きみの家と、その周辺の話

11【父親の話】


 藤崎さんを認めてからというもの、母さんは息子の前でデートの約束を誤魔化さなくなった。今までは浮ついた心を見せないように、気をつかっていたのだろう。遠慮なく惚気けることも増えた。

 母さんとの夕飯中にスマホの通知音が鳴るのも、珍しい光景ではなかった。ダイニングテーブルを挟んで、親子で向き合うように座った母さんがスマホに手をかける。

 藤崎さんかもしれないと、笑みを浮かべかけた顔が、画面を眺めた瞬間に強張った。

 下唇を噛むのは、どうにか気持ちを落ち着かせようとする母さんの癖だった。父さんとの離婚を切り出す時もこの顔をした。重々しい口を開いて、告げてきた。あの時の顔が重なって見えた。

 母さんは長いため息の後に、スマホを耳に当てた。

「はい、ええ、元気でやってる。それで、何なの。あ、そう。手短に話して。はい、はい、あ、そう。わかった、かわるから」

 そう言った母さんが、俺の前にスマホを差し出した。これまでの態度とおざなりな対応を見て、何となく、相手が誰なのかわかっていた。

「“あの人”、あなたに話があるんだって」
「うん」

 話があると言われても、どんな話なのか、予想がつかなかった。呼吸をして、受け取ったスマホを耳に当てた。話すのは1年ぶりだ。たった1年だが、どう話していたのか、思い出せない。

「父さん?」

 とりあえず呼びかけると、父さんの声がスマホを通して聞こえてきた。明るい声で「寛人」と呼ばれるのも久しぶりだった。

「元気でやってるか?」

 顔は見えなくても、父さんが笑っているのが声でわかる。何度となく母さんを怒らせた脳天気な声だったからだ。

 俺とすれば、血の繋がりはあっても、「なぜ、ここで笑えるのだろう」と呆れるしかなかったことを思い出す。

 スマホ越しでも離婚して会えなくなった息子を前に、まったく悲壮感が漂っていない。父さんにとっては終わったことなのかもしれない。俺にとっては、まったく終わっていないとしても。

「話って何?」
「あ、そうそう。お前に伝えたいことがあるんだ」
「うん」
「実は俺な、再婚した」

 自分の耳を疑った。「再婚」という言葉が嘘ではないかと、「したの?」とたずねた。

「した」

 いずれはまた違う誰かと出会って、恋に落ちるのは仕方ない。その先に再婚があってもおかしくない。何も悪いことではない。

 そう思うのに、どうしても比べたくなった。母さんと藤崎さんは俺のことも考えて、再婚や同居を慎重に決めようとしている。その想いを真摯に伝えてくれた。

 どうせなら、この父さんがもっと不幸だったら良かった。俺や母さんを手放して後悔していれば、良かった。

 でも、父さんがそんな人ではないことは何となくわかっていた。後悔なんてまったくしていないのだろう。

 父さんは誰に対しても等しく優しすぎる(相手が詐欺師であっても)。物事を深く考えていないし、「何とかなる」で済ませる。母さんはいつもその尻拭いをしていた。

 内緒で保証人になったことが、夫婦のはじめの亀裂になった。さらに借りた本人がとんずらしたことで、父さんが金を払わなければならなくなった。それがきっかけとなり、母さんはとうとう愛想を尽かした。

 再婚したという新たな人は、父さんの尻拭いをさせられるのだろう。呆れて疲れきるまで、振り回されるだろう。借金という不幸があるから、目の前の平和が幸せに思えるだけだ。気づくまでにどれくらいかかるだろう。

「借金は?」
「まだ残ってるよ。でも、奥さんもがんばってくれてるから、何とかなると思う。子供もできたし、俺ももっとがんばらないとな」

 二重三重と新たな事実が出てきて、言葉を失いそうになった。借金のせいで離婚したくせに、もう別の人と再婚する。しかも、子供もできた。何もかも理解できなかった。

「俺はあんたに捨てられたのに」

 最後に手を離したとき、罪悪感と後悔が残っていた。それは父さんが一生、孤独の中で生きていくと、勘違いしていたからだった。養育費が支払われないのも、借金のことを思えば仕方ないと、母さんが諦めていたからだ。言葉に出さないが、請求書を眺めて頭を抱えた母さんの姿を何度か見た。

 それなのに、想いを全部、踏みにじられた。

「寛人?」

 父さんはこういうときも焦ったりしない。馬鹿みたいに笑みを浮かべたままでいるのだろう。

 何でこんなやつと同じ笑顔を浮かべなくてはならないのか。

 俺は父さんと違う。誰に対しても優しくないし、そんなに脳天気ではない。怒るし、嫌な言葉も簡単に吐き捨てられる。

「もう、話したくない。あんたなんか、二度と会いたくない」

 父さんの慌てる声が聞こえた気がするが、話したくなかった。これ以上話していると、自分の嫌な部分が顔を出してくる。笑っている人に腹を立てている心の狭い自分が悪い気がしてくるのだ。

 親指をスライドして、強制的に通話をやめた。母さんはずっと、傍らでやり取りを見守っていた。画面が暗くなったスマホを渡す。

「あ、勝手に切ってごめん」
「いいよ。こっちから話すことなんて無いしね」

 母さんはスマホを受け取ると、あっさり突き放した。父さんから与えられた情報を手短に伝える。

「平気で捨てたくせに。自分だけ幸せになるつもりらしいよ」
「平気では無さそうだったけどね。特に寛人の話をしたときは、あれでも辛そうだった」
「別れるときに笑ってたのに?」
「さあね、あの人の気持ちなんかわからない。でも少なくとも、あなたのことはずっと可愛がってたし、わたしには辛そうだったとしか見えなかっただけ」

 たとえそうだとしても、今の俺には受け入れられそうになかった。通話のやり取りがすべてだった。

 渓太に会いたい、話したいと、思考を無理やり変えた。

「渓太のとこ、行ってくる」
「じゃあ、これ持っていって」

 タッパの入った袋を渡されて、母さんもそのつもりだったのだと気づく。

「泊まるかも」
「わたしも藤崎さんのとこに行こっかな」
「はいはい」

 渓太に一度、連絡を入れれば『了解』と簡素なメッセージが送られてきた。
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