きみの家と、その周辺の話

1 【夜の公園】


 外は凍りつくような寒さだった。むき出しの頭はどうにもならないが、首に巻きつけたマフラーで口元を隠す。

 身に纏ったコートの両ポケットにはカイロを忍ばせていた。時折、ポケットの外から押して、スラックスごしの外股を温めた。

 こんな寒い中でも俺が夜の公園に寄ったのは、このまま家に帰りたくなかったからだ。

 公園内の時計は、ちょうど6時を指している。母さんはすでに仕事に行ったはずだ。介護職に就いている母さんは、1か月に4日ほどは夜勤で家に帰らない。

 中学3年生にもなって、と自分でも思うが、誰もいない家に帰るのが嫌だった。

 特に、マフラーが必要になるくらいの寒い日では、部屋の暖房が効くまでしばらくかかってしまう。それまでの間、冷たい部屋に無音でいるのが耐えられなかった。

 だから、そういう日は学校の友達を誘っていた。遊んだり夕飯を済ませたりして、門限の9時ぎりぎりまで粘っていた。

 それなのに、今日に限って、どの友達も用事があるらしかった。中学3年ともなれば仕方ない。塾やら何やらあるのだろう。俺もしなくてはいけないのだが、幸い勉強はできるほうだった。

 公園内には誰もいなかった。ブランコと滑り台が、まばゆい街灯に照らされている。今日はブランコを揺らしたい気分だった。

 邪魔なバッグをブランコの支柱付近に投げ落とした。「ものを大事にしろ」と父さんに言われたものだが、今はここに責める人はいない。

 ブランコに腰を下ろす。靴を地面に着けたまま、ゆっくりとブランコを揺らした。

 父さんともよくこの公園に来ていた。

 記憶の中の父さんは朗らかに笑って、ブランコに乗る俺を見守っていた。こぐときに背中を押してくる大きな手は温かかった。その温もりを感じるだけで守られていると感じたものだ。

 俺や家族だけでなく、誰に対しても手を差し伸べる人だった。

 その性格が災いして連帯保証人となり、借金の肩代わりをさせられた。それが母さんとの離婚の原因らしい。

 父さんは完全に騙される側の人間だった。

 ――「ごめんなぁ、寛人(ひろと)。一緒にいられなくて」

 そういった父さんの顔は眉尻は困ったように下がっていたが、口元は笑っていた。こんな時にも笑うのかと呆れたが、同時に父さんらしさを感じた。

 手を差し出してきて「母さんと、がんばれよ」と言った。

 母さんと俺よりも父さんのこれからの方が多難だろう。借金をどうするのか、家事ができないはずの父さんはひとりで生きていけるのか。

 聞きたくても聞けなかった。血が繋がっているはずなのに名字も変わる。一緒に住むことはもう二度とない。父親だった人だ。

 本当は泣きたいような気がするのに、俺は口の端を上げる努力をして「うん」とうなずいた。握手もした。

 「じゃあな、寛人」と父さんは言った。手が解かれて、いつもの感触と温もりが離れていった。

 中学生ではなく、小学生の頃の自分だったら、簡単に泣けただろうか。「離れたくない」と言えただろうか。

 言ったとして聞いてくれたとは思わないが、少なくともこのもやもやした気持ちはなかっただろうと思う。

 父さんがいなくなった家に帰りたくない。実際は家すらも手放して別のアパートに住んでいるのだが、それも帰りたくない一因だった。思い出のない部屋を自分の帰る場所にするのは、まだ慣れなかった。

 今日は公園で暇つぶしをしなくてはならない。ブランコを揺らしているだけではさすがに暇なので、スマホを取り出そうとしたら、

「鈴木?」

 唐突な声に肩が浮くほど驚いた。夜の公園には誰もいないと思いこんでいた。

 声の方に目を向けてみれば、街灯の下に人が立っている。学校指定のジャージを身に纏ったその人は、近づくに連れて見覚えのある顔をさらした。

「日景」

 日景渓太(ひかげけいた)は、同じ中学に通っている同級生だった。ほとんどつき合いはなく、共通の友達を通して少し話をする程度だ。

 渓太は中学生とは思えないほど体格がよく、俺よりもひと回り大きい身体をしている。陸上部で引き締まった筋肉が無駄なく素晴らしいとか、誰かが言っていた気がする。

 端正な顔立ちで、太めの眉と鋭い切り目が際立っている。整ってはいるのだが、無口で笑いもしないから強面に映ってしまうらしい。

 格好いいけど、やのつく人。女子の間では、そう呼ばれているそうだ。ただ、一部の危険な男が好きな女子には人気があるとか。噂なので、本当かどうかは知らない。

「違うな、今は海和(かいわ)か」

 渓太は独り言のように呟いたが、俺は聞き逃さなかった。

「別に鈴木でも、海和でも何でもいいよ」

 少し前まで鈴木寛人だった。両親が離婚したために、母の旧姓の海和寛人になった。

 出席確認で呼ばれても、まだしっくり来ていない。好きでも嫌いでもない。単なる名字だ。それをどう呼ばれようが、こちらにはこだわりがない。

「そうか」

 渓太はそのまま帰るかと思いきや、俺の隣のブランコに腰を下ろした。

 俺としては父さんのことを思い出していたからか、あまり誰かと会話をしたくなかった。

 会話をおっくうに感じても、父親ゆずりの人のいい格好は崩れなかった。まるで次の言葉を待っているかのように、身体は前のめりになっている。

「……じゃ、寛人って呼ぶ」
「え、そっち?」

 鈴木か、海和か、で選ぶと思っていたのに。

「これなら、次に名字が変わっても平気だろ」
「確かに」

 もっともな感じでうなずいたが、よく考えたら失礼な話だ。自分の母親がそんなにすぐ再婚するとは思えない。

 だからといって、いちいち反論して波風を立てなかった。おもしろくもないのに笑った。自分の取り柄とも欠点ともいえるその顔で、何度も乗り切ってきた。今回もそうなればいい。

「じゃあ、俺も日景のこと、渓太って呼ぶ」

 たぶん呼ぶ機会はないが、その場のノリで軽く言った。「ん」と渓太は小さくうなずいた。

 いよいよ話題も尽きた。渓太もこれ以上、俺に用はないだろう。「じゃ……」と、ブランコから腰を浮かそうとしたとき。

「寛人は、何でここにいる?」

 まるでお前はなぜここに存在しているのか、と壮大なテーマを問いかけられたかに思えた。

 いや、違うなと考え直す。

 大して会話はしていないが、渓太は言葉足らずなところがある。おそらく「なぜ、夜の公園にいる?」と聞きたいのだろう。

 何でも聞かれたら、答えなくてはならない。そういう性分をたぶん父さんから受け継いだ。

 浮かせた腰をまたブランコに戻した。深呼吸を一度する。できるだけ重くならないように言葉を選んでから、軽く笑った。

「家に帰りたくないって言ったらどうする?」
「帰りたくないのか?」
「うん、帰っても誰もいないんだよね」

 母さんの帰りが夜勤で遅いのは仕方ないし、それを恨むつもりはない。夕飯を作り置きしてくれているし、温めれば食べられる。

 でも、テーブルに着いたときに、向かい合う相手がいないのは寂しい。

 これまではどんなに反抗期でも父さんと夕飯を食べていた。父さんからの話がうっとうしく感じても寂しくなかった。

 それが今はない。あっさり手放してしまったからだ。

「俺もそう」
「えっ、渓太も?」

 驚いて顔を横に向けると、渓太も俺を見ていた。相変わらず無表情だが、眉間だけは和らいでいるように見える。

「ん、父子家庭だから」
「そう、なんだ」

 他の人の家庭事情を聞くことはないから、自分だけ寂しいと思いがちかもしれない。

 だが、渓太のような人もいる。俺みたいな人だって、この世にはたくさんいるのだろう。自分だけではないと思うと、少し気持ちが軽くなった。

「冷たい部屋に帰るのが寂しいときがある」
「うん、あるね」

 渓太の気持ちが痛いほどわかるから、うなずいた。

「だから紛らわすために、この辺りを走ってたんだ。トレーニングも兼ねて」
「そういうことか」

 その割には息も乱れていなかったが、手ぶらであることとジャージ姿であることの説明にはなった。

「……うちに来るか?」
「へ?」

 予想外の問いかけに、間抜けな声で返してしまう。渓太はブランコから腰を上げて、俺を見下ろしてきた。

 街灯の明かりを後ろに受けて、顔にたっぷりの陰ができる。身体もでかくて顔も怖いはずなのに、「一緒にメシ食おう」と誘う声は、ちぐはぐだった。

 俺はおかしくなって、ぷっと吹き出して笑った。

「行ってもいい?」

 そう聞いたとき、渓太の顔が笑ったように見えた。あるいは、そう思いたくて見えただけかもしれない。

「ん」

 その短いうなずきを、俺は了承の意味にとった。
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