贈り物
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「あれ?彼処に居るの……」
ヨーコちゃんに肩を叩かれ、彼女の指差す先に目を向けた。卒論発表を控えた私達くらいしか居ないだろう夜遅い大学の構内。枝寂しい白黒の木の下で傘差す背中に、あっ、と心の声が出た。
友人と別れ、なだらかな坂を滑らないように、でも逸る気持ちで下りてその背中に飛び付いた。
「央さん!」
「おかえり、毬江ちゃん」
微笑みを浮かべて振り返った彼は、当然ながら今朝見た寝ぼけ眼ではなく、寝癖もなかった。
「どうして?もう帰ったと思ってた」
「うん、帰ろうと思ったんだけど毬江ちゃんの傘が玄関にあったから、忘れちゃったかと思ったんだ」
少し気まずそうに微笑む央さんの「……前にもさ、こうやって帰った事あったよね。覚えてる?」左手には、確かに私の傘。でも私は今、折り畳み傘を差していた。
「あ、ごめんね。ありがとう」
「持ってたなら良かったよ。荷物増やすのもあれだし、ついでに送るよ」
どっかスーパーとか寄るところは?と歩き始めようとする央さんを、私は袖を摘んで引き止めた。
「待って」
立ち止まってくれたのを見て、折り畳み傘を閉じて雪を払う。ちらつく雪が遠ざかって、央さんがすっと傘を差し向けてくれたんだと分かった。
「ありがとう」
見逃してしまいそうな優しい仕草に微笑んで、その大きな傘の下で央さんの傍までぴょんと跳ねた。
「ちょっとお嬢さん、転ばないでね」
「転びませんよー」
傘を差す央さんの右腕に左手を添えて、大学向かいのコンビニで牛乳だけ買って家路についた。
「今日はやっぱり?」
「うん、泊まれない」
「わかった」
「ごめんね」
「ううん、本当は今だって会えない筈だったんだもん。むしろ得したって感じ」
央さんは暫く黙り込んでいたけど、右腕と胴で私の左腕をきゅっと挟んで私を呼んだ。
「……前にもさ、こうやって帰った事あったよね。覚えてる?」
「大学から?」
「ううん、夏、水族館の帰り。ほら、毬江ちゃん傘持ってないのに雨降り始めちゃって」
「あぁ、そういえば。ちょっと懐かしい」
今思い出した風に頷いて見せたけど、はっきり覚えてる。央さんが乗ったメリーゴーランドも、光が揺らめいていた水槽も、くらげのアイスも。全部全部、初めて央さんと出かけた大切な思い出。
「実は、俺あの時毬江ちゃんの事好きになったんだよね」
「え、その時?」
急に何を言い出すんだろうと、恥ずかしさを紛らわすように不満げな顔を作って脇腹をつつく。央さんは笑って、今だから言うけど、と続けた。
「毬江ちゃん、本当は傘持ってたでしょ」
思わぬ所に飛び火した。毬江は目を丸くしてから、でもすぐに笑みをつくった。
「なんだ知ってたんですか?」
「知ってたっていうか。毬江ちゃんが携帯で文字打つの、一瞬躊躇うみたいに手が止まってさ」
まだ子供だった頃についた嘘。我儘でいじらしくて、精一杯の思い切りだった。
央さんの表情から怒ってはいないと分かるから心配はしていないけど、恥ずかしさに似た気まずさがあった。
「うん、それで気づいちゃったの?」
「いや。持ってないって画面見せた時の顔が、すげー可愛くて……」
少しの期待と大きすぎる緊張。あの時の私は確かに、央さんの顔をまともに見れなかった。
そして私が漸く顔を窺った時には、央さんのキョロキョロと売店に傘を探す横顔。当時の私は「鈍い!」と内心怒っていたけど、目が合わなかったのが傘を探していただけじゃなかったとしたら。口元に手を当てていたのは、もしかしたら。
「あぁ、好きだなぁって思った」
気づいてしまったら直ぐだった。紅く冷えていた耳も顔も、今は絶対ちがう赤みが差している。
私を見下ろす目が優しいのは見なくても分かってしまって、それが余計に居た堪れない。恥ずかしさの上に受け止められるほど、央さんの眼差しは易しくなかった。
何も言えない毬江の肩を抱くように、央は歩道の端に寄って立ち止まらせた。
「あのね、毬江ちゃんに聞きたい事があるんだ」
そう言って隣から見せられたのは、夜道には明るすぎる携帯の画面。上から下にスクロールしていくと、不動産会社の名前と建物の写真が並ぶそれを見せられて、央さんの言う"聞きたい事"に思い当たった気がした。
何処も図書基地から丁度いいくらいの近場だった。
「一緒に住むとしたら、どんなマンションがいいかなあって」
「っ央さ、」
央さんを見上げようとして、でもいつの間にか後ろから回ってきた大きな手に右手を取られた。
するりと薬指に滑らされた金物色。街の灯を反射するそれに驚いて暫く目を奪われて、やっとの事で央さんを振り返った。
「これ……」
「毬江ちゃん。これからは、一緒の家に帰りませんか?」
「……私でいいの」
「毬江ちゃんがいいんだ」
傷つかないためのささやかなバリアはもう無い。それが不安で、分厚いコート越しでと感じられそうな程の背中の熱が堪らなく愛しかった。
「私も、私も、央さんと一緒に生きたいです」
「うん」
「央さんの隣に居させてください」
「うん……」
「一緒に、ずっと、ずっと」
「うん、俺の隣で、一緒に幸せになって」
私は喉を引き攣らせて何度も何度も頷く。そうしてやっと安堵したように、照れ臭そうに笑う吐息を聞いた。流れる熱い涙を拭ってくれる親指は冷たかったけど温かい。
央さんの手が緩んで、背中の温もりが少し離れる。向き合うと央さんも気持ちを抑えきれないとばかりの顔で、苦しいくらいに抱き締められた。頬にダウンが冷たくて、おでこに央さんのマフラーが柔らかかった。、
この数年で、すっかり腕を回し慣れた央さんの厚み。ぎゅっと力を入れれば、同じだけ、でも加減して返してくれる彼の腕の中が大好きだ。
「央さん」
「ん?」
腕の中に収まる私と目を合わせようと真下を見下ろす央さんに、私は真上を仰いで小さく背伸びをした。乾いた唇とぶつかって、でもちゅっとは鳴らなかったリップ音を残して、私は少し驚いた顔の央さんを見上げた。
「央さん、私は貴方にもらった幸せをこれから一生かけて返していきます。これからもらう分も、返せるまで一緒にいて下さい」
これは、私なりの覚悟だ。ぐっと真っ直ぐ見つめれば、央さんはくしゃっと笑って、おでこに一つ、優しいキスを落とした。
「返さないで。そのまま二人で持って行こ」
舞い散る粉雪が二人の周りを囲んで、希望と幸せと、気恥しさを降り積んでいく。
私は大きな体で隠されて、央さんは傘でその大きな背を隠して。左の耳に吹き込まれた愛する人の声を、私は一生忘れないと思った。
「よかった、私だけじゃ持ちきれないから」
「俺だけでも持てないよ」
最後にまた一つキスをして、二人一緒にふはっと笑いが零れた。白く消えていく吐息をこんなに愛しいと思ったのは初めてかもしれない。
「やっぱり毬江ちゃん家に帰ろっかな」
「だめ、外泊届け出してないんでしょ」
「あーもー」
駄々を捏ねる央さんは急に子供っぽくて、でもくるくる変わる表情はいつも私を笑顔にしてくれるもの。
「今週末、雪じゃなかったら久しぶりに遊びに行ってあげるから」
「え、何それ。天気予報は?」
そう言って携帯を確認して、央さんは思い切り顔を顰めた。
「うっそ、雪なんだけど。毬江ちゃん鬼?」
なんて悔しそうに言うから、
「えっ、本当に雪?」
わざと首を傾げて覗き込んで笑って。珍しく私に文句を垂れて、でも隠し切れない嬉しそうな顔が私の胸を温かくした。
アパートに着くといつものようにドアを閉める直前に手を振って、でも今日は少しだけ長く振って別れた。
「"今日は送ってくれてありがとう。
土曜日、午前中に行くね。
おやすみ"」
三つの吹き出しにスタンプを並べると、すぐに既読がついた。
「"おやすみ。
待ってる。
雪だけど"」
最後まで子供っぽい返事が可愛くて愛しくて、一人ベッドの上で笑ってしまった。
寝転んで、改めて右手を掲げてみる。明るい電気の元で見るとピンクゴールドの可愛いもの。それはいつだったか、毬江が雑誌で見ていたものに似ていて、思わず笑みが零れた。
そうだ、あの子にも見せようと親友の名前を押しかけて、開いたアプリを閉じた。報告は、また今度しよう。そう思って目を閉じた。
きっと嬉しくて眠れないだろうけど、この気持ちを今は噛み締めていたかった。
[今日]
「"今帰ったよ。
今日は暑いからシーフードカレー"」
「"ありがとう。
俺も今から帰るよ。"」
「ただいま」
「おかえりなさい」
「パパおかえりー!」
Fin.
*天蓋の下で、貴方に約束を*
(2020/08/08 あるさんへ 6周年記念)