』

 早く来すぎたから長く待つかと思っていたのに、そうはならなさそうだ。了承の意思をスタンプに返す。それにもすぐに既読がついた。

 白い息を吐きながら、渓太は現れた。

「寛人」

 コートを着ている渓太を見たのは、はじめてだった。険しい顔に黒いコートが似合っている。ここにはないが、サングラス、髪の毛を後ろに撫でつけたら、かなりやのつく人に近づくだろう。

 肩にバッグをかけているから、学生なんだと現実に戻される。そのちぐはぐな様子がおもしろくて笑った。

「何か、変か?」
「ごめん。変とかじゃなくて、その黒いコートがそっちの人っぽく見える。髪型とかサングラスしたら、もっとそれっぽく見えるなぁって」
「そっちの人……」
「あ、見た目だけだからね。渓太はそんな怖い人だと思わないし」

 フォローしようと言葉を並べたものの、渓太の表情が暗く見える。眉間にシワを寄せて、唇を強く結んでいる。

 実は自分の見た目を気にしているのだろうか。そうだとするなら、渓太にひどい言葉を吐いたのだろうか。謝ろうと口を開いたときには、話は終わっていた。すっかりタイミングを逃したらしい。

「家、行こうか」

 渓太は普段通り、無に近い表情に戻っていた。

「う、うん」

 せっかく感情をあらわにしてくれたのに、俺はそれを受け入れることができなかった。
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