きみの家と、その周辺の話

9 【顔合わせ】


 約束の日曜日が来た。

 母さんは休みのはずなのに、どこか落ち着きがなかった。朝早く起きて、テーブルの下などを掃除していた。

 着ている家着も、いつものスウェットではなく、ロングスカートをはいている。化粧も少しだけ濃かった。これが女の人というものか、と知った。

 母さんの交際相手は直接、家に寄るという。俺とすれば、家庭訪問の感覚に近かった。

 顔合わせとはいえ、こちらから話を切り出すことはないだろう。言われたことに対して適切に返せれば問題はない。そう思って、無理矢理にでも緊張を解こうとした。

 一応、家着よりもマシな、デニムのパンツとオーバーシャツを着た。挨拶が済んだらさっさと失礼して、渓太と遊びに行くつもりだった。遊びといっても話を聞いてもらうことと、それだけでは勿体ないので映画を観に行く。約束は昨日のうちに取りつけた。 

 母さんがスマホを取り出して、相手の人と話す。会話から「もうすぐ着く」らしい。

 相手と対面したら、とりあえず、挨拶と名乗ること。簡単なことなのに、脳内で箇条書きにすると、ひとつひとつが難しく感じられた。母さんの落ち着きのなさが伝染したように、ラグマットの上に座ってなどいられなかった。

「フジサキさん、もう少しで着くって」

 そこで相手がフジサキさんだと知った。

 フジサキさんは言葉通り、5分ほど経った頃にやってきた。一度、玄関口に向かった母さんが戻ったときには、フジサキさんも一緒にいた。

 フジサキさんは細身の母とは対照的で、恵比寿さんのような体型をしている。汗っかきなようで、額の汗をハンドタオルで拭う。短く刈り込んだ黒髪には、ところどころ白髪が見える。スーツの上着を腕に抱えていたが、母が受け取ってハンガーにかけた。

 予想していたよりも人の良さそうなおじさんだった。年下の俺に対しても、率先して「藤崎です」と頭を下げてくる。こっちも慌てて背を正して、「息子の寛人です」と頭を下げた。

「話には聞いていたけど、男前だね」
「いや、そんなことはないです」

 お世辞と謙遜のやり取りは、親戚のおじさんと話しているかのようだ。藤崎さんが親戚の集まりに居てもおかしくなかった。

「寛人くんは、部活は何を?」
「いえ、特には。スポーツには感心なくて」
「それはそれは」
「ふ、藤崎さんは、どういった仕事をしているんですか?」

 たぶん、一番大事な話のはずだった。

 この話を振る頃には、母さんがふたり分のコーヒーを煎れてきた。立ったままのふたりを見て、「ふたりとも座りなさいよ」と笑いながら言う。

 藤崎さんは照れくさそうに小さく笑って、「それじゃあ、失礼して」とラグマットに腰を下ろした。テーブルを挟んで向かい合うように、俺も座り込んだ。

 落ち着いたところで、藤崎さんは中断した話を戻そうとしてくれた。

「わたしは公務員でね。役所に勤めているんだが、君のお母さん――友香さんとは……」
「介護施設で出会って」
「うちの母が施設に入っていてね。その担当が……」
「わたしだったってわけ」

 藤崎さんが話し終わる前に間に入りたくなるのは、短気な母さんらしかった。人の言葉を待つのが苦手だった。この押しの強さで、藤崎さんを落としたのではないか、と想像できた。

「藤崎さんは、母と付き合っているんですよね?」
「そうだね」
「母のどこが良かったんですか?」

 「ちょっと、寛人!」という声がさえぎろうとする。意地悪な質問だったかもしれない。それでも、笑顔で許してくれる藤崎さんの懐の広さに、感心するしかない。

「母との面会のとき、わたしが着ているシャツの袖のボタンが外れかかっていたことに気づかなくて、友香さんに指摘されたんだ。その時、自分では気づかないところを見てくれているのが嬉しくて。それから少しずつ友香さんを意識するようになって、豪快に笑うところや細やかな気づかいに惹かれたのかなぁ、なんて」

 そんな些細なことから恋愛に発展するのかと、驚いた。ふたりは顔を見合わせて、照れたようにはにかむ。どちらか一方ではなく、お互いに想い合っている証拠だった。

 できあがったふたりの世界を壊すようで悪いのだが、藤崎さんには伝えたいことがあった。渓太にも言われていたし、絶対に言おうと決めていた。

「あの、藤崎さん。俺はふたりのこと、反対しません」
「あ、ありがとう」

 照れくさそうにぎこちなく笑う藤崎さんを、母さんは穏やかな顔で見つめている。そして、もう1つ伝えたいことがあった。

「でも、再婚とか、同居というのはどうしても受け入れづらくて」
「ちょっと待って」

 藤崎さんは慌てたように遮ってきた。母も加勢する。

「寛人、わたしたち、まだ再婚なんて考えてないのよ」
「まあ、再婚を考えるなら、ずっと先の話になるね」
「そうね。少なくとも寛人が成人するまではしないから」

 まだその段階を踏んでいなかったらしい。先走った自分の考えに、苦笑するしかない。

「俺は、そういう話があるんだと思ってました」
「ごめんね。今日はとにかく、寛人にちゃんと紹介したかっただけなの」
「わたしが無理言って、けじめをつけさせてほしいと。変に気を使わせてしまって、すまないね」
「いえ、わたしが悪いのよ。寛人にちゃんと話さなかったから」
「いや、わたしが」

 ふたりは息子の前で、交互に謝るというのを続けた。聞かされる方は何とも言えない気分になってくる。完全に忘れ去られているとしか、思えない。邪魔者は消えたほうがいいかもしれない。

 渓太に会って話したくなってきた。全部、杞憂だった。再婚はまだ先で、ふたりは割と順調らしいということ。

「俺、用事があるのでこれで失礼します」
「あぁ、そうか。忙しいのにすまなかったね」
「いえ、今日は藤崎さんに会えて良かったです。母のこと、どうかお願いします」

 膝に手をついて頭を下げた。

「ありがとう」

 藤崎さんも頭を下げた。母さんはその様子を微笑ましそうに眺めているだけだった。正直、母さんを誰かに託す日が来るとは思っていなかった。

 それでも、思いの外、清々しく受け入れやすかった。
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