「王子様、卒業」編
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閲覧室の奥に入るにつれ、人がいなくなっていく。暖かみのある温白色は、先に続く使い込まれた書架をまるで森深くの木々のように影づけていた。
自分の鈍い足音に微かに届く子どもの拍手、耳元を掠める横髪の摩擦音。沈黙する木々に緊張感が高まる。
大丈夫、今日はちゃんと持ってる。
毬江に最初に見せるつもりだったそれを胸元から引き出し、いつでも吹けるように構える。
一本目の通路が突き当たったところで、選んだのは人気の無さそうな左側。
完全に曲がりかけて、突然左肩を叩かれた。
思わず、ひゅっ、と喉が詰まった。
咄嗟に笛を口許にやろうとすれば、大きな手に口を塞がれてしまった。剥がそうと上げかけた手も片手で拘束される。
そして背中に温度を感じたら、頭が真っ白になってもう駄目だった。
がむしゃらに身体をよじって、視界がぼやけて、冷や汗が噴き出したとき、
「お前何してるんだッ!」
口から手が剥がされて頭上から重い打撃音がしたかと思うと、身体の拘束も解ける。振り返ると、うつ伏せに倒れた男の腕に手錠をかける小牧さんがいた。
「可南ちゃん、離れて」
いつの間にか近くにいたらしい柴崎さんが、隣から肩を抱くように遠ざけてくれる。半ば引き摺られるように数歩下がったとき、小牧さんが勢いよく振り向いた。
「怪我はッ!?!?」
小牧さんの鬼気迫る顔と声量に肩が跳ねる。しかし慌てて首を横に振ると、ほんの少しだけ雰囲気が和らいだ気がした。
辺りが足音で騒がしくなり、後ろから前から見知った顔が次々と視界に飛び出してくる。その中にはやはり着飾った笠原さんもいた。
「可南ちゃん!」
笠原さんは私に気づくと、すぐさま駆け寄ってきて力一杯抱き締めてくれた。何度もごめん、ごめんと謝ってくる笠原さんに申し訳なさが芽生える。作戦のはずのこれを邪魔したのは完全に私だ。
謝ろうと思って笠原さんの背中に手を回そうとした所で、強い力で引き剥がされてしまった。
「可南、言いたい事は山ほどあるが、取り敢えず移動するぞ」
笠原さんの後ろで喚く男を視界に入れないように立つお兄ちゃん。笠原さんたちにその場を任せるようで、そのままくるりと方向転換させられ、カウンターの方向へ腕を捕まれ歩き出した。
「……えっと、先に謝ります。仕事の邪魔してすみませんでした」
「流石に分かってるな、この馬鹿野郎が」
「今回は本当にごめんなさい、でも結果的には小牧さんが捕まえてくれたし、まだ許容範囲、でしょ……?」
「しおらしい振りが得意になっただけのようだな?」
「……心配かけてごめんなさい」
「本当だド阿呆」
またいつかのようにいつの間にか手を握られ連行される。実際心配をかけたし、無謀だと怒ってもいるだろうけど、軽口レベルの小言で済んで良かった。今日はあともう一人、謝らなくちゃいけない人がいるのだから。
エントランスを出ると、毬江は遠くからでも分かるほどに不安げな顔でベンチに座っていた。
あの先輩に付き添われていたが、私をしっかり見留めると、くしゃりと顔を歪めて此方に駆け寄ってきた。私も意を決して、お兄ちゃんの手を離れて近づいた。
「まり、あの、」
謝ろうと向き合った瞬間、毬江の燃えるような瞳に貫かれた。あぁ、となんとなく察せてしまった私は、初めてのそれを、心配をかけた報いとして受けようと決めた。そして思った通り、毬江は右手を振り上げる。
私は歯を食いしばり、目を瞑る。少し遠くで小牧さんの焦ったような声が聞こえた気がした。
───ぱち。
びりりとはしたが異様に小さな衝撃と、頬を包んだままの手の温もりに、そっと目を開ける。肩の力を抜いて、改めて毬江の顔を見て、そして固まった。
人前では滅多に泣かない毬江が苦しげに眉を顰め、大粒の涙をほろほろと溢れさせていた。
「まり、」
「馬鹿にするのも大概にしてよ。」
思いもよらない言葉に、謝ろうとしていた言葉が喉に詰まった。
馬鹿に、していただろうか。誰が?私が?
毬江が人前で声を出したという事が余程小さなことのように思えるほどの衝撃だった。
「そんなこと、」
「自覚ない?」
濡れた瞳は真っ直ぐ貫くようなのに、傷ついた色で光っていた。こんな表情の毬江を見た事がなくて、黙るしかなかった。
「私から見える景色はいつも、何処かに駆けていく可南の背中なの。でも私は好きだよ。眩しいくらいに、その時を一生懸命生きてる可南の背中を見てるの、私は好き」
「………」
「っでも、私の見たい“背中”は、今日みたいなのじゃない!怖かった!また可南が傷つくんじゃないかって、……また、可南を助けられないんじゃないかって、ほんとに、」
無事でよかった。
ぎゅうっと抱き締つく身体の震えとその呟きで、あぁ、と思った。
私は全然分かっていなかった。本当に傷ついていたのは誰だったのか、傷つけたのは誰なのか。それでなくても毬江は、人のことになると殊更に優しくて鋭くて、その分すごく繊細なんだって、分かっていたはずなのに。
「毬江、ごめ」
「大体何なの、何も言わずに笛握らせてきて!見せられたって分かんないよ!ちゃんと説明して!ちゃんとプレゼントして!」
「えっ、ごめん」
「ごめんじゃない!それにお揃いならお揃いってちゃんとそう言って!」
「お、お揃いだよ」
「ありがとう!すごく嬉しい!」
怒涛の毬江ワールドに振り回されたが、腕を解いて顔を見合わせた毬江は真っ赤になって微笑んでいた。その顔を見て、今のもまた、私に気を使わせないために、気を紛らわせてくれるためにしてくれた気遣いなのだと気づいて。
「どういたしまして」
自分の首から下げたチェーンに触れる。すると、毬江は鞄を開けてあの紙袋を出した。
「つけて?」
そう言われて差し出されたのは、くしゃくしゃの紙袋に乗せられた銀色のネックレス。ふわふわの髪を横に流して背を向けた毬江は、私より少し背が高い。金具を外し、腕を伸ばしてチェーンを回す。
でも、ごめん。毬江の優しさとは別に、私はちゃんと言わなきゃいけないことがあるんだ。後ろを向いたままでいから。今、言わなきゃいけないこと。
耳が出ている方がそれだと確認して、口を寄せた。
「まり」
「ん?」
「見つけてくれてありがとう。あのとき、私を見つけて、助けてくれたのが毬江でよかった。でも、それで毬江を傷つけたのは本当にごめん。これからはちゃんと気をつける」
「……うん」
「あのね」
「何?」
「心配してくれてありがとう、怒ってくれて、ありがとう」
言ってすぐに身を引いたが、後ろから覗く頬は緩く持ち上がっていた。
*
「あの男、やっぱり黒髪好きだったのね」
例のごとく事務室に入り浸る柴崎は、コーヒー片手に笠原のデスクに寄りかかっていた。玄田隊長の伝によってローカルニュースにもばっちり取り上げられている犯人は、先日郁たちが囮捜査で捕まえた男だ。
「前からわかってた事だけど、きっも」
だが、こうしてあっけらかんと批評できるのも、全て解決したからこそである。堂上は未だ親の仇のように睨むかと思えば、「そんな奴は知らん」と最早居ないもの扱いでニュースすら観ない。
「笠原さん、女の子がそんな言葉使っちゃ駄目だよ、思ったとしても」
そう和やかに指摘してくる小牧に、郁は思わず化け物でも見るかのような反応をしてしまった。しかしそれは、逮捕劇を知る者は皆少なからず同じ事を思ったはずだ。お前が言うか、と。
可南を拘束していた犯人の顔面を利き手で殴り飛ばし、確保したのち喚く犯人の腕を軽く捻り上げておきながら、表情一つ変えず淡々と問い詰めていた様はトラウマ以外の何物でもない。
手塚など可哀想に、警察に引き渡すまで犯人を捉えておく係だったのだが、堂上に睨まれ小牧に睨まれ。自分に向けてではないと分かっていても、尊敬する教官と普段穏やかさが目立つ教官のそんな目を真正面から受ければ精神衛生上良くないに決まっている。武蔵野第一に戻るとき顔色を悪くして、「俺、悪い事は絶対にしないわ」と元から分かりきったことを郁に零していた。
「小牧教官もよかったですね〜、次の約束はいつなんでしたっけ?」
「来週末だよ、二人ともってなると中々合わないみたいでね」
「楽しみですね〜」
「ああ、そうだね」
にこにこした柴崎に返す小牧も、久々に柔らかい笑顔だった。教官も教官なりに二人に会えるのは嬉しいのだろう。
釣られてにこにこしていた郁の肩をつん、と柴崎がつつく。
「ありゃあ自覚したわよ」
「何を?」
カップで口元を隠しながら身を屈めてきた柴崎は、心底面白いというように小牧教官から郁へと流し目を送ってきた。
「あんたは見なかったんだっけ?」
郁が首を傾げるや否や椅子から引っ張り上げられ、連れていかれる。事務室の端にあるソファへと誘導されれば、ご丁寧に手を添えて耳打ちされる。
「小牧教官、犯人殴り飛ばしたあと、可南ちゃんに怪我はないか聞いたのよ。その時の顔がもう、般若かってくらい怖くって。あんなに焦った小牧教官レアよレア」
「何それ、すごく見たかった」
「ほんとあんたにも見せたかったわー」
柴崎は愉快だ愉快だと悪い顔をしているが、うれしいんだろうなぁと、郁は思った。
「これから大きく進展しますかね、柴崎女史」
「それは小牧教官の努力次第でしょう、笠原くん」
こんな事を部下に言われているとは思ってもいないだろう上官と、郁たちにとっても可愛い妹である可南と。二人が並んで立つようになるのが、少し楽しみになった。
*
端末から顔を上げると、カウンター脇の時計は子ども連れの利用者がいなくなる時間帯を指していた。
端末を操作して立ち上がると、すかさず気づいた柴崎さんが振り向いてくる。
「時間です?」
「あと少しでね」
他人の目もあるからか、にこやかに首を傾げる姿はなるほど美人だ。だが先日、冷静でいられなかった自分のほぼ一部始終を見られてしまっている。鋭い彼女の事だ、果たしてどこまで察しているのかと勘繰ってしまって少し居心地が悪い。
深追いして来ないことをいい事に、さっさとカウンターを後にする。フロアに出れば、この頃短くなってきた陽が、エントランスの硝子戸から斜めに細い影を伸ばしていた。
今度は腕時計に目を落とし、もう一度エントランスに目を向けた時、
「こんにちは!」
元気な声と共に、後ろからどんっと衝撃を受けた。まさか後ろから来るとは思わなくて苦笑いしながら振り返ると、毬江ちゃんと可南ちゃんが二人、お団子か何かのように背中に張り付いていた。
毬江ちゃんは、びっくりした?と態々目立つよう加工された文字を見せてくる。
「少しね」
と言うと、片方はえ〜と笑って、片方は信じていないようでにやにやと笑った。久しぶりに見た二人の子どもっぽい振る舞いがなんとも可愛らしくて、頬が自然と緩んだ。
「今日はどうする?」
「私はオススメだけ聞きに来ました、で」
『私は今日約束があるので、顔見せだけ』
「え?」
思わず聞き返すと、それが面白かったのか二人揃ってくふくふと笑う。約束って、と聞こうとする前に『じゃあ小牧さん、可南をよろしくお願いします!』という画面を見せて毬江ちゃんは走り去ってしまった。
その先には、防衛部のはずの男の姿があって。そして毬江ちゃんがそいつに携帯で何かを見せると、二人で此方に振り返った。毬江ちゃんは笑顔で手を振り、男の方は俺に少し恐縮したように会釈した後、連れ立って書架の方へ消えていった。
「久々に見せつけてくれちゃってー」
そんな呟きに隣を見下ろせば、可南ちゃんは自分の事のように頬を染めていた。なんの心の準備もなしにその表情を目撃してしまった俺は、どきりと心臓が跳ねかけた。
「毬江ちゃんはもう、本格的に俺よりアイツが良いみたいで寂しいよ」
目線を可南ちゃんから、二人が消えた方に逸らし、冗談混じりに愚痴を零せば、視界の端で可南ちゃんが空気を漏らすように笑った。
「なんか小牧さん、まりのお兄ちゃんみたいですね」
「みたいじゃなくて、俺は本当に毬江ちゃんのお兄ちゃんだよ?頭に"近所の"がつくだけで」
「ははっ、確かに」
楽しそうにころころ笑う可南ちゃんをちらりと見て、書架の合間を歩き出す。新作コーナーへ行き、可南ちゃんが好きそうだと思っていた一冊を紹介する。可南ちゃんは相変わらず中身を確認せずにカゴの中に入れた。
いつだったか、確認しなくなったことに気づいた時、聞いたことがあった。最初の始まりだけでも見なくていいのか、と。
「折角紹介してもらったものだから、大事に読みたいんです」
それに小牧さんの見立てが間違ってたことありませんし。
そんな全幅の信頼を寄せられて、図書館員として嬉しくない訳がない。それ以来、冒険したい!というリクエストのときや数冊から選ぶとき以外、可南ちゃんはずっとこんな感じで。当たり前だったそれが、今になって物凄く擽ったい。
「あとはどうする?もう一冊くらい行く?」
「いえ、今回は私のオススメを紹介していいですか?」
「もちろん」
大学の図書館で見つけたというその本。もう十進法も習ったという可南ちゃんは、迷うことなくするすると進んでいく。
最初、なんの本を探すにも堂上の後ろにべったりだった中学生の女の子を思うとなんだか感慨深い。
「この辺りにある筈なんです…」
そう言って書架を見上げてはしゃがんでを繰り返す姿に笑みが零れる。ようやくお目当てを見つけて、一生懸命話してくれるオススメポイントを聞いていく。
その本を俺も借りようと手に持ち、カウンターに戻る道すがら、可南ちゃんの胸元に光るホイッスルに目が吸い寄せられた。
「可南ちゃん、それ、ありがとうね」
「はい?」
「毬江ちゃん、本当に気に入っていたよ」
あの日、二人を毬江ちゃん家に送り届けたとき、毬江ちゃんに引き止められてこっそり言われた。可南が"声"をくれたんだ、と。
ネックレスに見えるそれは立派なホイッスルで、それを見せる毬江ちゃんは小さい頃の自信を取り戻したように、いつもより勝ち気そうに笑っていた。
「はい、でも毬江を傷つけちゃって……笠原さんの耳に補聴器を見つけて、毬江に関係があるんじゃないかって思い至ったらカッときちゃって……でも、ただ守られるだけなのも嫌で……」
ぽつぽつと吐露しつつも、反省の気持ちを色濃く滲ませた可南ちゃんは、胸元のチャームに暫し目を落とすと、また此方を見上げてきた。
「だからこれは、自分も護って、それでも助けたいと思った人のために使うことにしたんです」
いい考えでしょう?と言わんばかりの笑顔に、ああ、いつもの可南ちゃんが戻ってきたなと、そう思った。
自分の中に信じるものがあって、それでも周りを受け容れ続けられるこの子は本当に凄い。可南ちゃんの強さは、しなやかさなんだ。だからこそ、この子の目を通して見る世界は、いつだって眩しい。
だがそれを認めるのは何となく悔しく思えて、狡いかもしれないけど大人として一言言わせて欲しい。
「そういう時は大人を呼びなさい。大人を呼ぶのも、助けることなんでしょ?」
可南から言われた言葉、素敵でしょ?と嬉しそうにしていた毬江ちゃん。聞いたままの言葉を返せば、可南ちゃんは驚いたように目を丸くして、少し恥ずかしそうに頷いた。
「……あの、」
「うん?」
「大人の人じゃなくて、その、小牧さんを呼んでもいいですか」
躊躇いがちに、しかし存外さらりと言われた内容を一瞬理解できずに隣を振り返る。そして理解した途端、不覚にも心が高鳴った。
その間、隣の少女は前を向いたままだった。
まただ。前にもこんな事があった。たしか一年前の今頃。あの日は夕陽の中、外でおかえりなさいと言われた。顔を真っ赤にしたこの子が初々しくて、真っ直ぐで眩しくて。
「ダメですか?」
いや駄目って言うか、急にそういうこと言っちゃう所が困るっていうか、見上げないで欲しいっていうか。
(ああ、もう)
普通、女の子の成長って、こんなに早いもんなの。
わざとなの、わざとなのか。そう問いただしたくなる、どこか試すような香りを忍ばせた問いに頭がくらりとした。
その訳の分からない敗北感になんとか耐えて、俺はまた大人の仮面を被る。もう意地。
「呼んでくれて構わないさ」
「やった!」
心底幸せそうに笑う可南ちゃんを見下ろして、そっと目を閉じて、そして前に向き直る。
決めた。
俺はこれからも、"お兄ちゃん"でいる努力をする。だがそれはあと半年だ、この子が二十歳になるまでの、たった半年。
そうしたら俺は、"お兄ちゃん"を辞める。
「やっぱり貸し出しの前に毬江ちゃんを探そうか。一緒に帰るんだよね?」
そう促せば、可南ちゃんはまた目を細めて笑う。じゃあ今度は二人を驚かしましょう!とあっという間に決めて、俺の袖を引っ張って行く。そんな十も歳下の、子どもっぽく傾いた可愛い旋毛を見て、早速不安になってきてしまう。こんなに翻弄されて大丈夫かな俺、って。
fin.