腐向け的なソレ
その言葉が俺の半生を縛り続けていた。
目の前で酒の缶を開けて口をつける男を見てぼんやりと考える。もう出会って二十年以上が経っている俺たちの関係は揺らぐことこそあれど、大きく進展することも、かといって落ち込むこともなかった。
平凡な、代り映えのしない友人関係。そう聞くと良いことだろう。
ただ、俺たちの間が変わらずとも、周りは絶えず変わっていく。
「おい、糸織。あんまりペース上げるとすぐ潰れるぞ」
「わかってるよ、それくらい」
本当にわかっているのか心配になる声色で目の前の奴はいまだハイペースで喉を上下させる。いつもはしない、どこか投げやりな飲み方。嫌でも何かがあったのだと悟る。
開けた窓から春の夜の空気が流れて鼻腔をくすぐった。ふっとそちらを見ると綺麗な月が出ていた。
「……古木、なにかあった?」
外を見ていた俺にとろんとした目で糸織が聞く。何かあったかと問いたいのはこちらだというのに、どうもこいつはそういうところに疎い。知らないふりをしているのかもしれないが……結果としては同じだ。
普段しない飲み方。
珍しい糸織からの誘いでの宅飲み。
……糸織の、部下の訃報。
本人からその話が出てこないということは、触れてほしくないのか、それとも。なんにせよ自分から突っ込むことではないことは明白だった。
部下のことは糸織から何度も名前と共にどれだけ優秀な人物かを聞かせられていた。電話越しにもわかる、声を弾ませて目を輝かせて話していた。だから、余計に記憶に残ったのだろう。どうも醜い嫉妬というのは自覚していようがいまいが、抑え難く苦しいものらしい。
……筋違いであると理解していても、糸織の口から目に見えるほどの好意を持ってその功績や人物像を語られているそのよくも知らない部下に対してどうも胸がざわついたのは事実だった。
「なあ」
声を投げると、きょとんとした瞳で糸織は首を傾げる。
切り出したはいいものの、どう話したものかと思案する俺に目の前のこいつは柔らかく言った。
「お前のペースで良いよ。無理に話すようなことでもないかもしれないし。あんまり詰めるな。ほら、意気込むと言いにくいこともあるだろ」
ふらふら笑う彼に、こちらの気も知らないで、と外れた感情がこみ上げる。
「大丈夫か」
ようやく口に出たのはたったそれだけだった。
どうにも目標のはっきりしない言葉に、糸織はまた首を傾げる。そして思いついたように「ああ」と声を上げた。
「大丈夫だよ。電話でも言ったろ。……それだけ」
部下が死んだ、事故だった。それだけ。
自分に言い聞かせるように、空虚な音を繰り返す彼に胸が空く。目を伏せれば開けたまま進まない缶ビールの口が映った。
どことなく拒絶されているような気がして、なにか変なことを言ってしまうような気がして、缶に口をつけて酒を流し込む。苦い。
「それだけ。それだけなんだ。俺が、悪いんだよ。瀬良は何も悪くなくて」
ぽつぽつと落とされる言葉に耳を疑う。
ただの事故だというのならば、そこまで思いつめる必要もないだろう。もともと自責傾向が強いのは知っているが……治ってきたと、治せてきたと思ったのに。
「だから、アレも、コレも、全部」
とりとめのない話。なにを言っているのか、抱えているのかを告げることもなく糸織はただ意味のない懺悔を繰り返した。
それを俺はただ聞いているしかできなくて。力になりたかったという無力感だけが心を支配していた。
俺になら話してくれるんじゃないか。
一緒に背負わせてくれるんじゃないか。
そんな勝手な期待と幻想はいともたやすく本人によって打ち砕かれる。
「ごめん、ごめん、こんな話」
目元を服の袖で擦り、顔も見せないで糸織は言う。笑って、隠す。
俺の前でくらい好きにしたら良い、隠さなくていい、笑わなくていい、全て見せてほしい、共に背負わせてほしい、なにもかも暴いて、聞かせて、そして――。
薄暗い欲望は何一つ形にならず、ただ俺の口からは「それでお前が楽になるなら、いくらでも聞く」なんて言葉しか出てこなかった。
関係の形が変わってしまうくらいなら、俺はいつまでも、こいつに望まれたような『友人』を続けるだろう。
目の前で酒の缶を開けて口をつける男を見てぼんやりと考える。もう出会って二十年以上が経っている俺たちの関係は揺らぐことこそあれど、大きく進展することも、かといって落ち込むこともなかった。
平凡な、代り映えのしない友人関係。そう聞くと良いことだろう。
ただ、俺たちの間が変わらずとも、周りは絶えず変わっていく。
「おい、糸織。あんまりペース上げるとすぐ潰れるぞ」
「わかってるよ、それくらい」
本当にわかっているのか心配になる声色で目の前の奴はいまだハイペースで喉を上下させる。いつもはしない、どこか投げやりな飲み方。嫌でも何かがあったのだと悟る。
開けた窓から春の夜の空気が流れて鼻腔をくすぐった。ふっとそちらを見ると綺麗な月が出ていた。
「……古木、なにかあった?」
外を見ていた俺にとろんとした目で糸織が聞く。何かあったかと問いたいのはこちらだというのに、どうもこいつはそういうところに疎い。知らないふりをしているのかもしれないが……結果としては同じだ。
普段しない飲み方。
珍しい糸織からの誘いでの宅飲み。
……糸織の、部下の訃報。
本人からその話が出てこないということは、触れてほしくないのか、それとも。なんにせよ自分から突っ込むことではないことは明白だった。
部下のことは糸織から何度も名前と共にどれだけ優秀な人物かを聞かせられていた。電話越しにもわかる、声を弾ませて目を輝かせて話していた。だから、余計に記憶に残ったのだろう。どうも醜い嫉妬というのは自覚していようがいまいが、抑え難く苦しいものらしい。
……筋違いであると理解していても、糸織の口から目に見えるほどの好意を持ってその功績や人物像を語られているそのよくも知らない部下に対してどうも胸がざわついたのは事実だった。
「なあ」
声を投げると、きょとんとした瞳で糸織は首を傾げる。
切り出したはいいものの、どう話したものかと思案する俺に目の前のこいつは柔らかく言った。
「お前のペースで良いよ。無理に話すようなことでもないかもしれないし。あんまり詰めるな。ほら、意気込むと言いにくいこともあるだろ」
ふらふら笑う彼に、こちらの気も知らないで、と外れた感情がこみ上げる。
「大丈夫か」
ようやく口に出たのはたったそれだけだった。
どうにも目標のはっきりしない言葉に、糸織はまた首を傾げる。そして思いついたように「ああ」と声を上げた。
「大丈夫だよ。電話でも言ったろ。……それだけ」
部下が死んだ、事故だった。それだけ。
自分に言い聞かせるように、空虚な音を繰り返す彼に胸が空く。目を伏せれば開けたまま進まない缶ビールの口が映った。
どことなく拒絶されているような気がして、なにか変なことを言ってしまうような気がして、缶に口をつけて酒を流し込む。苦い。
「それだけ。それだけなんだ。俺が、悪いんだよ。瀬良は何も悪くなくて」
ぽつぽつと落とされる言葉に耳を疑う。
ただの事故だというのならば、そこまで思いつめる必要もないだろう。もともと自責傾向が強いのは知っているが……治ってきたと、治せてきたと思ったのに。
「だから、アレも、コレも、全部」
とりとめのない話。なにを言っているのか、抱えているのかを告げることもなく糸織はただ意味のない懺悔を繰り返した。
それを俺はただ聞いているしかできなくて。力になりたかったという無力感だけが心を支配していた。
俺になら話してくれるんじゃないか。
一緒に背負わせてくれるんじゃないか。
そんな勝手な期待と幻想はいともたやすく本人によって打ち砕かれる。
「ごめん、ごめん、こんな話」
目元を服の袖で擦り、顔も見せないで糸織は言う。笑って、隠す。
俺の前でくらい好きにしたら良い、隠さなくていい、笑わなくていい、全て見せてほしい、共に背負わせてほしい、なにもかも暴いて、聞かせて、そして――。
薄暗い欲望は何一つ形にならず、ただ俺の口からは「それでお前が楽になるなら、いくらでも聞く」なんて言葉しか出てこなかった。
関係の形が変わってしまうくらいなら、俺はいつまでも、こいつに望まれたような『友人』を続けるだろう。