きみの家と、その周辺の話

2 【家訪問】


 住宅街の奥まった場所にある一軒家が、日景家だった。塀に囲まれた2階建ての家だ。

 外から見る限り、窓は暗く、中の様子はまったくうかがえない。それが他の人の家だとしても、誰もいない空間を想像するだけで、胸の辺りが冷たくなった。

 アパート住まいの俺でさえ、ひとりだと狭い部屋が広く感じる。一軒家となれば、その広さは倍だろう。寂しさも倍になるのかもしれない。

 玄関から真っ暗な通路に向けて、「お邪魔します」と言った。渓太は家主の代わりに「ん」と返した。

 リビングに着くと、渓太は慣れた手つきでリモコンで操作した。まばゆい光が家に灯を与えるみたいに温かく変える。エアコンも息を吹いて動き出した。渓太は仏壇に手を合わせてから、俺に顔を向けた。

「ソファに座ってて。烏龍茶でいいか? うちにはそれくらいしかない」
「うん、烏龍茶がいい」

 渓太の言葉に甘えてソファに腰かけた。コートとマフラーを外して、ソファの脇に置く。

 渓太はというと烏龍茶を出すだけ出して、2階に上がった。

 途端に静かになる。座っているだけでやることもないので、リビングを見渡すことにした。

 本や雑多なものが飾られた棚の上には、女性の写真と渓太の写真が飾られている。

 微笑みを浮かべる髪の短い女性は、きっと渓太の母親だ。細い腕に赤ちゃんを抱えている。背景にある白いベッドと入院着は、出産後の姿だと思った。

 小型の仏壇は、腕を広げるかのように開いていた。そこに飾られた女性の写真は、棚の上の写真と同じ人だった。眩しい白のシャツとジーンズ。広げたレジャーシートの上に座っている。写真の女性はひたすらに、カメラの先の人を優しく見つめている。

 きっとピクニックしたときの場面を切り抜いた写真なのだろう。

 仏壇には埃が一切なかった。仏飯も上げている。日景家にとっては一番、大事な場所なのだろう。

「お邪魔してます」

 手を合わせた。お線香もあげたかったが、渓太に断ってからしたかった。

 綺麗に掃除された仏壇を眺めていると、渓太も父親も毎日こうして手を合わせているのだろうか。そんなふたりの姿を想像するだけで切なかった。

 しんみりとしていると、渓太がリビングに戻ってきた。毎日の習慣なのだろう。腰に手を当てて溶かしたプロテインを飲んでいるのを眺めながら、さすが運動部らしいなと思った。

「うまいの、それ?」
「まあ、それなり」

 会話は発展しなかった。渓太が冷蔵庫を開けたときには、俺も見える位置まで移動して、その模様を背後から観察した。

「大したもん無さそう」

 渓太は冷や飯と卵とハムを取り出した。マヨネーズもなぜかあった。聞いてみると、隠し味に入れるらしい。

「チャーハン?」
「ん。冷凍のぎょうざもある」
「中華か、うまそう」

 俺は学ランの上着を脱いで、シャツの袖をまくった。ほぼ手伝うことはなかったが、隣で漢のチャーハンを作る渓太を眺めているのは楽しかった。

 ハムや具材の切り方は雑だし、フライパンからチャーハンは溢れるし、それでも温かい湯気が食欲をそそった。

 餃子の乗った皿を真ん中に、チャーハンを盛った皿をそれぞれダイニングテーブルの上に並べる。

 ふたりで向かい合って席に着く。手を合わせて「いただきます」と声をそろえた。

 渓太の食べっぷりは良かった。休まずにチャーハンを口に運び続け、あっという間に平らげた。ぎょうざは熱かったらしく、はふはふして口の中を冷まそうとしているのがおかしかった。

 笑ってしまうと、渓太は眉を上げて目を見開く。気に障ったら申し訳ないと思って、俺は笑う口を手で隠した。

「ごめん。渓太って、そういうことしなさそうだから。熱いのも冷たいのも平気な顔して食べると思ってたから、おかしくて」
「寛人も」
「ん?」
「いつも笑っててすごいなと思っていた……」

 渓太はすごいと言ってくれたが、こんな自分が好きではなかった。ヘラヘラ笑っているのは父親からの遺伝子を受け継いだだけで、特に心がけていることではない。

 むしろ、渓太のように誰の顔色もうかがっていない姿勢がすごいと思う。

「公園で話したとき、あんな寂しそうな顔もするんだと思った」

 渓太の前でどんな顔をしたのか、自分ではわからない。表情を隠すのは得意な方だと思っていただけに、渓太にバレていたことが意外だった。

「ひどい顔だった?」
「や、人間らしいと思った」
「人を機械みたいに」

 どちらかといえば、感情の変化が少ない渓太の方が当てはまると思うのに、うまく反論できなかった。

 渓太は首を横に振る。

「機械なんて思ったことない。ただ……」

 ただ、何なのか。待っても、次の言葉はない。結局、渓太は言葉が浮かばなかったのか、熱々のぎょうざを口に入れて苦しんでいた。

 「皿洗いぐらいはするよ」と渓太に申し出ると、風呂に入ると言い出した。もうそんな時間かと思う。すっかり暮れて、夜の8時になっていた。

 洗い終えると途端にすることが無くなり、あくびが出た。ソファに腰をかけて、スマホで動画を眺める。暇つぶしには最適だった。

 「ただいま」と声がした。

 身構える隙もなく、リビングに現れたのはコートを纏った男性だった。

 渓太と同じくらい短髪だが、顔は怖くない。眼差しは鋭くなく、目尻は垂れている。ただ、仕事帰りなのか、顔にはシワが深く刻まれていて疲れが見えた。

 俺はソファから立ち上がった。目が合うと、男性は驚いたように瞳を丸くした。

「あれ、渓太のお友達かな?」
「はい、渓太くんと同じ中学に通ってます。す――じゃなくて、海和寛人っていいます」

 ここでも鈴木と言ってしまいそうになるが、どうにか言い直す。

「海和くんね、よろしく。僕は渓太の父です。で、うちの渓太は?」
「今、お風呂に入っています」
「そっか」

 おじさんはダイニングテーブルの上に弁当屋の袋を置く。今日の夕飯なのだろう。おじさんから夕飯は食べたのかと問われて、「はい、いただきました」と返した。

 おじさんは仏壇に手を合わせて「ただいま」と言った。

 ちょうど、渓太も頭をタオルで拭きながら現れた。

 渓太とおじさんが顔を合わせたところで、「ただいま」「おかえり」と会話をする。長年の親子関係を表すように、自然に会話が続く。

 話に入れないという疎外感はなく、懐かしさが強かった。少し前までは自分の父親ともこういう会話ができていた。何にも気を使わず、言いたいことを言えていた。

 日景親子の会話を微笑ましく眺めていたが、そろそろ門限が近かった。上着とマフラーを着こむ。渓太はそんな俺に気づいたようだった。

「寛人、もう帰るのか?」
「うん。ごめんな、長々と居座っちゃって」

 渓太は首を横に振る。

「夕飯に誘ったのは俺だし。楽しかった」
「俺も楽しかった」
「海和くん、うちで良かったらいつでもおいで」

 そういったおじさんは笑顔だった。その隣の渓太もうなずく。

「ありがとうございます」

 玄関口で別れるはずだったのに、外まで渓太はついてきた。夜の道は危ないとか、何とか言って。

 スウェットにベンチコートを羽織った姿で、湯冷めしないかと気になった。当の本人は「このくらい平気だ」と取り合ってくれなかった。

 点々とたたずむ街灯が道の先を照らす。眩い下と、薄暗がりの下を交互に抜けていく。ひたすら歩いていたら、「寛人」と力の入ったような声をかけられた。

 反射的に後ろを振り返る。渓太は眉間にシワを作って、こちらを真っ直ぐにらんでいた。どんな真剣な話なのだろうと身構える。「なに?」と促したのは、決して短気からではなくて、そうしたほうが渓太も話しやすいと考えたからだ。

 重々しい口が開かれて、飛び出してきたのは意外なものだった。

「連絡先を教えてほしい」
「えっ? いいけど」

 あっさり答えてやれば、渓太は面食らったような顔をする。断られると思っていたのだろうか。確かに、面識のない人間に急に言われたら警戒するだろうが、渓太相手にはまったくなかった。

 どちらかといえば、こちらからお願いしたいくらいだった。一度、交換してみたかった。単なる好奇心といってもいいかもしれない。

 渓太はどんな文面を好み、どんなスタンプを使うのだろうか。案外、スマホを通じてだと話しやすいかもしれない。

 スマホを両手で握り締める渓太に、また笑ってしまった。

 笑うなと怒られるかと思いきや、「嬉しいんだ、仕方ないだろ」と周りの方が恥ずかしくなるような発言をしてきた。

 その夜、ちょうど寝る前に渓太から連絡が来た。スタンプも絵文字もなく、ただ『よろしく』と1文だけだった。
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