甘くない話

【1年後のふたり―前―】


会長のいない時間は飽きるくらい長かかった。
国際電話、メールはあってもやっぱりそばにはいないのだ。手を握ってももらえない。
通話を切ったとき、メールの返信が来ないとき、さびしさを感じることがあった。

だから、会長が日本に一時的に戻ると聞いたとき、飛び上がるほどうれしかった。
ああ、このよろこびのために、お互い遠い距離にいるのだと思ったぐらいだ。

そして、夏休みに入ってすぐ、おれの家の前に場違いな高級車が止まった。

「つーか、お前、その格好で行くのか?」

前会長がしょっぱなから言い放つ。聞いたおれは、え? としか言えない。意外な疑問で腹を押さえた手を下ろす。

今おれが着ているのはよれよれTシャツ。寝巻がわりのスウェット。去年とあまり変わらない。
着替える暇も与えないで「海、行くぞ」と外に連れ出したのは会長じゃないか。

「さこつ……見えてる」

「サコツ?」

おれが聞くと、会長は答えのかわりに長いため息を返す。顔をそむけて、

「何でおれがお前の鎖骨なんか気にしなきゃならねえんだよ」

吐き捨てたかと思うと、勝手に怒って車まで歩いていった。
会長の乗る車はどんな高級車かと思いきや、白のスポーツカー。しかも四人乗りで運転手さん付きだ。
車内はシックなブラウン色で統一された座席が並ぶ。後部座席にモニタがあり、映画が見られた。そこでいろいろ操作できるみたいだ。

隣同士で座席に着く。

おれから顔をそらす会長をこっそり見た。顎や頬は少しだけ引き締まっていて、大人になったなあと当たり前なことを思う。
この人を好きだという事実はやっぱり受け入れにくい。
でも、柄にもなくドキドキするのは会長しかいないのだ。

あんまり見つめると気持ち悪いと思われるかもしれない。
さりげなく窓の外を眺めると、今度は逆に右どなりからするどい視線を感じる。
その先をたどるように目線を移すと、会長と瞳が合った。じっとおれを見ているから「何ですか?」と聞いたら。
会長は無言でよれよれTシャツの首元をつまみ、後ろに持っていった。
もしや、おれの鎖骨が出ているのが気になっていたのか。

「まさか鎖骨フェチですか」

「うるせえ、運転手にも見えてるかと思うと……じゃねえ! お前はよだれの跡でも拭いてろ」

「ええ? ついてます?」

口の端を手のひらで拭う。

「ついてねえよ」

「最低ですね、さすが横暴、前会長」

「何だと?」

「あー、はじまりますよ、映画」

映画を観ながらふつうに会話して、でも眠気が襲ってきて瞼を伏せた。
眠る前におれの手をしっとりしたもんが包みこむ。
たぶん会長がおれの手を掴んでいるのだろう。
ちょっと汗で湿ってるんですけどー。あんた何なんだよ。
と思いながらもそのままにしておいた。

だっておれはもう何にもあらがえない夢のなかだし。こんなの……まあ、減らないし。
耳元でささやかれたときはさすがに飛び起きたけど。

着いた場所は、去年と同じ時期に行った、なつかしのプライベートビーチだった。
男二人で遊ぶことが、むなしいと知った場所でもある。

海パン姿には何のうるおいもないはずなのに、会長が上着を脱いだ瞬間、思わず目を見張ってしまった。

やばいな。
意外と胸板が厚いなとか。このたくましい腕に抱き締められたんだよなとか。

慌てて自分のTシャツを脱ぐと、相変わらずしょぼい自分の体があらわになる。
これまた、背中に視線を感じた。

「何ですか、会長?」

「もう、会長じゃねえだろ」

「でも会長のほうが呼びやすいんですよ」

「ふーん、夜になってもそんなこと言ってられるのか?」

「は、はあ?」目を皿にして変なことを言うから、おれも声を上げた。

「今日は最後までいってもいいよな?」

不適な笑みに開いた口が塞がらない。どういう意味だよ。考えようとして指がからめられる。

逆の手が髪の毛先を遊び、そのとき、うなじに触れられると寒気を感じて肩をすくめてしまう。

「あの何を?」

「わかってるだろ?」

影のかかった瞳は妙に熱っぽい。目をそらしたかったのにそらせなくて、このまま流されてしまいそうになる。
最後に見た、アホみたいに真剣な会長に内心緊張しながら、目を完全につむった。
キスは久しぶりだ。会長以外に、おれにキスをする人はいない。女の子も、いない。

いつ来るかと待ち構えていたが、キスだけではなかった。首の下にも変な感触があった。
唇はすぐに離れて、目を開けると、真剣な瞳はおれを見ていなかった。おれの胸を隠すように置かれた会長の手。
男の胸を触って何がしたいんだろ?

「こんなんで抱けるのか、おれ」

顔はどこか悔しそうだ。
ああ、わかるよ。男の胸じゃ、起つものも起たないよな。
なんて思い、かわいた笑みを浮かべて、うつむいてやると、どうも不自然な物体を目にした。盛り上がっている?
会長はおれの視線に気付いたらしく、体を横に向ける。

「見るな、本人を目の前にすると、制止が利かねえんだよ」

眉根を寄せながら情けなく言って会長は海に入ってしまった。そうだ、忘れていた。この人は残念で……ああもう以下省略しておく。

あんなこと言ったけど、実はおれのほうはもう、半年くらい前から覚悟してる。
どれだけ時間が流れたと思ってるんだろ。
照れるから言いたくないけど、あとはあんた次第だったりするのだ、会長。

〈つづく〉
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