「恋の障害」編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「あのきんつばってお前?」
年末年始の長期休み明けの午後。館内を巡回中、思い出したように訊いてくる手塚に、郁は変わらず辺りを見回しながら口を開いた。
「ううん、柴崎から。あたし帰省してないもん。年末年始くらい心穏やかに過ごしたかったしさ」
少し遅れて手塚も、郁が帰省しなかった理由を思い出したようだった。まあ手塚も家内の事は色々あるからか、こういう話は落ち着いてできる。
「そうか。柴崎に礼言っておいてくれ」
「おいしかったでしょ」
「そうだな」
「まだ残ってたらあたしももう一つもらおーっと」
堂上班の分を取ったら隊共同の茶菓子に回すと堂上教官が言っていた。でも全員分はなさそうだったので、つまりは早い者勝ちだ。
「もうないぞ、玄田隊長が全部食った」
普段あまり口にしないような、あの上品な甘さを思い出してふふふ、と笑っていた郁だったが、手塚の言葉に思わず目を剥く。
「えっ一人で!?あんないいお菓子なのに!?許せない、そんな牛みたいに食らっちゃってっ」
「牛ってお前、仮にも上官に」
郁の物言いに若干慄く手塚だったが、仮にもと言っている辺り、手塚も玄田隊長の食べっぷりには少し思うところがあったのだろう。しかし郁は、カンケーない、食べ物の恨みは凄いのよ、と一刀両断した。
そのままぷりぷりして歩いていると、少し先の角から若い子が出てきて、そのまま閲覧室へと歩いていく。その後ろ姿が、服装からして年齢は可南ちゃんくらいか、とちらりと思いながら視線をずらそうとした時、その子のポケットから何かが落ちた。
少し早足で近づくと、ハンカチだった。しかし、その華奢な背中はそれに気づかずに歩いていく。
「落ちましたよ!」
はて。郁はそれなりに声量には自信があるのだが、少女の背中が見えるばかりで反応がない。自分の事だと思ってないのだろうか。
「ねえ、ちょっと待って!ちょ……そこの彼女!」
「お前、ヘタなナンパか?」
「うっさい!」
若干引いた様子の手塚の突っ込みに吐き捨てながら、途中でハンカチを拾い、彼女を追いかける。
「ねえってば!」
もしかしてこれは無視されてるのか、と思い始めた頃、横の通路から小牧教官が出てきた。目が合うと、小牧教官は女の子の方も見て、自分が二、三歩走って彼女の肩を叩いた。
肩を叩かれた少女は小牧を見上げると、ぱっと笑顔になった。だが小牧が何か話して郁の方を指すと、慌てたように振り向いた。
その弾みで揺れたセミロングの猫っ毛の隙間から、隠れていた耳掛け式の補聴器が見えた。
休憩で事務室に戻ると、ちょうど堂上教官がいた。小牧教官は戻ってないが、先に三人でお茶にした。
「あのぅ、」
先程の少女を思い出した郁は、温かいカップを包みながら、ちょうど小牧教官もいないし、と聞いてみた。
「さっき巡回中に耳が不自由な女の子と行き会って……小牧教官の知り合いみたいだったんですけど」
野次馬だな、と言う手塚が呆れた風だったが、やはり気にはなるらしく、堂上の回答を待っている。堂上は直ぐに誰のことか分かったらしく、あぁ、と頷いた。
「中澤毬江ちゃんだな」
「毬江ちゃん、」
「ああ、小牧の実家の近所の子だ。家同士が親しくてよく面倒を見てたらしい」
妹みたいなもんだそうだ、と付け加える堂上に、郁は嘘でしょ!?と目をかっ開く。
「あり得なーい!本当に兄妹ノリだったら扱い粗雑だもん、喧嘩で投げっぱなしジャーマンとか」
それはお前だけだ、と堂上と手塚からすかさず突っ込まれる。手塚に関しては、ありえないものを見るような目を向けてくるのが納得いかない。
「可南達にだってそこまでしたことないぞ」
呆れた口調の堂上に、まあ確かに可南ちゃんみたいな可愛い子にはしないでしょうけど、と内心愚痴る。
「それより、可愛い子ですよね、よく来るんですか?」
「週一回は来てるんじゃないか?通ってる高校も近所だしな」
「それ、小牧教官に会いに来てたりして。あの二人、付き合ったりとかしてないんですか?」
わくわくしながら訊くと、堂上教官はまた呆れ顔で、その上口元を引き攣らせていた。
「十歳年下だぞ、そういうことを思いつくほうが驚くわ」
「うわ、オジサン!頭かたーい!」
ばっさり言い放ち笑った郁は、オジサン呼ばわりされた堂上がやや精神的によろめいていたのは知る由もないが。哀れ堂上教官、と最早我関せずだった手塚もさすがに同情の目を向けた。
*
あとでまた、と小牧さんと別れロビーに立っていると、肩を叩かれ、そしてすぐ前にその影が回り込んできた。
顔を上げると、いつものように走ってきたらしい可南が、少し肩で息をしながら立っている。
「ごめんね、待たせて」
外ということもあって、可南の言葉に声は出さずに仕方ないなあと笑って首を振り、携帯を取り出してボタンを叩く。
『ううん、大丈夫。さっき小牧さんと会って、ちょっと少し話してたの。あとで約束の時間にまた来てくれるって』
「そうなんだ、よかったぁ」
画面を見せると可南はほっとして笑う。
しかし“小牧さん”と聞いて、ちょっぴり恥ずかしそうな気持ちも滲み出ている表情に、毬江はふふふと笑う。
同い年ではあるが、違う学校に通う毬江と可南。二人が出会ったのは、中学一年の夏だった。
そもそも毬江が本をよく読むようになったのが中学一年、図書隊員になった小牧の影響で図書館に遊びに行くようになった頃だ。
最初は小牧目当てで通っていた図書館だが、小牧や顔なじみになった、小牧の友人らしい小柄な男性──もちろん堂上な訳だが──にも読みやすい本を紹介してもらううちに、本がとても好きになっていった。
そんな本の魅力に気づき始めて、夏休みに入ったある日、毬江は薦めてもらった本のことを話したくて、いつものように小牧を探していた。
見つからないなぁ、と立ち止まったその時、どん、と背中に衝撃を受けて少しよろめいた。
何事かと振り返ると、自分より少し背の小さな女の子が驚いた顔をして尻もちをついていたのだ。
ぶつかったのは、本を読みながら歩いていたかららしい。カゴに腕を通していたせいで手をつけずに転んだようなのに、開きっぱなしの本を両手でしっかりと持っていた。
「ご、ごめんなさい!私、前見てなくて」
「ううん、あなたこそ大丈夫?」
慌てて本を閉じて立ち上がろうとするその子に、毬江は自然と手を差し出していた。その子は、立ち上がると思っていたよりは身長があったが、やはり毬江の目線くらいしかなかった。
小学生だろうか。前を見てなかったのはこの子だけど、自分の方が歳上だし、怪我をしてたら大変だと、何度も確認する。
だが、その子はその子で、私に怪我はないか聞いてくるし、此方の言葉なんて耳に入ってないみたいに謝り倒す。
暫く戸惑いが勝っていた毬江だったが、そろそろ泣くんじゃないかこの子、と心配になるくらい顔をくしゃくしゃにするものだから、なんだか段々可笑しく思えてきて、遂に吹き出した。
毬江が笑っている理由が分からないのか、女の子は一瞬きょとんとしたが、ほっとしたように漸く笑った。
笑いが収まって改めて見てみると、鼻を赤くしてはいるが、目鼻立ちのくっきりした可愛い子だった。
「私はなんともないよ。私こそごめんね、大丈夫?」
「うん、私も大丈夫」
「よかった」
安心させるように微笑みかければ、その子は今度こそにっこりと、素なのだろう快活な笑顔を浮かべた。
「ねぇ、名前は?あたし可南、堂上可南です」
「私は中澤毬江です」
自己紹介していくうち、なんと同い年とわかった。可南ちゃんはますます嬉しそうに目を輝かせた。
「同じ歳なの?なんか運命みたい!毬江ちゃんって呼んでもいい?友達になりたいの!」
こっちを真っ直ぐに見つめる瞳の眩しさを、毬江はきっと、何時までも忘れないんだろうなと不思議なくらい確信していた。
本の趣味が似ていたこともあって、それから二人はすぐに仲良くなった。当時の可南にしてみれば少し遠いかっただろうこの図書館で、夏休みのほぼ毎日を一緒に過ごした。
もちろん、他にも互いの自宅や公園、可愛いお店などでも会って遊んだが、共通の知り合いである小牧や堂上がいる図書館が、専らの遊び場だった。
夏休みが終わっても一年過ぎても、二人の交流は変わらず続いた。そのうち、毬江になら、可南になら、と。お互いがお互いにとっての、何でも一番に相談できるし、喧嘩をすると何処に逃げるかまで分かる友達になった。
そして可南と出会って三度目の夏休みを迎えようとした頃だった。
毬江の耳が聞こえなくなった。
毬江が発症したのは突発性難聴という、発症二週間以内に治療を開始しなければならないと言われるものだった。そして大きな病院での検査が遅れた毬江は、そのリミットを疾うに過ぎて、治療もほとんど効果がなかった。
左の聴力は何とか取りとめたものの、右は間に合わなかった。しかも左だって補聴器がなければ聞き取れない。
──たった数週間前まで普通に聞こえていたのに。
──もしすぐに診断がついていたら。
そう思わない訳がなかったが、それでも毬江は、学校に通った。何とかやって行けると思ったのだ。でも聞こえないことをあまり主張出来なくなるにつれて、喋ることにも気後れするようになった。
聞こえないことを我慢していると、授業も友達付き合いもつまらなくなった。
段々と休みがちになり、冬が来る前には完全に不登校になった。中学を一年休学すると決めると、毬江は部屋に閉じこもってばかりになった。
可南が会いに来たのは年末の、締め切ったカーテンの隙間から雪がちらつく、そんな頃だった。
それまでも、受験勉強の合間を縫って可南が訪ねてくれていたのは毬江も知っていた。しかし、毬江が会おうとしなかったのだ。
正直、普通に耳が聞こえて、今まで通りに生活している可南が羨ましく、そして妬ましかった。
でも、毬江は自分でも分かっていた。会いたくない一番の理由が、嫉妬や羨望ではないということを。それは可南の声が変わって聞こえることへの不安と恐怖だということを。
家族や頻繁に家に出入りする小牧の声が変わったことには、否が応でも慣れた。しかし、毬江は可南の声が好きだった。色んな事を話して、喧嘩して怒鳴り合って、でも馬鹿みたいに沢山笑い合った、あの声が一等好きだったのだ。それが聞けないなんて、毬江は認めたくなかった。
─────…………。
暗い部屋の床に、廊下の明かりが差した。見れば、ドアが小さく開けられて、可南が立っていた。
おそらくドアを開けるとき、控えめな音がしていたのだろう。毬江には聞こえなかったが。
「“久しぶり”」
案の定、補聴器で補正された"音"がした。毬江は手を握りしめた。可南の表情は、見えなかった。
改めて"聞こえない"のだという現実を突きつけられたような気がして、どうしようもない怒りを覚えた。
両親にも小牧にも誰にもぶつけることが出来なかった感情がせり上がってくる。怒り、悲しみ、悔しさ、心細さ、妬ましさ、そして──。
当たり前に享受していた世界との、人との繋がりの糸を切られたようだった。たかが、人より音が聞こえないだけ。たかが、人より声量をコントロール出来ないだけ。
自分は変わらないのに、周囲から見た“自分”があっさり変わっていくのが怖かった。
音もなく部屋に入ってきた可南。もし可南が変なことを言ったら、同情は要らない!と叫んでやろうと思った。
でも、可南は黙ったまま、ゆっくり隣に座った。そして何も言わずに、ただ自分を抱きしめた。
「“久しぶりだね”」
その“音”は、久しぶり過ぎて驚いてしまうくらい、はっきりと“聞こえた”。抱きしめる可南の顔が、自分の顔の左にあることを、この時初めて意識した。
今日、来るとき雪が降ってたよ。
最近寒くなったけど、風邪ひいてなかった?
近くに、新しいケーキ屋さんできてたね。
何が言いたいのか分からないような、なんて事のない、本当に些細な事ばかりだった。ぽつり、ぽつりとただただ喋り続ける可南の声が耳に馴染んでくる頃には、いつの間にか泣いていた。
そして涙声になっている可南の背中に手をやって、ぎゅっと抱きしめ返した。
初めて人の涙を温かいと思った。そして診断を受けてから、初めて自分のために泣けたことに気づいた。
呟きが嗚咽だけになっても、私は可南に何も言わなかった。
そして今、毬江と可南はそれぞれが高二、高三になった。互いにおすすめの本を紹介し合い、数冊見繕ったところで揃って肩を叩かれた。
「お待たせ、もう決めたんだ?」
毬江は笑って頷き、携帯を叩いた。
『あとは小牧さんのお勧め待ち』
「何かリクエストある?」
「新しい作家さん開発したいねって話してたんです」
小牧は少し考え込んだ後、書架をいくつか移動する。毬江と可南はそこにいくつか並んでいる同じ作家さんの本を眺めた。様々な雰囲気を感じる背表紙の中で目移りし、小牧におすすめを尋ねると、小牧は迷った様子もなく一冊抜いて毬江に渡した。
タイトルは『レインツリーの国』
紙飛行機が印象的で、他の本と少し雰囲気が違うような気がした。
『ありがとう 気に入ったら他のも読むね』
小牧は毬江の打った言葉に微笑み、次は可南ちゃんのだね、と笑顔で歩き出した。
センター試験が間近の可南には、“寝る前の癒しの五分間”というストレッチの雑誌で、成程、妙に小牧さんがにこにこしてた訳だと、二人して笑ってしまった。
貸出手続きを終えると、三人はいつものようにささやかな約束を交わした。次は来週の土曜に会えるらしい。でも可南は試験のため来れないから、次に三人で会えるのは月末になりそうだ。
毬江と可南は名残惜しく手を振って、図書館を出る。小牧さんも入口から軽く手を挙げて微笑んだ。
それはいつもと変わらない、見送りの仕草だった。
*
「ところでさぁ、中澤毬江ちゃんって知ってる?」
夜、部屋に戻ってすぐ郁が訊いてみると、柴崎はあっさり頷いた。
「小牧教官のお姫様でしょ?」
「なーんだ知ってたのか」
「あら、知ってちゃ悪いのかしら?」
「そういう訳じゃないけどさ」
たまには柴崎を出し抜いてみたかったのに。流石の情報網というやつで、柴崎に死角はないらしい。
つまんなーいと郁はコタツに俯せるが、野次馬話ができるのは普通に楽しいので、また直ぐに起き上がった。
「ね、あの2人って感じよくない?」
「そう?」
「そうなの!」
なのにね!と、郁は昼間の堂上たちの煮えきらなさを、彼らの表情に至るまで細かく語った。テレビを見ながらも郁の話で少し笑った柴崎は、あー、と納得したように口を開いた。
「まぁ、あの2人は朴念仁の師匠と弟子って感じだし」
柴崎のその返事に郁はにんまりとして、いよいよ意気揚々として喋り出した。
「彼女のほうは絶対小牧教官のことすきだよね!」
郁はふんす!と内心胸を張って断言したが、途端に呆れ顔をする柴崎。今のどこに呆れる要素があったのか。郁は訳もわからず、きょとんと黙った。
「あんた本当に鈍いのね」
「え?だって柴崎も、"お姫様"って」
「お姫様はお姫様でも“ちがう”お姫様よ」
「あのぅ、ちょっと意味がわからないんだけど?」
巫山戯ているのか、と思わず確認した郁の表情があまりにもアホ面で、柴崎は頭が痛くなる。師匠と弟子どころか、堂上班で一家が作れそうじゃないか。むしろ無事な人が一人いるだけで良しとするべきなのか。
自分にしては馬鹿な事を考えている、と自覚のある柴崎は苦い表情を浮かべる。
「あんた本当は男なんじゃないの?」
「なんで性別を疑われなきゃいけないのか分からない」
「いよいよ本当に朴念仁の仲間入りよ?」
そこまで言っても本気でわかっていない様子の郁に、柴崎は本日最大の溜め息と白い目を贈った。
「小牧教官を好きなのは"堂上教官の"お姫様よ」
"堂上教官の"?…それって、
「えー!?嘘ッ!」
「嘘ついてどーすんのよ」
「全然気付かなかった!え、じゃあ小牧教官のほうはどうなんだろ、気になる~!」
「あ、くれぐれも余計なことしないでよ。あの二人、あたしの長期ウォッチ物件なんだから」
「何それ」
ああいうのは黙って見守るのが面白いのよ。しれっと吐かす割に、頬杖をつく柴崎の表情は憂わしげだった。
「可南ちゃんのほうはわかりやすいんだけど、小牧教官はシッポ出さないわよねー」
存外可南ちゃんを可愛がっている柴崎としても、何か思うところがあるのかもしれない。
しかし透かさず、あの人、タヌキだから。と付け加える柴崎に、女タヌキ・柴崎の小牧教官への評価が垣間見えた気がして郁は笑った。
そんなバカ話をしたのは仕事始めの週末で、数日後、話題にした人物に思いも寄らぬ事件が降りかかってくるとは、誰も予想だにしなかった。