「王子様、卒業」編
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「──、──、……可南?」
「ん?うわっ」
目の前いっぱいの顔に、思わず腰を浮かせてしまう。ガタンと鈍いプラスチック音が教室中に響き渡った。ちらほらとペンやノートパソコンを片手に、何事かと最後列の可南を見上げる視線に身が竦む。
「どうかしましたか」
「す、すみません、ちょっと虫が……」
へこへこと頭を下げながら首を振るという必死の芸当をしてみせると、年配の教授はまたスクリーンに向き直り穏やかに話し始めた。多くの視線は既になくなったが、窓際にいた同じ学部の安達ちゃんからは無音で「大丈夫?」と心配されてしまった。小さく頷き、今更バクバクと音を立てはじめる心臓を押さえつけた。
「何が虫だよ」
不満そうに頬杖をつく元凶をキッと睨む。
「急に目の前に出てくるからでしょ!?」
「急にじゃないし、そんな近くないし、話しかけてもずっと上の空だったのそっちだろ」
「だからって!」
気づいたらすぐ目の前に人の顔があるなんて誰でも驚くに決まっている。小声で抗議しても、まるで我関せずの何処吹く風。恨めしくなって頬を膨らませてみても、可愛くない、と一蹴する有様だ。
「直月くん顔だけは良いんだからやめてよね!?」
「よく言われる」
「こんの、」
「そんなことより、なんでそんな上の空なの」
「えー…そんな上の空だったかな」
「そういうのいいから」
「いや別に、ほんと……お昼なに食べようかなぁって」
「あっそ、で?その手首の痣はどう説明する気?」
さっと血の気が引いた気がした。服の上から思わず左手首を押さえてしまってから、はっとして隣を見る。
「ただの痣じゃないだろ」
相変わらず頬づえをついたこの友人は、何故気づいたのだろうか。昨夜ちゃんと冷やしたから薄くなっているし、袖の長いニットだって意識して選んで着ているのに。
話すまで逸らされる事がなさそうな黒い目に、揃いも揃って自分の周りはどうして鋭い人が集まってるのかと困り果てる。誰に対してもデリカシーに欠けるように見える男だが、普段はこんなにに踏み込むことはしない。
「……あとで、話すよ」
あんまり聞いてて気持ちいい話じゃないと思うけど、と可南は目を逸らし、溜め息をついた。
「そろそろ、聞いてもいいか?」
今日最後の授業後、人のいない自習室について程なくして飛んできた問い。切り出してきた友人は、私から切り出す勇気が中々出せないことに気づいているようだった。言いづらいことを言わせてしまったことが、申し訳なくて。覚悟しなくてはと思っても、やはり気が重かった。
「質問で返して、ごめん。先に私が聞いてもいい?」
今の何だか、まるでドラマの中で別れ話をする恋人みたいだね、なんて茶化してみるが、こんな時に限って彼は本気で心配そうに眉尻を下げて笑う。とてもじゃないが、淡々と話すには勇気が要りすぎる。
「……なんでわかったの?」
痣のこと。
今更口に出さなくても、彼は聞かなかった。閉め切った窓の外で、冷雨の薄く烟るような音がしていた。絞り出すようになってしまった声に、友人は初めて、少し躊躇うようにカップを握り込んだ。
「正直、今朝の時点で変だった。でもその時はお兄さん辺りと喧嘩したか、小牧さん絡みで何かあったか何かだと思ってた。
けど、見えたんだよ、回ってきたプリント受け取ろうとして腕伸ばしたとき。お前袖で隠しただろ、無意識かもしれないけど」
記憶にない、と言えば嘘になる。でも本当に咄嗟のことで、それに可南は彼の座る方とは逆の方を向いていた筈だ。
「この前読んだ探偵みたいだね」
「悪かったな、じろじろ見て」
なんて軽口を挟みつつ、事の次第を、とは言ってもさらっとほんの上澄みだけ伝えた。あくまでも何でもないことのように。
「痴漢?」
はっきりと驚いた顔をする直月くんに、あぁやっぱりもしかしたら、とぎゅっと息苦しいような不安が増す。
痴漢と一口に言っても、被害者にも要因があるのではないかと言われることがある。それは加害者側の主張だけでなく、世間一般の考え方としてもだ。被害者ぶっている、嘘つき、誇張している、自意識過剰、自衛不足。
冤罪被害も少なくない今、加害者側の性の人のみを避難することがはばかられるのも理由なのだろうか。
それでも、当事者になってしまった私にとって何よりの怖いのは、何でもない時にふとしたきっかけで蘇る記憶と、この事を伝えたときに自分に向けられる周りの目だと思った。彼のような男性には、特に。
「まあでも!大丈夫!大した事ないよ!さっきはちょっと思い出しちゃっただけだし」
急に大きな声になって、不自然だっただろうか。誤魔化すように笑いながら、先程買ったカップの蓋を開ける。開けてはみたものの、まだまだ湯気を立てるカフェオレに口を付ける気にはなれなかった。仕方なく鞄からノートやペンを出して机に並べてみて、今日出されたばかりで急ぎでもない課題資料をパラパラと眺めようとしたとき、
「嘘つくなよ」
数段低くなった声が聞き取れず正面を見ると、見たこともないような怖い顔で拳を強く握った友人がいた。
「え?何か言った?」
「言ったよ、大した事ない訳ないだろ。んな心無いヤツ怖かったに決まってんだろ!自分に嘘ついて何考えてんだッ!それとも、何か?それを聞いて俺が可南をそういう目で見るとでも思ってたのか?性的なネタとして!」
「ち、ちが」
「当たり前だッ!お前なんか守備範囲外もいい所だ!」
思わぬ言葉の数々に可南は呆気にとられる。咄嗟に言われたことを消化できずに黙っていると、彼は我に返ったように目を逸らした。
「ごめん」
可南が怯えたと思ったのだろうか。彼はその気まずげな謝罪を最後に、ずっと握り潰しそうだったカップに口をつけた。可南も、湯気の薄くなったカップを両手で包み込んだ。
ずっと持っているにはまだ少し熱いその温もりが、なんだか目の前の友人に似ているような気がした。
「ねぇ」
「ん?」
「ありがとう」
「……ん」
あっち、と言ってコーヒーを睨みながらもちゃんと返事をしてくれる様が、いつも通りでほっとする。だが先程の姿を見たせいか、何処か可愛らしく見えて微笑ってしまった。
友人の存外漢らしい一面を発見してほくほくしていたが、当の本人はいつの間にか携帯を開いて難しい顔をしていた。
「どうかしたの?」
「あぁ、いや今日この後バイトは?」
「ううん、ないけど」
見せる気はないようで、黒い携帯の背面を眺める。テーブルに置かれた一瞬、何かのホームページが映してあったのが見えた。
「なあ、ちょっと提案なんだけどさ」
「うん」
「図書館行かね?」
「えっ?」
今コイツは何て言った。
「あのさ、話聞いてた?」
「ああ」
「なんで図書館?」
「なんでも」
真剣な顔をして、何を考えているのかと思えば。目の前の男は鬼だったのだろうか。図書館、寄りによって図書館。
「まだ怖いか?」
聞く順番が違うのでは、と思う問いに訝しさが先立ってしまい少し眉を顰める。
「平気だけど……なんで」
「事実の確認はしたのかと思っただけだ」
「確認?」
「つまり、事情聴取はされたかってこと」
「えっと、」
「その感じだとやっぱりまだだろ」
「やっぱりって何。確かに昨日は何も聞かれずに帰ったし、その後もまだ何も聞いてないよ。でもそれはもう一人目撃者いたからだと思うし、私自身その、いっぱいいっぱいだったから」
事情聴取。全く考えていなかった訳ではなかった。現に、兄からは昨日実家まで送って貰う道すがら、無理はせずに私が出来そうならで構わないと言われたが、何時やるかは聞かなかった。今朝来たメールも、大丈夫か、とか心配する内容で事務的な連絡はなかった。
「…甘やかされてんな」
「え、」
彼からは聞いた事のない、吐き捨てるような口調は本当に目の前の彼から発せられたのだろうか。固まってしまった私を一瞥して、彼は頬杖をついて顔を背けた。
「だってそうだろ。普通、事情聴取って聴取相手の記憶が曖昧になって下手に主観で補われないうちにやるもんだろ。それなのに全く無しで帰されたってことは、犯人捕まえるより可南の精神安定を優先したってことだろ。それをお兄さん達の甘やかしって言わないで、何て言うんだよ」
甘やかされている。
昨日の対応をそんな風に考えた事はなくて愕然とする。頭の中で反芻してまた心に刺さった。
「今言わなくていいけど、犯人に繋がる情報を何か覚えていませんかって聞かれたら答えられるか?」
彼の言う犯人に繋がる情報は、人相、体格、服装、持ち物、声、等々だろう。思い出せない訳ではないが、思い出さなくていいなら思い出したくないというのが正直なところで。
「……」
「覚えてはいるんだな?それを可南から伝えた方がいい。覚えているうちに。いや、むしろ可南が早く忘れるために」
「…忘れるため?」
意外な見方に思わず聞き返すと、真剣な目で頷き返される。
「早く話してしまえば、その分さっさと忘れていいだろ。もう協力したし、自分の知ってる情報は共有されたんだから」
先程から考えてもいなかったことばかりで、すぐに返事できなかった。手元に目を落とすと、彼の手元の画面から、武蔵野第一と不審者注意という文字を見せられた。理解はできる。理解はできるけど。
「やだ」
「可南、可南が図書館をまた安全な場所にするんだ。そいつ捕まえないと、誰かがまた同じ目に遭うぞ」
「でも」
「でもじゃない。お前がやらないで誰がやるんだ。なるんだろ、図書館員に」
「……」
「守ってみせろよ、未来の図書館員」
滲む視界の先で、彼の力強い目に挑戦的に見つめ返された気がした。
*
事務室特有の雑音に紛れて、腕時計が小さく五時を報せた。いつの間にか雨音は止み、薄曇りの鈍色も夜闇に霞もうとしていた。タイピングを止め椅子に背を預けると、伸ばした肘と背もたれの軋む音が重なった。
ポケットに手を突っ込み、股の間でパカリと携帯を開くが、やはり今朝以来新着のメールはない。
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From: 可南
───────────────
Sub: Re: おはよう
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大丈夫!いつもよりはちょっと
寝つけなかったかなっていうく
らいで案外ふつうだよ。
じゃあいってきまーす(^o^)/
P.S.お兄ちゃんもいい加減メー
ルじゃなくってアプリ入れてよ
ね
──────End───────
拍子抜けしそうな程何時通りの能天気。文字だけでは無理をしていないかと心配は尽きない。あくまで文面を見る限り電話やメールくらいなら重ねても問題なさそうだが、聴取の話はいつ告げようか。今日はまだ下手に掘り返して思い出させないようにすべきだろうか。
しかし、可南本人からの証言が全くない状況というのも中々困りものだ。これは自分の判断の結果であって、可南のせいではないのだが。どうしたものか。
携帯片手に溜息をついたところで、珍しく斜向かいの部下と目が合った。
「どうした手塚。何かあったのか?」
「いえ、自分は何も。ただ堂上二正の様子がいつもと違うようでしたので。……妹さん、ですよね。大丈夫ですか。」
予想外の返答に面食らう。部下が態々指摘するほど平静を保てていない自分を恥じる。だが配属されて直ぐの手塚からは考えられないような言動に、不器用な部下の成長を感じて少し胸が熱くなった。
「あぁ、恐らく大丈夫だろう。学校にも行ったようだしな。…仕事中に悪かった、気をつける」
「いえ、自分こそ出過ぎた事を言ってすみません」
少し和らいだ生真面目な顔が逸らされて、先程とは少し違う溜息が出た。休憩毎に携帯を見てしまっていた自分は、何時だったか兄妹喧嘩で言われた兄馬鹿というやつなのだろう。聴取の話は、明日にでもすればいい。
気を取り直そうと首を一周回してみた所で向かい側に空のデスクが目に入り、腕時計に目を落とした。
「小牧、只今戻りました」
「お疲れ、どうだった」
「他の図書館で同様の被害は報告されてた。ただ今回と同じやつかまでは。」
「そうか」
「笠原さんは?」
「柴崎のところだ。緊急だと言っていたが、よく分からん」
アイツが席を立ってから十分以上経つ。すいません!緊急で柴崎のとこ行って来ます!と出て行って帰ってくる様子がない。そんなに時間が掛かるなら用件なり理由なり、少なからずあっていい筈だろうが。
「え?そうなの?俺、業務部寄ってきたけど見当たらなかったな」
「は?一体何処にいるんだアイツは」
腕を組んでドアを睨むと、隣から息の抜ける音が聞こえた。小牧は生暖かいと言うにはいささか意地の悪い笑みを張りつけていた。
「……何だ」
「いや?ただ、らしいなぁと。そんなに心配なら探しに行ってあげればいいのに」
「なんで俺が行かにゃならん」
「そんなのわざわざ言ってほしいの?」
年甲斐もなく首を傾げて笑いかけられ、苛立ちを隠さずに片眉を上げた。
「その顔やめた方がいいぞ、底意地の悪さが滲み出る」
「ははは、心配事が多すぎて疲れきったジジイみたいな顔してるお前に言われたくはないな」
一瞬にして雰囲気が変わったと見上げた途端、噛みもせず言い放たれた暴言と、米神の青筋に思わず頬が引き攣る。
当の本人は此方を気にする素振りなく、薄く微笑んだまま「笠原さんなら休憩ついでに俺探してくるよ」と別件の封筒を置いて再び事務室を出て行った。
*
バタンと小さく無機質な音を背に、買ったばかりの白い箱から一本。口に咥え、安っぽいプラスチックを鳴らした。
もう味も忘れてしまっていた紫煙を、一息だけ深く吸って吐き出す。前よりだいぶ苦く感じるそれを攫っていく夕闇が髪を揺らすのを視界の端に認めて、小牧は目を閉じた。
「…堂上相手に何キレてんだよ」
言葉にすると余計に情けなく、身体の力が抜けていった。ドアに寄り掛かり、そのままずるずるとしゃがみ込む。そして一度口をつけただけのフィルターを、身内しか通らないからと雨上がりのコンクリートに押し付けた。
塀の向こうを行き交う車両の音に紛れ、ぽつりぽつりと通っているだろう人の足音。その中に見慣れた少女を思い描いてしまった途端、ぐっと喉が詰まった。
(……くそ、)
今回のことがこんなにも精神的に来るなんて、小牧自身、正直予想外だった。だがそれが自分達の領分で起こったからなのか、害されたのが彼女だったからなのかまで分からないふりをするつもりはない。そんなに鈍く青い時期など、遠の昔に過ぎ去った。ただ、ここまでとは思わなかっただけだ。
あの時、毬江ちゃんに駆け寄りながら、でも意識は否が応でも可南ちゃんに向かっていて。
そして堂上の腕の中に収まる可南ちゃんを見て、その小ささに震えた。
どうして未然に防げなかった。
どうして直ぐに駆けつけられなかった。
どうして誰も捕まえられなかった。
どうして、とやるせなさばかりが募る。
小さく震えていた背中と、柴崎さんの説明に混じって微かに聞こえた息を殺した嗚咽に、どれだけ腸が煮えくり返ったか。どれだけ自分の手で抱きしめてしまいたかったか。
その彼女が堂上を見る度にちらちらと重なるのがどうしても耐えられなかった。
あの子が最初に頼るのは俺であって欲しかった、なんて。
胸の奥にどろりとした苦味が滲みかけて、不意にチリンと鳴った自転車のベルが押しとどめた。小牧は、くっと瞬きを一つして、大きく息を吸った。
塀の向こう側の少女には、ついこの間まで制服を着て俺を見上げていた少女には。こんなところ見せられないなと、自嘲的な笑いが漏れた。