ピタゴラスプロダクション

片岡ユエは焦っていた。
普段ならアクセルをもう少し強く踏み込んでいただろうが、いま後部座席には担当しているアイドル、ラグランジュポイントの牧島シャイが座っている。まさか自分の運転で彼を危険な目に合わせるなんてとんでもない。どんなに急いでいても安全運転。慎重になりすぎるくらいが丁度いいだろうと思う。

(⋯⋯また赤信号。あのプロデューサーは気分屋だから、遅れる連絡を入れててもちょっと怖い)

頭では分かっていても、どうしたって気持ちは急いでしまう。
ユエは腕時計に目をやると、いよいよ後ろから溜め息混じりに声を掛けられた。

「マネージャー」

ただの一言。けれど棘のない柔らかな声色にはシャイの優しさが込められていた。
そのことにユエはすぐに気が付いた。
それほどまでに彼とは長い時間を共に過ごし、互いに支え合ってここまで走ってきた。
アイドル業と同じくらい所属しているピタゴラスプロダクションのことを大切に思っている彼にとっては、マネージャーであるユエのことも等しく大切な存在なのだ。
けれど、今はその優しさも真正面から受け取ってはいられない。

「ごめんね。やっぱり少し遅れちゃうかもしれない、打ち上げ」
「⋯⋯そうじゃない」
「え?あ、大丈夫だよ!もちろん安全運転です!」

不安な気持ちを押し込めて無理やり笑顔を作ってみる。
ミラー越しに視線を送ると、シャイはこめかみを押えていた。

(きっと牧島くんはこんなことを言いたいんじゃない。⋯⋯ちゃんと分かってるよ)

彼の気持ちは正しく伝わっているし感謝もしているのに、思わず溢れたのは現状に焦る言い訳だった。
しばらくしてからシャイは「ふー」と息を吐き出すと、やがて気まずそうに口を開けた。

「君はさっき、先方に遅れる旨の連絡を入れただろう。それなら出来る範囲で早く行けば良いんだ。
 元々撮影が押してしまったのが原因で、向こうも事前に承知していたはずだ」

それはその通り、と首を大きく頷いてしまうところだった。

(皆がみんな、牧島くんみたいな考えだったらいいのに⋯⋯)

思わず目を伏せ、浅く呼吸をする。
業界には暗黙のルールがあることを最近まで知らなかった。
少しの気に入らないことが蓄積されていくと、気まぐれで落とし穴に背中を押される。
業界の人間が人格者だらけならどれほど良かったのか。
いい加減な人や、気分だけで動くような人を私は沢山知ってしまった。
今日の打ち上げのトップは所謂そういう側にいる人間なのだ。

(しかもタイミングが悪くて、あのプロデューサーが参加している打ち上げには毎回遅刻している気がする。
 いいかげん小言がきそうだし、機嫌悪くされたら仕事にも影響が出るかも)

頭の中でぼんやりそんなことを考えているうちに店前にやってきた。
駐車場は路地裏でまだ少しだけ時間が掛かる。
一人で会場に行かせるのは不安だけれど彼なら上手くやれるはずだと判断して、ここは先にシャイを降ろすことにした。

「ごめん、車を停めたらすぐに行くから先に行っててもらえるかな」
「⋯⋯ああ」

後部座席に座るシャイの顔には影が落ちていて表情は伺えなかったが、何か不満げな声だった。
その後、シャイは何も言わずに車を降りて行った。

◇ ◇ ◇
「うわあ、声が部屋から漏れてる」

何度目か分からない溜め息をつくと、気持ちを強く持って恐らく聞こえないだろうノックを一応しておく。
ユエが扉を開けると、中には大勢の関係者がすでに楽しそうに食事をしていた。
シャイはその中心、例のプロデューサーたちと一緒に談笑をしている。

(良かった、先方は笑顔だ。っと、⋯⋯わっ!牧島くん、すぐにこっちに気付いた)

ユエは足早に彼らの輪に入ると、深くお辞儀をした。
「申し訳ありませんでした。電話でもお伝えしましたが、仕事が押してしまって」
顔を上げると、目の前にいる者たちはみんな笑顔でご機嫌な様子だった。
気分屋な上に酒を飲んでいるからかもしれない。
安堵したのも束の間、ユエが恐れていたことが唐突に降ってきた。

「牧島くんも飲もうよ。ビールでいい?あ、それともワインかな」

心臓を掴まれた気がした。
この手の誘い、いいや冗談は飽きるほど聞いてきたが、何度聞いても良い気はしない。
冗談でも二十歳ではないアイドルに飲酒を勧める大人にまともな人間などいないと断言できるからだ。

「申し訳ありません。俺はまだ19なので飲めないんです。飲める年齢になったらぜひお願いします」
「え〜?遅れてきたくせに酒も拒否するの?君、どこの事務所だっけ」

「す、すみません!」

思わず、声を上げて二人の間に割り込むと、シャイは驚いた顔をしてこちらを見ていた。
あのまま彼に場を任せていても、きっと彼は絶対に折れなかったと思うし、上手くあの人を丸め込めていただろう。
間に入ってしまったのは責任ある立場である私のエゴだ。

「牧島はまだ飲める年齢ではないので、代わりに私がお付き合いします。⋯⋯何がおすすめなのでしょうか?」
「え?ああ⋯⋯、これかな」

不満げな声にユエの心音は身体中に重く響いていく。
さり気なくシャイを後ろに押して、プロデューサーの隣の席を陣取ると、今でき得るかぎりの作り笑いを向けるのだった。

「いやあ、片岡さん結構飲める口なんだねえ!しかも全然顔色変わらないし!
 何だかんだで仕事の話もしちゃったし、次はラグポで番組呼ぶからよろしくね!お疲れ〜」
「はい!ありがとうございます。お疲れでした」

プロデューサー含む上層部が引き上げると、残ったタレントや社員たちはその場を少し整えたり、お会計をしたりと帰る支度が始まった。
時刻はもうとっくに天辺を越えている。

(牧島くん、疲れただろうな⋯⋯。連日スケジュール詰めつめだもん)

離れた席に座っていたシャイのことは片時も目から離さなかった。
彼のことは誰よりも信用しているが、万が一があってはいけない。
何杯もの酒を飲みながら、頭だけは常に冷静でいた。

(今夜遅くなることを見越して、明日の仕事を午後からにして良かった)

でもここで1つだけ予定外の出来事があった。
飲むつもりはなかった酒を飲んだことだ。

(でもあの場ではああするしか⋯⋯。もしかしたらラグポで仕事を取れるかもしれないし)

反省はするけど、後悔はない。もしあるとしてもそれは後でだ。
そう、今すべきことはもっと違うこと。

「ごめん、牧島くん。送ってくつもりだったのに飲んじゃったから、タクシー呼ぶね」
「君はどうやって帰るんだ」
「んー、とりあえず車はお店の人に事情を話して明日取りに来るとして。
 電車⋯⋯あ、もう無いか。あ〜、事務所に泊まるかな。
 ここからだと家よりも事務所の方が近いし、シャワールームも簡易ベッドもあるしね」
「⋯⋯マネージャー」
「ん?あ、ごめん電話繋がった」

我ながらずるい大人だなあと思う。
全部先回りして口出しさせないように動いてる。
彼は優しくて賢い人だから、きっとこちらの綱渡りのようなやり方を黙って見てはいられないのだろう。
それでもそんな彼を黙らせているのは私が大人であり、牧島くんの、ラグランジュポイントのマネージャーだからだ。
何よりも誰よりも彼らを守り、支える。これが揺らいでしまったら私は私で無くなってしまう。

「じゃあ、また明日ね。おやすみなさい」
「⋯⋯おやすみ」

タクシーのドアが閉まったあと、車は中々発進しなかった。
疑問に思ったとき、窓が少しだけ開いてシャイの目元だけが見えると、ユエは目が逸らせなかった。

「事務所に着いたら連絡をくれないか、頼む」

依然として優しげな眼差しのシャイだが、その声色は有無を言わせぬものを感じる。
切羽詰まっているというのか、少しだけ余裕がないようにユエの目には映った。
思わず「うん」とこぼすと、シャイは今度こそ満足げに目を細め、車は暗闇の中へと消えて行った。

◇ ◇ ◇
マネージャーと別れたシャイはタクシーの中でゆっくりと目を瞑り、思考を巡らせていた。
もちろんその中心はマネージャーであるユエのことだ。
最近の彼女は新人マネージャーだった頃と比べても成長が著しく、もうラグポに無くてはならない存在にまでなっていた。

(君はもう、守らせてはくれないんだな)

ずっと胸につっかえていた正体はこれだった。
やる気だけが空回りして上手く回せなかった彼女のカバーを幾度となくしてきたのはもう随分前のことになったのだ。
ここ最近は、現場でもマネージャーである彼女を褒められもする。
ひたむきな彼女に感化され、一緒に仕事をしたいと言われたことさえあった。

(⋯⋯酒か)

端的に言えば、シャイは今夜のことを反省していた。
もっと上手く立ち回れていたら、飲まなくていい酒を彼女に飲まさせない方法があったかもしれない。
年齢では成人してはいてもまだ酒が飲めない自分が不甲斐なくて、絶対的に越えられない線がもどかしかった。
19歳は子どもとも大人ともいえない難しい線引きの中にある。
社会に出ていればどんな年齢も大人の一人として扱われるが、法的にはまだ厳しいことも当然あって、そういうことに直面すると彼女に守ってもらわざるを得ないのだ。

大人になりきれていない曖昧な年齢も、アイドルとマネージャーである関係性も、シャイの中で足枷となって重く沈んでいく。

あの場でユエに身体を押され、彼女の後ろで守られたことはアイドルとマネージャーである関係ならば、絶対的に正しいのだろう。
それでもそれが悔しいと思うのは__


 
(彼女は、事務所に着いただろうか)

スマホは中々鳴ってはくれない。
いつの間にか自宅付近になると、シャイはタクシーを降りた。
暗闇の冷気に触れると、先ほどまで支配していたもどかしい気持ちもほんの少しだけマシになり、吐く息も白く染まっていた。
おもむろに空を見上げると、大きな月が浮かんでいる。

外は存外明るかった。

月の明かりがこんなにも夜道を照らしてくれている。
この月の下で彼女も歩いて帰ったのだろうか。
優しく照らす月はまるでマネージャーのようだ。

(⋯⋯でも君は「牧島くんみたいだね」と言うんだろうな)

そのとき、手に持っていたスマホが振動する。
画面に表示されているのは、ずっと連絡を待っていた彼女の名前だ。
思わず頬が緩み、愛しそうにその名前を見つめることを隠しはしない。
電話を取ると、意識もせずにとびきり優しい声が出たことを内心驚いた。

「マネージャーか?⋯⋯そうか、良かった。無事に事務所に着いたんだな」
「あ、牧島くんは今どこ?自宅に着いた?」
「外だけど、もう目の前だよ」
「それなら牧島くんも見たかな?今日の月、満月だよ!すっごく綺麗で明るいの」

電話越しでも分かる彼女の弾む声に思わず微笑んでしまう。
やっぱり君も見上げていたか、とまた月を見上げると脳裏に浮かんだ言葉がそのまま耳に届いた。

「牧島くんみたいに優しく照らしてくれる月だなって思ったんだ」

予想はしていたけれど、いざ彼女の口から聞くと言葉に詰まってしまった。
思ったことを素直に告げることが出来るのは彼女の美点だ。
けれども、恥ずかしげもなく真っ直ぐに届けられると、こちらもくすぐったい。

「⋯⋯まったく、君は」
「だって、そう思ったから。じゃあ、牧島くん!身体冷やさないようにすぐにお家に入ってね」

「⋯⋯俺は、君みたいだと思ったよ」

電話を切る合図のように畳み掛ける彼女の言葉に、被せるように落とした声は彼女に聞こえたのか暫しの沈黙が耳元から聞こえる。
小さく咳払いするような声と、深呼吸しているのだろう音を、優しく受け止めればもうすでに心は満たされるのだ。

「そうだ、良ければ明日モーニングコールでもしようか。マネージャーは朝から働くんだろう?」
「なっ⋯⋯どうして分かっ⋯⋯ん”ん”!それはこっちの台詞だよ、朝が弱いのは牧島くんでしょ!」
「はは、それもそうだな。まあ、楽しみにしててくれ」

彼女とのやり取りを終えると、もう一度月を見上げる。
きっと彼女もしばらくは目を離せないだろう。

(さて、急いで支度をしないとな。明日、朝起きられない)

足早に歩を進めると、もう自宅だ。
マネージャーの言う通り、俺は朝が弱い。
急いでシャワーを浴びて、ストレッチをしたらすぐに眠りにつくとしよう。

アイドルの俺が出来ることなんて、ラグポを守る彼女に比べたら少ないかもしれない。
守りたくても守られる方が多くなることもあるだろう。
それでも彼女とは可能な限り対等な関係でありたいし、それと同時に翻弄もしたいのだ。

彼女のために、いいや俺のために優しい朝を明日を迎えよう。

スマホに視線を落とすと、目覚ましのアラームをセットする。
いつもよりも沢山セットする俺を、君は「子どもっぽいね」と笑うのかなと過って、また微笑んだのであった。

(終)
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