まほやく
今夜は月が見えない真っ暗闇の珍しい夜だった。
空を見上げても、大きな満月は黒い雲に覆われていて月明かりが差してこない。
夜の飛行は何かと危険だからと徒歩で山道を下っていくも、魔法で光を灯しても尚、心もとない帰り道に誰かが言った。
「今夜は宿に泊まろう」
誰一人反対する声が上がらなかったことに、正直、私は安堵した。
私にとって、暗い夜道は気付かないうちに心を削っていく。
いつもなら平気なことも、何かの拍子で簡単に《いつもの私》を踏み外してしまうのだ。
そういうときは決まって身体が寒くて疲れ切っていて、空を見上げても真っ暗闇の今夜みたいな夜だった。
「じゃあ、みなさん!飲み物は行き渡りましたか?今日はお疲れ様でした!乾杯!」
ルチルの元気な掛け声とともに、皆がグラスを掲げると待ちに待った食事が始まった。
温かい食事は冷え切っていた私たちの身体に染み込んでいくようで、ようやく皆が落ち着いたように穏やかに笑い出すのを私は安心して見つめてしまう。
「お!なかなか上手いじゃねえか」
「あ、おい!ブラッド!⋯⋯リー、くん、お前取りすぎ!」
「賢者、これ食べる?」
「あ、頂きます!ありがとうございます」
私は咄嗟にお皿を差し出すと、ファウストは沢山よそってくれる。きっと気を遣ってくれているのだろう。
ブラッドリーは頬いっぱいに詰め込み、ネロは呆れながらルチルと楽しそうに酒を飲んでいる。ぼんやりと賑やかな光景を眺めながら私はグラスを口に運んだ。
「あれ?賢者様、それ酒じゃないのか?」
向かい側に座っていたカインが声を上げると、ブラッドリーが自身のグラスを高く掲げ、満足そうにカインに告げる。
「今日は飲むんだとよ」
「え、でも酒は飲めないんじゃなかったっけ?」
「あ、えっと、全く飲めないわけじゃないんです。今日はその、飲んでみようかなって」
大きなグラスを傾ければ、苦笑いした顔を少しだけ隠せたような気がした。
時計の針がてっぺんを指す頃になると、机に並ぶ皿よりも空いたグラスの方が多くなっていった。
私は時間を掛けてゆっくりと一杯、また一杯と飲み干していく。
同時にひっきりなしに私の隣に座っていく人が変わっていくのを見て、何だか合コンみたいだなと内心思った。
そうして私は笑う。
ひたすら笑う。
周りに合わせて笑うのだ。
もう何度目か分からないカインが隣に座ってくると、片手にはジョッキとグラスを持っていた。
「具合、悪くないか?」
「ふふ、大丈夫です。心配してくれてありがとうございます!」
「これ、一応飲んだ方が良い」
彼が差し出したグラスに入っていたのは酒ではなく、ただの水だった。
(驚いた⋯⋯、なんで気付いたんだろう)
気取られないようすぐにお礼を言うと、突然カインが静かにこちらを見つめてきた。
何かを探るように細められた目。けれど、一瞬にして元の親しげな眼差しに戻ると、私はなんとなく感じ取ってしまったのだ。
(彼は⋯⋯心配、してる)
けれど、今はその優しささえも欲しくはない。
ただただ自分を責めて、貶して、地の底へ叩き落して、泣いて、泣いて、意識を手放したいのだ。
(あーあ、もうカインの目、見れないや)
彼に貰った水を一気に飲み干すと、私はまた笑った。
◆ ◆ ◆
(賢者様は酔っても顔が赤くならないのか⋯⋯)
横目で彼女を気にしながら、もう何杯目かの麦酒を飲み終える。
実際には酔っているのか分からないのだが、彼女をそばで見続けてきた直感と言うのだろうか、なんとなくそう感じたのだ。
あとはまあ、場数だろう。騎士団時代、それはもう毎晩のように仲間たちと飲み明かした日々。
酒に強いやつもいれば弱いやつもいる。見分けるのに顔が赤くなれば一番簡単だが、具合が悪くなって吐いてしまうやつもいたし、全く表情が変わらないやつもいた。下っ端の頃は楽しく騒いでいればそれで良かったが、団長になってからはそうもいかなくなった。面倒をみるのも上の仕事。パワハラにならない程度に酒をすすめ、萎縮させないように自ら酒を飲み、皆が楽しめる環境になるように努めた。それで、ひとりひとりの顔色を伺えば、ある程度のことは分かるようになる。
『酒が苦手だと言うのは嘘だ』ということも。
まさに賢者様の飲み方がそうだった。
最初から全く飲めないわけではないだろうとは思っていたが、酒が苦手だとしたら無理にすすめたくはないなと思っていた。
で、今夜の賢者様の飲み方はこうだ。
まず、食事を摂る。
いきなり酒を流し込まないのは悪酔いしないための定石だが、人に流されるとそうも行かない。けれど、彼女を見るとバランスよく、且つ自分のペースで酒を飲んでいた。酒と食事、どちらかに偏るわけでもなく、平等に流し込んでいく。
これだけを見ても十分にしっかりした者の飲み方だが、どこか壁を感じさせるのはなぜだろうか。
実際、こんな飲み方をするやつはその場に流されたくない優等生タイプで、己を律することができるが故に自分自身に対してとくに厳しいやつだと思う。
そんな彼女を注意深く見ていると、少しずつだけど酒のペースが上がってきたような気がする。
けれども、彼女の顔は赤くなることもなく、具合が悪そうな素振りもなく、にこやかに笑っていた。
そう。笑い続けているのだ。なんとも言えない違和感がそこにあった。
俺は違和感を確信に変えるために水が入ったグラスを持って声を掛ける。
「具合、悪くないか?これ、一応飲んだ方が良い」
グラスを受け取った彼女の瞳が一瞬だけ潤んだのを最後に、賢者様はこちらに視線を合わせてくれなくなった。
それで完全に気付いてしまった。
彼女は『酔っている』。
そしてわざとこんな酔い方をしているにも関わらず、こちらに決して踏み込まないでと牽制していることも。
でも俺は___
「賢者様、そろそろいい時間だから部屋まで送るよ」
「え⋯⋯」
「あ、ほんと!もうこんな時間!そうですね、賢者様はもうお休みになられた方が良いかも」
「そうだな。賢者、おやすみ。残った奴らのことは任せてくれ。カイン、賢者を頼むよ」
先程まで水が入っていたグラスを今でも手に握り締めている彼女から優しくグラスを取り上げると、彼女の指先は少しだけ冷たかった。
◆ ◆ ◆
宿の部屋はとても質素だった。
ベッドが1つだけの小さい部屋はまだカーテンが閉まっていない。
無駄に大きい窓枠は、本来ならば月の灯りを一身に降り注ぐ仕様だったのだろう。きっと昨日までのこの部屋はランプの明りなんか無くとも、月明かりに照らされていれば十分だったのだ。
けれど、今夜はランプの明りだけではどうしたって相手の表情も伺えないほどの暗闇だった。
月が雲に覆われ隠れている珍しい夜。
彼女は静かにベッドに腰掛けた。
その表情はこちらからは見えない。
「送ってくれてありがとうございました」
いつもの声色。いつもの言葉。いつもの態度。
変わらない《いつも》の彼女。
__本当に?
踏み込まれたくないと態度で示した賢者様を無理やり連れてきた。
もう十分、鬱陶しいと思われているかもしれないが、ここで引けない俺も少しは酔っているのかもしれない。
そうして俺は深い闇夜に紛れて小さく呟いた。
「⋯⋯よくないと思う、さっきの飲み方」
暗闇に溶けていくそれを彼女は静かに波を立て囁き返す。
「ちゃんと食事と一緒に飲みましたけど」
「俺が言ってるのは身体じゃなくて、心の方」
今度ははっきり言い放つと、痛々しいほどに彼女の息を飲む音が響く。
表情が伺えない中、それでも彼女の前に立ち尽くすも、もう何も言葉を返してはくれない。
「ごめん。踏み込みすぎた。賢者様にだってそういう夜ぐらいあるよな」
一歩後ろに下がる身体と、どうしても賢者様に寄り添いたい本能が狭間で大きく揺らぐ。
もしこのまま俺が去ったら、このあと彼女はどうするのだろうか。
この暗闇の中で声を殺して涙を流すのかと想像すると、息が出来なくなる。
話してくれなくてもいい。拒否されてもいい。傷付けてくれてもいい。
ただ、暗がりに隠れるように悲しげに笑う彼女の側にいたかった。
こんな自分を身勝手だなと思う。
自分が相手のためにしたいことは、必ずしも相手が望んでいることではない。
きっと今の賢者様は望んではいないのだろう。
でも俺が嫌なんだ。強くそう思う。
この感情をなんと名付ければいいのか。
『親切』でも『同情』でも『お節介』とも違う。
清いものなんかじゃない。美しいものなんかじゃない。尊いものなんかじゃない。
その内に秘めたる《何か》を開示して欲しい。
暴いて、共有して、明日を一緒に歩きたいのだ。
「⋯⋯なにか、温かいものでも貰ってくるよ。一緒に飲もう」
彼女に背を向けて部屋を出ようとすると、裾を引かれた気がした。
後ろを振り返ると、彼女が弱々しく裾を握っている。
その手は震えていて、精一杯に手を伸ばしてくれたことが伝わってきた。
俺は何も言わない。
(⋯⋯待て)
沈黙が破られるのを静かに待つ。
月明かりが差さない暗い静かな部屋は、時さえも感じさせないほどに暗闇に飲まれているようだ。
「⋯⋯ご、ごめ、んなさい」
第一声が腹にこだまする。
俺は耐える。
(⋯⋯待て)
「なんか、その⋯⋯、かなしくて、つら、くて⋯⋯、イライラして⋯⋯。
どうしてか、きゅうに⋯⋯、くるしくなって、⋯⋯あ、の」
悲痛な叫びが今にも消えてなくなりそうなほどに儚い。
俺は振り向かない。
(もう少しだけ、待て)
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯行かないで」
やっと口に出した懇願。
俺は振り向いてその場に跪くと、俯いた彼女の顔がようやく見えた。
「大丈夫、一緒にいるさ」
膝の上に固く結んでいた拳に触れると、優しく丁寧に解いていく。
さきほどまで冷たかった彼女の指先は、今では熱が巡っているかのようにじんわりと温かい。
依然として部屋に月明かりが差さない真っ暗闇の珍しい夜。
相変わらず表情は伺えない。
彼女の抱える暗闇の深さも結局は分からない。
けれど、どうかその暗闇を一緒に飲み干すことを許してくれ__
(終)
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