「小田原攻防戦」編
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図書館の風除室を出ると、一瞬ふいた強い風に髪を攫われた。露わになった首元をすり抜ける風に、思わずくしゃみをひとつ。肩を竦めて薄着の腕を摩る。
さっきまではガラス越しだった乾いた葉音も、それを揺らす風も、すっかり秋のそれだった。…薄着で飛び出して来るんじゃなかった。
軽く後悔しながら歩き出した時、手の中で携帯が震えた。
「…あ、もしもしお母さん?──うん、ごめんなさい、うん、今から帰るね。──え?いや、…うん、はーい」
いきなり出ていったことに流石にちょっと怒っていた。だから早く起きなさいっていつも言ってるのに!と言われた時は思わず反論しかけてしまったが。
(寝坊したからってあんな出掛け方はしないと思うんだけど…)
待ち受けの時計を見ると、1時を回るところだった。早く帰ろう、と仕舞ったところでまた震えた携帯に可南は首を傾げる。
表示された名前を不思議そうに見ていたが、メールを開いた瞬間あっ!と叫び走り出した。
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Sub:no title
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もう約束の時間だけど、今どこ?
大丈夫?待ってるね
────────END────────
「こんにちはー!」
玄関のドアを開け、半ば叫ぶように挨拶すると、はーい、と奥からニコニコした女性が出てくる。
「いらっしゃい、可南ちゃん。今日お勉強会するんですって?」
「はい!でも遅れちゃって…。あ、これ母からです」
若干息が上がったままで紙袋を差し出すと、そんな気を遣わなくていいのにと女性は少し困ったように笑った。
「大丈夫よ。こちらこそごめんなさいね、可南ちゃん今年受験でしょう?あの子ったら、また無理言ったんじゃない?」
「いえ、全然。遅れた分怒られる覚悟はして来ましたけど」
「そんな気にすることないわよ、あの子だってよく寝坊するもの」
「いや、寝坊ってわけじゃ…」
「冗談よ、可南ちゃんたら、いつまで経っても可愛いわね」
「あ!ひどい、おばさま揶揄った!」
きゃっきゃと冗談を交わしつつ、いつものように後について行き一緒にキッチンに入る。
ここの家では、可南がキッチンでカップやお茶菓子を受け取ってから部屋にあがる。友人がダイニングにいた場合を除いて。
「あ、おばさま、これ…!」
「この前美味しいって言ってくれたでしょ?」
そう微笑ってティーパックを出してくれたおばさまは相変わらず綺麗だ。お茶目な所も微笑うと下がる目尻も優しげでとても好きだ。
この母ありての娘だなと思う。
「いつもありがとうございます、頂きます」
「いえいえー」
部屋にいるわ、とにっこり笑顔のおばさまに見送られ、キッチンのドアを閉めて、注意しながらも急いで2階へ駆け上がる。いつまでも慣れないスリッパでパタパタと廊下を渡り、可愛らしいプレートの下がったドアをノックはせずに開けた。
彼女は机に向かっていたが、ドアの近くの電気のスイッチを数回押すと、微妙な明滅で気づきこちらに振り返った。名前を呼ぼうとした途端、彼女の眉が釣り上がる。
「遅い!会おうって言ったの可南の方なのに!」
「ほんとごめん!さっきまでちょっとごたごたしてて……でも!決して忘れたとかじゃなくて!」
「でもそのごたごたで忘れてたんでしょ?」
「うっ、ごめん……」
お盆をテーブルに置き、すぐさま顔の前で手を合わせたが、彼女は頬をぷくっと膨らませている。申し訳ないとは思いつつも、頬を膨らませて怒っている彼女は、同性の私から見ても可愛い。
「ごめんって…。ね、クッキー作って来たのあるから、食べながらしよ?」
リュックからクッキーの入った袋を出して見せると、相変わらずぷんぷんしながらもテーブルのスペースを空けて、ポットにお湯を入れ始める。まったくもう、本当に可愛いなぁ。
「可南、」
緩む頬を抑えきれずににやにやしていたら流石に睨まれた。全然怖くないけど。
「ごめんね」
「ううん、いいよ。でもちょっとは反省してよね」
そう言って微笑ってくれる彼女はやっぱり優しい。
「うん、気をつける」
「よろしい!じゃあお詫びにこのスペシャルそうな大きいクッキーは私のね」
「いやいや、それ私のセリフだし!って、あー!」
わちゃわちゃしながら他のお茶菓子にも手をつける。透明なポットの中では、じんわりと優しい色が広がっていた。
*
現場の収拾を終え、図書隊が図書基地へ帰還したのは午後三時過ぎだった。
周りが装備を解く中、ずっと電源を落としていたケータイを開いた堂上は目を剥いた。
留守電十数件にメール一件。
うち最後のメールは柴崎からだが、それ以外はすべて可南からで昼近くの30分以内に固まっていた。
堂上は何事かと急いで折り返そうとしたが、柴崎のメールの題名を見て手を止めた。
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Sub:さすが堂上教官の妹さんですね。
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Form:柴崎 麻子
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可南ちゃん、今朝の新聞で今回の
訃報を知ったらしくて、血相変えてとん
できましたよ。
すごく心配してたので帰ったらフォロー
お願いします。
────────END────────
(……そういうことか)
「何、メール?」
肩を叩いてきた小牧に、堂上はケータイの画面を見せた。さっと目を通した小牧はへぇ、と呟くと面白そうに笑った。
「すごいな、可南ちゃん。察しが良過ぎるんじゃない?教えこんだの?お兄ちゃん?」
完全にからかいモードに入った小牧に堂上はアホか、と不機嫌そうに眉を寄せた。
「親父と少し話したことがあるくらいだ。可南にそういう話はしない」
「ふうん?にしてもお兄ちゃんとしては嬉しいけど、王子様としては複雑だよね?」
「だからその変な呼称をつかうな!」
「事実じゃないか」
受け流そうとしたが敢無く失敗した堂上の眉間には、最早当然のように渓谷が居座っている。
「王子様もだけどお兄ちゃんも大変だ」
堂上は未だへらへらと笑う小牧を恨めしげに見遣り、すぐに画面に戻した。
「うるさい」
「悪い、」
ククッと喉を鳴らす小牧に、堂上は怪訝そうに振り返った。
「今度は何だ」
「いや?そんな業務連絡みたいなメールじゃなくて、もっと絵文字とかなんか使ったら?」
「やかましい!お前が使ってろ!」
堂上は業務連絡と言われた文面をそのまま送ると携帯をパチンッと勢いよく閉じた。
*
勉強会とは名ばかりのお茶会に、可南の携帯が鳴った。
「!ごめん、」
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Sub:無事完了
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Form:お兄ちゃん
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今帰った。怪我人は出たが全員無事だ。
心配かけて悪かった。
────────END────────
「お兄さん?」
「うん、」
その知らせの内容と、堂上らしい短いメールに可南は微笑ってほっと息をついた。
「やっと安心できた?」
「うん、全員無事だって……っえ?」
優しい、けれどどこか悪戯っぽさも見え隠れする笑みを向けられ、可南はきょとんとする。
「笑ってても少し表情が硬かったから。」
「……うそ、」
「ほんとほんと。すごーく分かりやすい。それなのに誰かさんは何も言ってくれないし」
そう言って彼女はぷくっと頬を膨らませて見せた。
「ごめん、言ったら心配すると思って」
「可南のことだからそんな事だろうなって思ったけどさ。悩みがあるわけじゃないって言ってたしね。堂上さんからメールってことは図書隊?」
「うん、」
「そっか。でも無事ならよかったね」
そう微笑う彼女に可南はまた、うん、と頷き返し、もう一度メールに目を落とす。全員無事という文字に、小牧も無事だったのだと思うと、自然と微笑みが零れた。
「……あ、小牧さんのこと考えてるでしょ」
「へ、」
心を読んだようなタイミングに驚いていると面白そうに、全部顔に書いてあるんだもん!と笑われた。
「これから行って、小牧さんにおかえりなさいって言ってきたら?」
突拍子もない提案に暫しぽかんとしていたが、可南は顔を真っ赤にするとくわっと目を見開いた。
「今から!?いやいやいや、ほら、まず約束してないのに行っても会えないだろうし!それに言うなら一緒に行こう!?」
あたふたと、しかし無駄に説得しようとする可南に、彼女は途中で聞くのをやめて視線を携帯に落とした。彼女が会話中に視線を外すのが珍しく、可南はどうしたのかと彼女を覗き込む。
「……どうかした?」
「実はね、」
彼女は立ち上がり本棚から一冊の本を出して見せた。
「これ、小牧さんに貸してもらってたの忘れてたのよね」
「?……だから?」
「だからね、ついで返してきてほしいの!」
「え!?」
「これ、だいぶ長く借りちゃってたし、たぶん忘れてたって言うと小牧さんも流石に怒ると思うの」
「いやいやいや、そんなことで小牧さんは怒んないよ……それに私が代わりに返したらそれこそ怒られるんじゃないの?」
「大丈夫、大丈夫!可南がちょちょいっと言ってくれれば!」
「そんな無茶な!行かない!無理!」
渡されそうになった本を押し返した時、ピロロンッと携帯が鳴った。
「あ、小牧さんだ」
そう言うと、彼女は本からさっさと手を離して携帯を開いた。結局受け取った形になってしまった可南はせめてもの抵抗に、テーブルの上で本を彼女の方にスライドさせた。
しかし押し返されるかと思って見上げた彼女は、至極満足そうな微笑みを湛えていた。
「え、どうしたの」
「小牧さんこれから会えるって」
「え、は!?」
「図書館の入口で待ってるってさ」
「ちょっ、」
「……どうしてもダメ?」
少し申し訳なさそうな色を滲ませた瞳が、上目遣いで見上げてくる。やめて、そんな目で私を見ないで。
「…………」
「……やっぱりダメかぁ」
あざとい。でもこの表情の彼女に頼まれてもしも断れる人がいるなら、是非、会ってみたい。
可南は小さく溜め息をつくと、押しやっていた本をのろのろと手元に引き寄せた。
「……怒られてもしらないからね」
良いように踊らされた感は否めなかったが、そう言った途端嬉しそうに微笑う彼女を見ると、面白くて笑いそうになる。
「どうなったか教えてね」
「調子のるなよー」
ニコニコする彼女を睨みながら荷物をまとめ、よっこらしょ、と立ち上りざま照れ隠しのように呟いた。
「いってらっしゃーい」
返ってきた明るい声に、だから調子のらないの!そう言おうと振り返ったが、そこには予想外に優しい笑みがあった。
(……あ、)
本当は、自分が小牧さんに会いたいと思っていた。
そのことに可南はそのとき初めて気づいた。それに気づいていた彼女は、その背中を押してくれただけなのだということも。
思えば可南の小牧への恋心にもすぐ気づき、悩みがあると、隠しても彼女には結局バレて結局打ち明けてしまう。
日頃マイペースに見える彼女は、なんだかんだ言っても人一倍人の心に聡く、そして優しい。
(……叶わないなぁ)
可南は鼻からふっと息を逃がし、ありがとうという気持ちを込めて微笑み返した。
「うん、いってきます」
*
本を返したいから会えないかというメールを受け取って暫く。小牧は携帯をポケットに入れ、席を立った。
「何処かに行くのか?笠原が戻ったら報告会だぞ」
首を横に捻ると、いつも部下の前で見せる仏頂面を潜めた男が不思議そうに見上げてきた。だが小牧は、彼が先程から隣でそわそわと扉を気にしていたのを知っている。他ならない仏頂面の原因の多くを占める彼女を待って。
「あぁ、ちょっと図書館まで行ってくる。もし笠原さんが先に戻ったら連絡頼むよ」
「……あぁ、すぐに戻れよ」
「悪い」
ひらひらと振られる手に送られ、小牧は扉を閉めた。
とはいえ、あの子が返したいと言ってきた本はだいぶ前に貸したのは確かだが、急ぎで返して欲しい訳でもない。
小牧は気に入った本でも頻繁に読み返す方ではない。その上、小牧に言わせればあの本なら図書館でちょっと借りて読めば済む話だ。
だからこそ、何時もならまず此方の予定から聞いてくれるあの子が急に今日返したいと寄越したことが気になる。相談事でもあるのだろうか。
もう一度時計を見ると、彼女の家から図書館の距離を鑑みて事務室を出て数分。小牧はそろそろかと思いながら、すっかり秋らしくなった木々を見上げた。
「小牧さん!」
(……え、)
弾かれたように振り返った先に居たのは小牧の思っていた少女ではなかった。夕方というには早い、だが目には眩しい陽に染められ駆けてきたのは。
「可南ちゃん、」
可南は小牧のところまで来ると、すみません突然、と肩で息をしながら申し訳なさそうに苦笑った。
「これ、預かってきました。長く借りててごめんなさい、だそうです」
「わざわざありがとうね。頼まれてくれたのかい?」
「えっと、」
相変わらず申し訳なさそうにしながらも、何処かそわそわした表情の可南に首を傾げる。小牧は応えを待つつもりでの仕草だったのだが余程怪訝そうに見えてしまったのか、可南は少し焦ったように頷いた。
「そっか、まだ借りていてくれてもよかったんだけどね。あとで気にしないようにってメールしておくよ」
「お願いします。……あの、すみません、資料回収の後でお疲れなのに」
「あぁ、知っていたんだったね。柴崎さんから聞いたんだけど、堂上も驚いてたよ」
「え?あ、もしかして小牧さんにも伝わっちゃいました?」
「まあね」
「うわ、私すごく騒いじゃって…お恥ずかしいです……」
「いや、よく気づいたなって感心してたんだよ」
「い、いえ……」
本当に居心地悪そうに視線を逸らす様子に、この話題はもう切り上げてしまおうと微笑った。
(……何かあったのかと心配していたけど、)
本人は来ていないし、可南の様子からも、どうやら勘は外れたようだ。
「じゃあ、そろそろ戻るよ。これ、ありがとうね」
「はい、あ、」
「どうかした?」
何かを思い出したかのような顔をした可南だったが、此方が問うと目を泳がせた。
「その……」
口をもごもごと動かしながら、そろりと見上げてきたその瞳は何か言いたげに揺れていた。
「可南ちゃん?」
「……待ってください、」
そう言って可南は徐に大きく息をした。そして真っ直ぐな目で見上げてきたかと思うと、その目はすぐにふにゃりと微笑った。
「おかえりなさい」
唐突な言葉に小牧は暫し目を丸くし、そして緩りと目を細めた。
(あぁ、そういうことか)
あの子はこの少女に気を利かせたらしい。
夕日のせいにするには些か染まりすぎた少女の頬に、小牧は胸裡で苦笑した。
確かに、自分の名前を呼ばわりながら駆けてくる姿は普通に可愛らしいかった。先程のように不意に見せる真っ直ぐな眼差しに、ドキリとさせられる事もある。
しかし、この子は堂上の──同僚の妹で、ひと回りも年下の子どもだ。そんな子相手に、この子が自分に向ける感情と同じものを返すことなど到底出来ない。
──ありがとう、お兄さん!
「……ただいま」
思ったよりも自分の声が甘くなったことへの動揺を隠すように微笑めば、此方を見上げる顔は、それはそれは嬉しそうに綻んだ。
その笑みは、あどけなさの残る顔に浮かぶにはあまりにも甘くて。
その瞳に映る陽は、おじさんの俺にはあまりにも眩しくて。
胸裡に萌しかけた何かを、小牧は知らないふりをしてぐっと押包んだ。
Fin.