番外編

【日中を嫌わない】本編後


 日中の家の前まで来て、2階を見上げた。恋人になって、はじめてのお宅訪問だ。

 しかも今日は、夕方まで家には誰もいない。日中とふたりきりだという。緊張感もあって、俺の口のなかは乾いていた。

 ほら、恋人の家に行くなんて、何か色々期待するというか。キスぐらいはするんだろうかとか、変なことばかり考える。

 もし、このドアが開いたら、「寒かったよね、小花。ほら入って」と、俺の腕を引き、そのまま玄関先でキス……。

 いやいや、あるわけない。首を横に振って、「期待するな」と自分をおさえた。

 考えてみれば、日中はそんな強引じゃない。「キスしてもいい?」「手を繋いでもいい?」と全部、事前に聞いてくる。「小花が嫌ならしないけど」と必ず言ってくる。

 日中は紳士だ。俺みたいに一喜一憂して、一度くらい強引にされてみたいなんて、子どもっぽい思考とは違う。優しくて、包容力もある大人なのだ。

 本当に何で、俺と日中はつき合っているんだろう。まったくわからない。

 俺の着ている服は、安定の白パーカーと上には黒いジャケット。パンツはカーキ色。デート(くそ恥ずかしい響き)よりかは気合いが入っていない感じを意識していた。

 あんまり気合い入れたら、恥ずかしいし。家で遊ぶだけだし。たぶん。

 人の家の前で突っ立っていると不審者だから、さっさとインターホンを押す。本当は普通に入っても怒られないが、何となくお客の気分でそうした。

 そんなに待たされずに鍵が外されて、ドアが開かれる。

「いらっしゃい」

 玄関口に現れた日中は、上下黒のゆったりとしたルームウェアを着ていた。下はワイドパンツ。重ね着した白いシャツが上着の裾からのぞく。首には丸い輪のついたロングネックレスをかけている。

 日中が着ると、ラフな感じでも、単なるルームウェアには見えない。服をちゃんと着こなしているというか。格好良すぎて戸惑うというか。

「小花?」

 かなり見つめすぎていたかもしれない。いい加減、彼氏になったんだから見慣れろという話だが、日中の格好良さが日に日に増している気がする。ついつい見惚れてしまうのだ。

 「ん?」と小首を傾げる日中。このままじゃいけないと思い直して、俺は息を吐き出した。

「な、んでもない。お邪魔します」

 これまでも日中の家には足を踏み入れたことがある。2階の一番奥の部屋、ドアを開ければ見知った風景が広がる。

 なのに、「どうぞ」と招き入れられた日中の部屋に入った瞬間、心音が一段階上がった。

 日中の匂いがする。いつも嗅いでいる匂いなのに、より濃く感じて、俺は胸が詰まった。

 何か緊張する。日中は立ち尽くしたままの俺に優しく笑いかけて、「座ってて」と言った。

 「座ってて」と言われたものの、ベッドに腰かけるのはためらわれた。無難に床に座るのがいいかもしれない。

 クッションを引っ張り出して、そのふかふかの上にあぐらをかいて座った。

 リモコンを操作しなくても、ちゃんとエアコンの暖房がかかっている。日中が入れておいてくれたのだろう。気が利く男だ。

 俺はジャケットを脱いで、適当に折り畳むとクッション横に置いた。

 「お待たせ」と現れた日中。お盆にはマグカップがふたつが並んでいた。果物の妖精のキャラクターが描かれたマグカップ。日中の手によって、テーブルに移されていく。

「砂糖ふたつ。ミルク多めにしたよ」

 俺の好みも日中はちゃんと承知している。

「ありがとう」

 当然と言えば当然だが、お盆を置いた日中は俺の左隣に座った。並んだマグカップのように距離はなく、肩が触れそうだった。

 まだ触れてもいないのに、日中の気配だけで体が熱くなってくる。胸が詰まりそうで、吐き出した息までも熱く感じた。

 クッションからはみ出た俺の左手。日中の小指が軽く触れる。触れたというのは言い過ぎかもしれない。

「手、握ってもいい? 嫌なら……」

「に、握れよ。嫌じゃないから」

 それにしても、いちいち俺が嫌がっている前提なのが悲しい。日中に触れられることが嫌なわけないのに。むしろ、こちらから触れたいのに。

 日中はいきなり触れられるのが嫌だったりするのだろうか。だから、俺に嫌ならやめると言ってくるのだろうか。

 包みこむように優しく握られる手。利き手ではない左手で器用にコーヒーを飲む日中。

「小花の手、冷たい」

「そ、そっか?」

 熱を移すように指を擦られる。俺も落ち着くためにコーヒーをすする。少し勢いつけたせいで、舌の先がやけどしたみたいだ。「あちい」と、ひりひりした舌先を出す。

「大丈夫?」

「ん、大丈夫。ちょっと舌がやけどしたみたい」

 日中が顔をのぞきこんでくるので、ほれと舌を見せてやる。いつもより赤くなったりしているかもしれない。

 舌を見たはずの日中は、目を見開いた。そんな驚くこともないだろうに。

 なぜか日中の顔面が近づいてくる。口を閉じる余裕もなかった。

 コーヒーの香りが鼻の奥に通っていく。下唇に感じたやわらかさ。額にかかった日中の前髪と、目前に迫ったまつ毛の長さに驚く。

 これはキスだ。俺は慌てて瞼を閉じた。

 どうやら断りもなくキスというものをされたらしい。ひりひりした舌先に厚みのあるぬめったものが触れる。

 いやらしくかき乱されるというのではなく、労るようになぶられている。ざらついた舌が俺の舌をこするように動く。

「ん、ふ、うっ」

 声が漏れて、できれば自分の口を塞ぎたい。

 でも、嫌じゃなかった。日中の舌が自分の口のなかにいるのも、吐息も全部、許せた。

 もっと、溶け合うようなキスがしたい。何にも考えられないような強く深いキスがしてみたい。

 俺は先の期待をこめて、日中の服を掴んだ。自分からでもつたないなりに舌をからめた。

 調子に乗って積極的に出たのが悪かったのか、日中の顔は離れていく。

 俺の手を握りこんだ日中は、目を伏せた。

「ごめん」

 はあ? だった。何がごめんなのだろう。

「ごめんって意味がわからない。俺はもっと、日中としたかったのに。日中の方こそ、あんまりしたくないんだろ? いちいち『嫌ならやめる』って、言ってくるし」

「それは強引にいったら小花が怖がるかなって思って。ちゃんと断っておかないで小花に拒否されたら、僕は生きていけない。小花にはとにかく嫌われたくないんだ」

 生きていけないは大げさだと思ったが、そこまで日中がこじらせていたのは知らなかった。何の救いになるかわからないが、俺は日中の不安を溶かしたくて笑ってやった。

「嫌わない。俺は日中のことを嫌わない。すげえ好きって気持ちが、いつも上回ってる」

 大事なことだから、「嫌わない」と2回言った。日中は思ったより大人じゃなかった。余裕ぶっていただけで、本当は弱気なだけだった。

 今度は俺からキスを仕掛ける。唇をくっつけるだけの俺のへたくそキス。

 それでも日中はしまりなく笑った。目を細めて、俺の好きな満面の笑顔に変わる。

「じゃあ、これからは遠慮なく行くけどいい? 最後の確認だけど」

「おう、日中のやりたいようにやれよ。俺が全部受けとめるから」

 俺の言葉を待たずに、日中は腕を広げて抱き締めてきた。背中がベッドの縁にぶつかるくらいの勢いで、俺は「いてえ」とうめく。元凶は「大丈夫?」とたずねてきて、背中を優しくさすってくる。

「勢い良すぎなんだよ」

「ごめんね」

「謝んなって」

「いや、これからのことを含めて。もっと痛いかもしれないし」

「は?」

 俺は初めて日中の笑顔を前にして、身震いを感じた。

 そして日中の言葉の意味を、その日のうちに知ることになる。

〈おわり?〉
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