きみの家と、その周辺の話

18【別れ】


 父さんの手が離れていくと、頭の重みが消えて少し寂しく思えた。軽くなった頭の上を昼間の風が吹いていく。

「あのな、俺だって、寛人や母さんを手放すとき、全然、平気じゃなかった。離婚するって言い張る母さんに何度も頭を下げたし、足にもすがりついた。
でも、俺が黙って連帯保証人になったこと。負債を抱えてもしばらく相談しなかったことが一番の問題だと言われた。
本当の意味で家族を信頼してないってな。
その通りだと思う。
寛人との別れのときも、無理して笑ってた。
こんな俺には、もう笑うしかなかったから。
泣いてすがっても戻らないことはわかっていたし、せめて、最後は笑おうとした。
馬鹿な父親でも笑った顔だけは覚えておいてほしかった」

 父さんは瞼を下ろして、口の端を上げた。それは笑っているというより、諦めたように顔を緩めただけだった。

 どうしてあのときは、この顔で笑っていると思えたのだろう。どう見ても無理しているのに。今、父さんの本音を聞かされたから、わかるようになったのだろうか。

「ひとりになってしばらくは、誰かとつき合うとか、ましてや結婚なんて考えなかった。
どうにか1円でも多く返して、こんな日々を終わらせたかった。
それなのに、会社の事務してる娘が、やたらと俺を気にしてきてさ。
相談にも乗ってくれた。
ヘラヘラ笑っている俺とは違って、すごく真面目で笑わない娘で。
ある日、その子が言ってくれたんだ。『おもしろくないなら笑わなくていいですよ』って。『わたしもあなたを笑わせるつもりはないですから』って無表情でさ。
何かその時に、バカなプライドみたいなものが無くなった。
ずっと、家族の前でもプライドを掲げて、何でもないように装ってた。
本当は辛いくせに、笑ってた。
母さんが言っていたのはこれだったと、このときにようやく気づいたんだよ。
家族なのに苦しいところを見せられなかったなんて、俺はどれだけ馬鹿なんだろうな。
早く気づけば、寛人も母さんもを手放さなくて済んだかもしれない」

 どう言っても、かもしれないという可能性でしかなかった。壊れたものはどうやっても元に戻らない。壊してから気づいても遅いと、誰かが言っていたような気がする。

 しかし、見方を変えれば、前向きになれる。両親が離婚しなければ、渓太とも会えなかった。大切な人にはならなかった。ただ他人のまま、中学を卒業して、会うのは同窓会くらいだったかもしれない。

「でも、再婚なんて、驚いた」
「俺が一番、驚いたよ。まだ、こんなおじさんでも恋に走れたんだなぁってさ。
はじめは彼女のほうが押しかけ女房みたいだったけど、すがりついて頼みこんで、ようやく結婚をしてもらえた。子供もできた。借金も必ず返すしな。もちろん寛人のことも考える」

 久しぶりに父さんの目を見たかもしれない。真剣なはずなのに、口元は相変わらず笑っている。この顔を受け継いだ者として、本当に損だと思った。真面目なときにもニヤケ顔をやめられないから、信じてもらえない。

「俺のこと、考えてくれるんだ」
「そりゃあ、お前は俺の子だぞ」
「そのうち、藤崎さんの子になるかもしれないけど」
「藤崎さんって誰だ?」
「母さんのいい人」

 父さんは知らなかったらしい。衝撃があったらしく「嘘だろ」と頭を抱えていた。あんたも再婚しただろうがと突っ込みたくなるが、父さんにしてみれば母さんは初恋の相手だったらしいし、色々と思うことがあるのだろう。

 藤崎さんがどういった人物なのか、父さんの質問に沿って答えていけば、「幸せならそれでいい」と行き着く。結局はこの父さんも、母さんが幸せであればいいと思うのだろう。俺も同じだったように。

「これから、用事があるんだけど」
「おお、そんな時間か」
「今日は会えてよかった」
「俺もだ」

 たった数分のできごとだったが、とても濃い時間だった。

「うん、父さん、また連絡するから。いつか、笑わない奥さんと子供にも会ってみたいな」
「おう、いつかとは言わず、近いうちな」

 話してしまえば何てことはなかった。

 かつては家族だった。一緒には暮らせないが、やっぱり父さんは自分の父だと思えた。

 父さんとは、ここで別れる。でも、また会える。あの時のような、こうしておけばよかったという思いはない。それだけで、会ってよかった気がした。
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