きみの家と、その周辺の話

17【再会】


 渓太の家の前に着いたはいいが、明かりは灯っていなかった。まだ誰も帰っていないらしい。

 暑さの抜け切らない生温い空気が、顔や首に纏わりついて気持ち悪い。走ったせいで汗も吹き出している。それを手で拭ってから、スマホを取り出した。

 暗い窓を見上げながら渓太にかけたものの、応答はない。出られないのか、出たくないのか。どちらにしても繋がらない。

 諦めて、スマホをポケットに戻す。

 もしかしたら、この辺りを走っていたりしないだろうか。初めて会ったときも、ひとりでいるのが嫌だと言って走っていた。その道すがら、公園で俺を見かけたと言っていた。

 今回は逆に渓太を見つける番ではないだろうか。このまま待っているより、探しに行った方がいいかもしれない。

 悠長に歩いている暇が惜しくなって、途中から走り出した。陸上部で鍛えている渓太とは違い、住宅街から出ただけでも俺の息はまた絶え絶えになった。

 目的の公園に着くと、注意深く辺りを見渡した。街灯がぼんやりと照らしている、ベンチやブランコにも人はいなかった。もちろん、どこにも渓太の姿はなかった。

 せっかく走ったのに、ますます足が重く感じた。思った通りに上手くいかない。今日は渓太とどうやっても会えない日なのだろうか。ここまで会えないと、報いのような気がしてくる。

 諦めようと思ったのに、引き返す気持ちにはならなかった。公園の中に進むと、俺だけしかいない。

 ブランコに腰を下ろして、ゆっくりと前後に揺らす。

 スマホを取り出せば、画面の明かりがいつもより強く光る。

 メッセージとして送れば、少しは届くだろうか。怒らせて後悔していること。会って謝りたかったこと。ひとつひとつ思い浮かべるままに文章にして、その度に送信する。

 既読がつけばいいほうなのかもしれない。もしつかなかったら?

 眺めているのが怖くなって、画面を暗くしたとき、ちょうどスマホが着信音とともに震えた。寛人は発信元の名前を確かめて、出ようか迷った。

 迷った末に、応答にスライドした。そして、その相手といくらか話をして、通話を終了した。頭の整理が落ち着かないなかで、渓太にまた1つ、メッセージを送った。



 日曜日は快晴だった。服装はあまり気合いが入っていると思われたくなくて、小さいロゴの入った白いTシャツとデニムのパンツにした。

 午前10時という寝過ごしたりできない中途半端な時間に約束していた。

 この日にある人と会うことは、事前に母さんに報告しておいた。この話をしたとき、反対はされなかった。

――「自分の言いたいことを全部ぶちまけたらいいよ。あの人は直球で言わないと、まったく響かないからね」

 あの人とは俺の父さんだ。顔を合わせるのは両親の離婚後、初めてだった。しかも、ふたりきりで話すなんて、思い切りハードルが上がる。時間が迫るに連れて、断ればよかったと後悔しはじめている。

 結局は、事前に用意した言葉よりも、実際の父さんと対面したときに思ったことを口にするべきだろう。渓太に相談したら、間違いなくそう言うだろうと考えた。

 相変わらず、その渓太からの返事はない。既読もついてない。でも、もしこれが終わったら、真っ先に報告するのは渓太だ。家に行く。それは自分の中で決めていた。

 公園のベンチにはすでに父さんが腰を下ろしていた。足の上に腕を置いて、腹の前で指を結んでいるから、前傾姿勢になっている。白いシャツにチノパンツ、短い黒髪が無造作に風を受けて揺れていた。

 平日の仕事の時は後ろに撫でつけられた髪も、休日には癖っ毛で下ろしている。その時の父さんだ。

 幼い頃から見てきた父さんの顔なのに、ひどく懐かしかった。

 対峙していると、この人の子供だった頃のことを思い出す。公園で転げたとき、心配したように駆けつけてきた父さんの姿があった。手を貸したりはしなかったが、「自分で起き上がれるな」と俺のことを信じてくれた。

「父さん」

 余計な考えを持たずに、自然と声をかけた。

「おう、寛人」

 父さんは顔の前くらいのところまで手を上げて、俺の声に応える。満面に笑みを浮かべていた。

 きっと毎日見ていれば、笑いジワが増えたことなんて気づかなかっただろう。白髪も。そのくらい会っていなかったのだと、否応にも感じ取れた。

 「座れ」と手で隣を指示をされた。何となく、1人分の間を空けて、隣に座る。

 父さんは空を仰ぐように、背中を反らした。ベンチの背もたれに腕をかけて、足を大きく開く。緊張感のない父さんの姿勢に苦笑が漏れる。

「いい天気だなぁ」
「そうだけど」

 こうやって、空を眺めるために呼び出したわけでもないだろうに。父さんを待つのは埒が明かないので、こちらから話を振ることにした。

「話って何?」

 父さんは急に手を膝に戻して、深く頭を下げた。

「この前の電話で怒ってたみたいだから、謝りたくて。ごめんな、ごめん!」

 そんなことだろうとは思っていた。一方的に切ったので、父さんの言い分を聞かなかった。今回、会うことにしたのも、父さんの表情をしっかり見ながら、話を聞きたかった。改めて、やり直しをするためだった。

「もう、怒ってない。それよりも、こうしてきたのは、どうしても伝えたかったことがあって」
「うん、言ってくれ」

 父さんの顔を見たら、言いたいことがどっと流れ込んできた。一呼吸置いた後、俺は口を開いた。

「あのさ、俺の友達のお父さん――おじさんは、おばさんと一緒になりたくて、父親も家も捨てたんだ。
おじさんは、おばさんが病気で亡くなってから仏壇にご飯を上げているって聞いた。
そういう話を聞いて、俺は、自分の父親がこんな父親だったら良かったのにって思うようになった。
俺はずっと、父さんが不幸になっていてくれたらって思っていたんだ。
俺とか、母さんとか、家族を簡単に手放したことに、後悔していてほしかった。
それなのに再婚するって聞いて、何か勝手に裏切られた気になった。
もう二度と、『父さん』と呼べないのかと思ったら、あんな言い方になった。
子供が生まれるってことは素晴らしいことなのに。
あの時は、祝福できなくて、ごめんなさい。
不幸になってほしいなんて、思ってごめんなさい」

 うまく話そうとか、そういう考えはなく、ただ頭に浮かんだ言葉のまま伝えた。

「お前が、謝るんじゃない」

 大きな手が俺の頭の上に置かれた。これはいつだって子供の頃に、よく感じていた温もりだった。
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