甘くない話

【1年後のふたり―後―】


はしゃぎ疲れてシートの上で寝転がっていると、いつしか夕日が海を染めようになる。
立ち上がった会長は「行くか」とつぶやくように言った。

どこに行くのかは、この際、聞かないでおく。話すのもおっくうなくらいおれも疲れていたし、水着のままで別荘に行くと知っていたから。

先を行く会長が腕を後ろに退いた。顔だけおれに向けて、「手を寄越せ」とうったえてくる。
本当はあんたのとなりを歩きたいのに、こういうときはいつも先導されるな。

指を引っかけるように会長の手にそえる。さっきよりも力強く握りこまれると、もう何にも言えなくなる。

右手に別荘のかたちが見える。ホワイトを基調とした壁、その向こうの景色まで見えてしまう広い窓。開けておけば部屋にも潮風が通り抜けるだろう。

はじめて見たときは目口を開けて驚いた。あんたいくつ別荘を持ってんだよっていちいち聞いた(会長はそのとき、「いちいち数えたことがない」と律儀に考えこんだ)。

そのたびに開いた身分の差をひしひし感じる。金持ちを認めるようでしゃくだけど、結構、気にしてる。

階段を上がると、壁の色に合わせたドアを開けて別荘のなかに入る。

足を踏み入れた瞬間、そこから一気に南国の雰囲気へと様変わりした。
棚、テーブル、窓向きのソファー。すべての家具に編みあげられたラタンが使われているのだ。きれいに統一されて、モデルルームみたいだ。
別室にはバスルームと寝室、ゲストルームの三つに別かれている。
去年と何にも変わらない、この部屋は。

ソファの端に手を置くと、「おい」かすれた声が呼んだ。
どうやら会長はおれの背後に立ったらしい。ぞわっと背中に寒気がして、肩をすくめた。

いつかはそんな日が来ると思っていたけど、まさか今なのかよ! と頭のなかだけがうるさい。声には出せないでいる。

おいうちをかけるように両肩に手を置かれて、全身が凍ったみたいに動けなくなった。

「腹減ったよな」

「へ?」

「食べるだろ、メシ?」

ああ。メシの話だったのか。拍子抜けしてしまった。意外とその気になっていた自分に顔にまで血が上る。

キッチンにはメイドさんが作っておいてくれたのか、夏野菜で彩られたサラダ、クラッカーの上に乗った生ハムやチーズ、冷製パスタ。ほてった身体にはうれしい。

「会長、それより先に、シャワー浴びてくる」

海から出たままで気持ち悪いのだ。

「あ、そ、そうだな」

会長は飲み物を用意することにしたらしい。氷とビンを取り出した。

「着替えはバスルームのバスケットに入っているから」

用意周到だな。

先にシャワーを浴びて、べたべたの身体をさっぱりさせると、着替えに腕を通した。

驚くべきはTシャツだった。腿まである。ボクサーパンツが隠れてしまうのだ。
パンツのサイズはぴったりなのに。もしかしてと勘ぐってしまう。

そこのところちょっと聞いてやろうと、バスルームから出ると、会長はキッチンでまだ喉を潤していた。

おれを見るなり、足元から首までざっと眺め回す。
「だ、大胆だな」口籠もる。

「どこがですか! パンツはサイズがあってるのに、何ですかこれ」

「それはまあな」

もごもごと言いながら会長はグラスを置いた。答えないでバスルームに逃げることにしたようだ。

まったくあの人はやることが回りくどい。サイズをわかっていてでかいの用意したのだ。
そういうのは女の子がやるのがいいんだけどな。おれではまったく価値なしだ。

ソファに腰を落ち着けて大窓から海を眺めた。夕日が水面に溶けて揺れている。
会長がバスルームから出てくる前に、ソファの前のテーブルに料理を並べる。

「並べてくれたのか」

髪の毛のつゆを手で払いながら会長は現われた。広いソファなのにわざわざとなりに腰掛けて、色っぽくおれの名前を呼ぶ。

去年の夏はどうだったかと思い起こすと、まるで違ってた。映画のDVDを観てたわいない話で笑った。

今にして思う。会長はおれを意識してくれたのだ。だから夜、別々の部屋で寝てくれたのだ。
あの頃は気付かないで熟睡したけど、会長はどんな気分で夜を過ごしたんだろう。

「そろそろ、会長はやめろ」

「でも」

顔に影が差す。もう海が欠けらしか見えない。会長がおれの頬に手を当てた。横から来た唇がおれをとらえ、ついばんだ。

「いいだろう?」

「でも、メシ」

「あとでベッドに持っていってやるから食べよう」

言い訳を考えている途中で横抱きにされた。自然な流れを見ると手慣れている。
男としてちょっとムカつくけど、見上げた顔が真剣で、必死で、そんな気持ちは吹っ飛んだ。

何も抵抗しないおれを寝室のベッドに転がす。
真新しいシーツに鼻をぶつけて痛がっている間に、会長はドアをしっかりと閉めた。
ベッドに近づいてくる。
何が行われるのか経験の浅いおれでもわかる。でも容易にわかりたくない。

「好きだ。向こうに行ってもお前しか見えなかった」

「本当ですか?」

それはお気の毒だ。広い国でもおれみたいなやつしか好きになれないなんて。

「ああ」

「でもおれも、会長のことだけを考えてました……」

それ以上、何も言えなかった。口は塞がれていたし、何よりもう考えるすべはなかった。

頭は熱に浮かされ、会長のすべてを受け入れようと必死だった。
言われたままに背中を抱き、息をこぼすしかできなかった。

だから、会長との交わりの間をあまり覚えていなかった。
翌朝、腰や尻に走る鈍い痛みが証拠として残っただけだった。

「腹減った」

と言えば、会長がかいがいしく食物と飲み物を世話してくれる。まあ、当然だけど。
帰りの予定時刻まで「あーん」したり、口には出せないようなこともいろいろをした。

「また来ような」

「来年もおれと付き合うつもりですか?」

「当たり前だろ、おれがあきないかぎりはな」

会長も言うようになった。余裕があるんだろ。でもおれは覚えている。
昨夜、おれが寸前でやめてくれと泣いたとき、おろおろして抱き締めるしかできなかったこと。
それに知っている。今もキスしたくてちらちらこちらをうかがっていること。
あまりにも迷っているので待ち続けるのが面倒だ。おれからキスしてしまった。

〈おわり〉
17/18ページ