トラウマ・シェア
19【変わらない】
朝には昨晩のやり取りがなかったかのように、日常が進行した。ふたりの間に流れる空気は、表面上は変わらなかった。
カイが細々と世話を焼く。それを申し訳無さそうにツカサが受け入れる。ふたりの暮らしは元々そういうものだった。特に変化を必要としていなかった。
しかし、ツカサだけは自分のことを「私」と呼んだ。カイから一線を引いていた。引いておかなければ、面倒なことになりそうだったからだ。
今まで普通だと思っていたカイの行動が、ツカサの心を揺さぶった。
ソファの背もたれからツカサの顔をのぞきこんで、「おはよう、ツカサくん」と微笑んだことからはじまり。
朝食を食べているときに、ちらっと見ればカイがツカサを見ていたこと。片づけをはじめたツカサに、カイが「ありがとう」と声をかけてきたこと。加えて満面の笑顔もついてきたこと。
ツカサは心臓が暴れ出して直視できなかった。
カイにとっては誰に対しても変わることのない行動なのに、ツカサは特別なもののように感じてしまう。うぬぼれる自分を叱責するように、ツカサはまた視線をそらした。
朝食が終わり、それぞれ支度をし始める頃、カイに呼び止められた。
「あ、そうだ、ツカサくん。今夜は帰るのが遅くなりそうだから、夕飯は適当に食べてくれる?」
心内では「えっ?」と言っていた。それほど受け入れるのに時間がかかった。
今までが異常だったのだろう。カイならば誘いもたくさんあるだろうし、他の人と何が起きてもおかしくはない。
むしろ、ツカサとだけ帰ったり、食事をしていることがおかしい。そう思うのに、ツカサの気持ちは晴れなかった。
――いつの間に、一緒に帰ることが当たり前になってたんだろう。ただルームシェアしているだけのくせに。
「ツカサくん、聞いてた?」
カイの言葉に気を取り直したツカサは、笑いながら自分の気持ちを誤魔化した。
「あ、聞いてました。もちろん、いいですよ」
カイが誰かと出かける。些細なことだとしても、ツカサは考えずにはいられなかった。誰と出かけるのだろう。本人にはさすがに踏みこみすぎて聞けなかった。
――もし、出張前に連絡した元カノだとしたら、どうなるんだろう?
そんなことを考えたとしても、どうなるのかなんて当事者にしかわからない。そもそも他人に口を出す権利はない。ツカサとカイの関係は、ルームシェアの相手というだけだから。
わかってはいても、ツカサは昼食を食べているときにも考えていた。社員食堂で同僚と向かい合わせに座りながら、思考の中だった。
「なあ、相沢、無視すんなよ」
同僚がすねる。何度か呼ばれていることに気づかないほど、ツカサは深く考えこんでいたらしい。
「あ、ごめん」
「調子悪いのか?」
「そんなことはないけど」
ツカサはそう返したものの、健康だという証明にはなっていなかった。しょうが焼き定食にほとんど手をつけていないし、終始、ボーッとしている。同僚はそんな状態でいるツカサを見かねて話しかけてきた。
「彼女とうまくいってないのか?」
「えっ?」
いつの間に話がそちらの方向に行ったのか、ツカサはわからなかった。
「何か、ぼーっとしてるし」
「彼女は今いないし、そういうことじゃないから」
「あ、そうなの? 最近、楽しそうだったのになぁ」
「楽しそうだからって、彼女ができたとは限らないだろ。お前はそうなの?」
「や、全然。俺はフットサルで忙しいし。彼女を作ってる暇なんてない」
「だろ。僕の方は同居人のことだよ」
「あのルームシェアしてるって人のことか? ていうか、家賃も折半で、飯も食べさせてもらって、あちらにしてみれば、迷惑じゃねえの?」
「うん。それは思ってた」
元々、名前を呼び合わない浅い関係で、すぐにルームシェアを解消しようと思っていた。それが今や、カイに頼りすぎている。カイのトラウマを知り、情どころか、恋に近づいている。潮時だといってもいい。
「そろそろ部屋を探した方がいいんじゃねえの」
「そうだな」
ツカサもベッドで眠れなければ大丈夫だと気づいたし、ひとりでも何とかなるだろう。カイについても「あの人なら大丈夫だろう」と決めつけた。
――僕がいなくなったところで変わるわけがない。
ツカサは本当の意味で、カイの底にある淋しさを知らなかった。