浮気され同士

1 【何度目かの浮気】


 浮気という行為は、どうしてこんなにも卑劣なのだろう。

 芸能人が浮気すれば、一夜にして噂話は広まっていく。世論の失望感とともに、ほぼテレビやCMの仕事はなくなる。何年後かに復帰したとしても、よほど力のある人である限り、同じポジションに立つのは難しいだろう。

 しかし、一般人は違う。大学生の浮気事情など、よくある話だ。結婚もしていない恋人ぐらいの関係なら、いくら浮気してもお咎めなし。

 誰かに相談しようものなら、結果的に「早々に別れろ」と言われるのがオチだ。そんなことは百も承知。頭では理解できても、理性で恋愛はできない。

 そもそも簡単に割り切れるなら、はじめに浮気されたときに別れている。

 向こうが逆ギレしてきても、一歩も怯むことない。こちらから「別れてやる!」と半ば自暴自棄になって告げられただろう。連絡先を綺麗さっぱり消して、二度と会わないこともできただろう。

 どれもできずにいる理由はたったひとつだけだ。

 先に想いが溢れて告白したのは俺のほうだった。狭間はざまは、誰からも好かれる人懐っこさと、悪く言えば馴れ馴れしさを持っていた。頭もよく、話すことすべてが、ずば抜けておもしろかった。

 狭間の話を聞くのが好きだった。難しすぎてついていけなくても、丁寧に話してくれるのが好きだった。声の響きもちょうど良くて、ずっと聞いていたい。

 もし可能なら、俺が眠りにつくまで耳元で囁いてほしかった。

 狭間の読んでいる本のタイトルをなぞって、図書館に通ったときには、俺は新手の病気にかかったのだと思った。読めない文字はスマホで調べた。

 努力の甲斐あって、狭間の話についていけるようになった。隣にいることが日々の中心になった。呼び出しには必ず駆けつける。欲しいものは偶然を装って、手に入れた。

 自分の心に気づいたときには、止められなくなっていた。溢れる想いから目を逸らすのは無理だった。

 想いを押し通して、何度目かの告白で受け入れてくれた。本当にその時は「これ以上は何も望まない」と思っていた。それなのに、いつの間にか、「俺だけを見ていてほしい」と欲深くなっていく。

 付き合い始めた頃、一度目の浮気は笑顔で許せた。心は切り刻まれても、俺と付き合ってくれているだけでも嬉しい。そう必死で自分に言い聞かせた。狭間にとっても自分は特別な存在だと思いたかった。

 しかし望みとは裏腹に、狭間は遠ざかっていった。

 二度目はさすがに笑顔ではいられなかった。三度目、四度目まで行くと、もう怒る気力もなかった。訴えたところで相手の心に響くものはない。諦めに近かった。

 そして、今回は何度目だろうか。同居している部屋に帰ったとき、女物の靴が転がっていた。揃える暇もなかったのか、脱ぎっぱなしで靴が引っくり返っていた。男同士ではまず香ることのない花の匂いに、鼻がむずつく。

 入りたくないと思いながらも、ここで引き返したくなかった。狭間と浮気相手の幸せな空間をぶち壊したい。

 リビングのドアの向こうで、女性の弾む声が聞こえる。俺には到底出せない甘い声だ。狭間の笑い声も聞こえてきた。こんなふうに笑わせることは難しい。

 ドアを開けるかどうか、ためらった。

 開けても修羅場になるだけで、地獄。開けなくても浮気された不快感がずっとつきまとう地獄。どっちみち地獄に変わりはない。即効性のある強い苦しみと、じわじわと首が締まるような苦しみと、どちらをとるか。

 開けるか開けないか悩んでいると、勝手にリビングのドアノブが回った。もう考える時間は残されていなかった。地獄の方から挨拶に来た。

 開いたドアの隙間からリビングの明かりが漏れる。浮気相手に向けていた笑顔が俺を見た途端、険しく変わった。

「帰ってきたのか」
「帰るよ。一応、俺もここに住んでるし」
「まあ、そうだろな」

 SNSにも投稿できないくらい、しょうもない会話だった。

 開いたドアの間から、ソファに座る女性が見えた。あのソファは狭間と俺が選び、金をお互い出し合って買ったものだ。女性が膝に置いているクッションは、俺が買ったもの。狭間が本を読んでいるとき、そのクッションに頬杖をつきながら横顔を観察していた。

 そのまま、女性の元に置いておくのは、許せなかった。

 ドアの隙間を通ろうとしたら、腕を掴まれる。

「まさか、リビングに入るつもりか?」
「そのつもりだけど」
「お前、邪魔なんだけど、わかんない?」
「わからない」

 浮気されたのは俺の方なのに、怒っているのは目の前の男の方だった。俺の肩を押して、入るなと脅す。

 何でこうなったんだろう。俺が尽くすほど、この男の態度は横暴になっていった。

 俺への関心が薄れた代わりに、他の女性と浮気することに熱心になった。

 だったら、別れを切り出せばいいのに。しないのは、大学生で金が無いからだろうか。家賃を折半していることが関係を繋ぎ止めているなんて、もはや、恋愛ではなかった。理性で恋愛はできない。冷え切った会話を通して映るのは、もうどうにも手遅れだということ。

 せめてぶん殴るくらい自分が強気であったならよかったのに、俺にはできそうにない。せいぜい、足の横で拳を握るくらいだ。

 自分を守るために、ここから逃げ出す方が重要だと思えた。

「わかった。今日は帰らない」
「ああ」

 顔は見なかった。きっと、今回もちょろかったと、笑っているはずだ。

 そうだ、俺はちょろい。浮気されてもうまく咎められない。

 世間の浮気された奥様たちに聞きたい。どうやったらうまく、浮気野郎を問い詰められるのだろう。卑劣な現行犯を警察に突き出したり、世間の目にさらす方法を本気で知りたい。目に見える形で、狭間の心に傷を残したい。

「ねえ、大丈夫?」

 焦れたのか、リビングの方から女性の声がした。

「大丈夫。ほら、行けよ」

 手を振られる。相手にもされていない悔しさだけで泣くのは嫌だから、無理矢理に笑顔を繕った。

「ああ、行くよ」

 話し終える前に、ドアは閉まっていた。話す人ももういない。俺は部屋を飛び出した。
1/7ページ