きみの家と、その周辺の話

12【自虐】


 渓太は家にひとりだった。まだおじさんは帰ってきていなかった。タッパの入った袋を渡して、リビングのソファに腰掛ける。

 5月に差し掛かった頃合いでは、夜でもそんなに寒くはない。Tシャツ姿でも平気だった。

 渓太もTシャツとスウェット姿で、風呂も入ったのか、黒髪が艷やかに濡れていた。俺も家からスウェット姿で来ていた。どちらもすぐに眠れる姿だ。

 渓太は袋からタッパを取り出して、流し台横のシンクに置く。

「うまそう」
「肉じゃが。今日のは上手くできたって言ってた」
「ありがとうっておばさんに」
「うん、伝えておく」

 手早くスマホを使い、母に向けて、『渓太が肉じゃがありがとうって』と送っておいた。

 おじさんが帰ってきてから、一緒に夕飯をつまんだ。その間、俺はよく笑った。いつもの悪い癖が発動したように、おもしろくなくても笑った。それがまるで自分を守る術であるかのように、止まらなかった。

 風呂にも入り、渓太の部屋で寝ようというとき、やはり、目についたのだろう。渓太のほうから「どうした?」とたずねてきた。

 ベッドに横たわる渓太の気配を感じながら、俺は布団の中で何と言っていいのか、言葉を探した。探し当てる前に、渓太の方が反応は早かった。

「おばさんのことか?」
「違う」
「じゃあ、父親のことか?」

 渓太も面識のある母親と、面識のない父親とでは呼び方も区別しているようだった。何も言葉を返さないでいると、勝手に肯定の意味になる。

「父親と何かあったのか?」

 ここまでくれば誤魔化しも通用しないだろう。観念するしかなかった。一息で伝えるつもりで、呼吸をひとつする。

「再婚したんだって、それだけじゃなくて、子供もできたんだって」
「そうか」
「家庭を壊したくせに、別のところでまた家庭を作ってた。俺を捨てたくせに……あのクソ親父」

 自分の言葉で自分をなぶるように傷つける。こんなことをして笑っていられるはずがないのに、「バカだよね」と笑った。

 バカにして笑ったのは、自分に向けてだった。心のどこかで、父さんの不幸と後悔を期待していた。父さんが幸福になり、後悔を微塵も感じていないことを知ったとき、腹が立って仕方なかった。

 向こうは不幸や後悔を約束したわけじゃない。勝手に期待して裏切られた自分は、なんて滑稽なんだろう。

「渓太も笑ってよ」
「おもしろくないのに、笑えるか」
「渓太らしい……」

 暗くて助かった。笑わない渓太の前で下手くそに笑った顔を見せないで済んだ。急に笑えなくなり、代わりにこみ上げてきたのは涙だった。

 声を漏らさないように慎重に唇を閉じた。それだけでは防音するには足りなくて、手の甲で唇を抑える。

 渓太が身体を移動したらしく、ベッドのスプリングが鳴る。衣服の擦れた音、床に足を置く音。

 そして、影は俺の頭を横切ると、右肩の方から布団をめくった。布団の中に入ってきた渓太は、俺の首の後ろに腕を差し入れる。

「何すんだよ」

 見られたくなくて、涙で腫れた目を隠す。渓太は俺の両手に触れた。

「俺の前で隠すな」
「何だよ、それ」
「いいから」

 強くて熱い手だった。観念して両手を下げると、涙がさらに辺りを濡らした。大きな手が濡れた頬を撫でてくる。丁寧に親指が目尻に浮いた涙を拭き取る。

 優しい手付きにしようとしているのに、力の加減がわからないのか、どこかその動きはぎこちない。ただ、やられている方は、ひたすらにくすぐったかった。

「そういうの、いいって」

 たまらず、やめさせようと手を握るが、その温かさに思考が止まった。

「ん、でも、俺がしたい」

 至近距離で見る渓太の顔は、痛ましそうに眉をひそめているほどで、声と同じく落ち着き払っていた。泣きじゃくる寸前の子供のような俺とは違う。すべて達観した大人のように見つめてきた。

 何も言わずに見つめられると、羞恥心が湧いてくる。いつもは渓太がやる仕草のはずなのに、今は自分から目を逸らした。

「寛人」
「何?」

 繋いだ手を渓太の大きな手が包みこむように握り直してくる。そして、その手を布団の中に入れた。

 渓太は布団から抜け出して、あぐらをかいた。まるで子供にするように布団の上からぽんぽんする。

「寝るまで見ててやるから」
「渓太……」

 「お前は俺の父親か!」と突っ込みが浮かぶが、言わなかった。ぽんぽんされる度に、身体の力が抜けていく。渓太の優しさに甘えて、涙で腫れた目を閉じた。

 こんなに泣いたのは、覚えている記憶をかき集めても初めてだった。しかも、誰かの前で泣くなんて、幼稚園以来だった。不規則なぎこちないぽんぽんにも、なぜか眠気を誘われて、眠った。

 ――誰かの寝息を近くに感じた。右肩に感じる温もり。他の人から伝わる体温。

 目を開けると、すべてに合点がいった。

 それは、渓太が寄り添うように寝ていたからだった。布団から出ているのを見ると、「見ててやる」うちに寝てしまったのだろう。

 とても強面とは思えない、安らかな寝顔をしていた。こんな無防備な顔をさらしていたら、女の子もギャップで恋に落ちるかもしれない。渓太も恋をしたことがないと悩んでいたし、教えてやろうかと思った。

 しかし、なぜか、おもしろくなかった。寝ている間は強面が消えて可愛く見えることを、自分以外の誰かに知られたくないと思った。
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