「王子様、卒業」編
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濃く色づいていた木の葉が絨毯をつくる頃。業務のため館内を回れば、厚手のスカーフや渋い色味のジャンパーが目に入る。疎らな人を避けながら配架していた昼下がり。少し重みのあるワンピースの裾と秋物のブーツが、しゃがんだ郁の横に立った。
「こんにちは」
「可南ちゃん!こんにちは、今日は半日の日なんだっけ?」
「はい、午前の必修がなかったら全休だったんですけど。惜しかった」
おちゃらけて笑う可南ちゃんは相変わらず可愛くて、頭を撫でてしまいたくなる。
大学生になった可南ちゃんは春から一人暮らし。料理もそれなりに楽しんでいるらしく、柴崎と三人のとき作ったものの写真を見せてくれる。
春の一時期、高校の時よりも頻繁に遊びに来ていた可南ちゃん。ホームシックとか?と心配したが、程なくして落ち着き、皆してほっとしたのは記憶に新しい。
柴崎に言わせれば、「むしろ兄の方が漸く落ち着いてよかったわね、って感じ」だったらしいが。
合格祝いの席で、堂上教官への憧れも志望理由の一つだったことを、こっそり話してくれた。何となくそんな気はしていたが、昔の自分を見ているようで少しむず痒く、微笑ましかった。
当然のように司書課程のある大学を受験した可南と、それを知らなかった堂上教官が一度電話ごしで喧嘩していたのは、まあ確かに強烈だった。
《相談もしないで!危ないのが分からないのか!》
《だから!心配してくれてるのはわかるけど、私の問題じゃん!お兄ちゃんに相談する事でもない!》
自室にいる人の怒鳴り声が男子寮どころか共同フロアにまで響き渡るなんて、普通に有り得ない。同じ妹として上官に呆れることになるとは思わなかった。
「今日は?毬江ちゃんと勉強?」
「いえ、今日は読書用を少し借りようと思ってます」
「そっか」
可南ちゃんの持っている本は小説に新書と実用書が加わっていて、何となく時の流れを感じてしまった。
「あ、あとはまたお兄ちゃんに奢ってもらう約束があるくらいですね」
続けられた可南ちゃんの言葉のインパクトに、浮かべていた笑みを一瞬引き攣らせてしまう。
相変わらず兄妹仲が良くて微笑ましいが、言葉選びに遠慮がなくなってきた。教官曰く"余所行きモード"が抜けてきているだけらしいが。
(正直というか何というか……)
口角から滲み出てしまう苦笑をわかった上で、可南ちゃんはかえって悪戯っぽい笑みを浮かべる。教官だけに見せていた無邪気さに慣れてはきたが、柴崎を連想するものに近づいているように思えて内心身震いした。
「笠原さんそれ配架する図書ですよね?」
鞄を後ろ手に、左に身を倒す可南ちゃんは、本が半分ほどになったブックトラックを覗き込む。
「うん、そうだけど……?」
「やらせて下さい!」
何を言い出すのかと思えば。此方を見上げる彼女があんまり目を輝かせるから、少し考えてしまう。
「うーん、それはどうなんだろ、職務の内だしなぁ」
「実は日本分類十進法を習ったばかりで!少しだけやってみたいんです!」
「いや、でも」
「お願いします!あ、じゃあ一冊だけ!」
一冊だけってどういうこと、と思わず笑いそうになる。でもこういうの厳しいんですかね?と顎に手を当てて、真面目ぶった表情をしながら目だけはまさしく"おねだり"してくる姿は、妹分らしくて面白い。微笑ましく、これはついつい絆されていまいそうだ。
郁が渋っていると、可南の後ろからバサリと鈍い音がした。顔を上げると大きな鞄を持った男が本を落としたらしかった。
可南ちゃんがそれを拾い上げ、大丈夫ですか?気をつけて下さいね、と手渡した。男は小さく礼を言ってそそくさと行ってしまった。
「カゴでも渡した方がよかったかな?」
「大丈夫じゃないですか?カウンター近いですし」
確かにと納得しかけて、郁ははたと考える。年下の、しかも勤務していない子の方が業務の判断ができるってどうなんだ、と。
郁が何となく苦い気持ちになっていると、書架の陰から堂上が顔を出した。
「可南、決まったか?」
またトラックを覗き込んでいたらしい可南ちゃんが、ぴゃっと姿勢を正したのが視界の端に見えて笑いそうになる。
「うん、じゃあ笠原さん、また!」
郁も笑って手を振って見送ると、堂上とバチリと目が合った。すると堂上の口元が小さく歪み、郁に向かって何やら口をぱくぱくさせた。
"早く終わらせろよ"
自分にしか分からない暗号のようで少しどきりとしたが、郁ははっとして負けじと口を動かす。
"わかってます!"
拳を握りしめ半ば睨むように見返すと、堂上は、隣に並んだ可南が歩き出すとまた言葉を紡いだ。
"頑張れよ"
郁は一瞬息が止まり、顔にどっと熱が集まるのがわかった。
(何あれ!何なのよアレ!?)
また馬鹿にするかと思って正面に身構えていたのに、カウンターをもろに食らった気分だった。
顔の熱を誤魔化そうと、残っていた図書をどんどん片付けたが、結局その昼休みはコップを倒したり壁にぶつかったりと散々だった。挙句の果てには柴崎を階段から突き落としかけ、郁には当分の金欠が約束されたとか。
窓があれば、色とりどりの絨毯の上を夕闇が滑るのを映すだろう時間。
人通りのない静かな廊下に、男のひどく焦った足音が響く。だがそんなものは利用者のいない時間に気にする筈もなく、そのまま剣呑な音を立ててドアを押し開いた。
「毬江ちゃん!?」
「小牧さん、」
小牧は控え室中央に座っている毬江の前に跪くと、大丈夫か尋ねた。思わずといった風に小牧の名前を口にした毬江だったが、顔を強ばらせながらもしっかり頷く。
顔色は悪いが、わりかし落ち着いているその様子に小牧は少しだけ安堵した。柴崎に椅子を勧められ、やっと毬江の向かいに座る柴崎を見て「どういうこと」と説明を求めた。
「すみませんが、」
柴崎は書類に目を落とし、手元の紙を一枚、此方に滑らせた。
事件が起きたのは、今日の午後4時頃。閉館時間に近いこともあり、利用者自体少ない時間帯だった。
毬江は一日、可南に勉強を教えて貰っていたが、途中、「そういえば参考になる本があった」と言って可南は席を立ったらしい。
毬江は暫く待っていたが、遅いのでメールしたが返信もなく、不思議に思って探しに行ったところ彼女を発見した。
「……それが、毬江ちゃんから聞けたことなんですけど、」
小牧が読み終えたタイミングを見計らった柴崎は珍しく言葉を濁した。だが柴崎の言わんとするところは、嫌でもすぐに分かった。
この部屋に来て、ずっと見ないようにしていた。部屋の奥で、兄に縋って泣く可南と、妹を掻き抱く堂上。彼女の肩は震えているのにあまりに静かで、胸が絞られる。息が出来なくなりそうだ。思わず眉を顰めた小牧は、目を閉じて無理矢理意識を引き剥がし、柴崎に向き直った。
「今日の所はもう、毬江ちゃんは送っていいかな」
「もちろんです。是非そうして下さい。事情聴取も辛かったはずです。……毬江ちゃん、ありがとう。気をつけて帰ってね」
毬江が頷いたのを見て、先程目線を外した方を向く。聞こえていたらしい堂上が、静かに目で促した。相変わらず妹を抱き締める彼だが、控え室に来た時よりは、少し顔色が良くなっていた。
小牧は小さく微笑い、毬江の背に手を添え部屋を出た。
『私のせいなの』
毬江ちゃんの家に入ろうとした時、不意にツンっと袖を引かれ、見せられた小さな文字。毬江ちゃんの目は携帯を見せながらもずっと伏せられていた。
自分のために本を探しに行ったことがきっかけだと、責任を感じているのだろう。優しいこの子らしい。そんな訳はないのに。
小牧は正面に向かい合い、そっと屈んで目線を合わせた。
「毬江ちゃんが責任を感じることはないんだよ」
意識してゆっくり優しく言っても、毬江ちゃんは苦しげに首を振る。その目には涙が溜まり始めていた。
『何もできなかった』
「そんな事ない。だって毬江ちゃんが知らせてくれたから、」
「違うのッ!!」
毬江が外で突然声を出した事に驚く。彼女自身も驚いたようで一瞬身を固くしていたが、すぐにきゅっと口を結び、携帯を叩き、突き付けてきた。
『あの時、私は助けを呼べなかったの』
「うん、だから警備の人を呼びに行って、」
言いかけた小牧は、口を開けたまま固まってしまった。毬江の言う"呼べなかった"の意味に、漸く気づいた。
彼女の"呼べなかった"は、初めから声を出すことじゃなかった。怖くて動けなくて、"呼びに行けなかった"んだ。
(あぁ……)
小牧が、自分の言いたい事にやっと気がついたと分かったのだろう。毬江は最早泣きそうになりながら携帯を叩いた。
『私、怖くて何もできなかったの。ただ見つけて立ってただけなの。だから、』
ただの画面上の文字なのに、一文字一文字増えていく毎に彼女の気持ちが痛いほど伝わってきて、どうしてすぐに気づいてあげられなかったんだと情けなくなる。
(……クソ、)
『私のs──』
俺は堪えきれずに、彼女が打ち終わる前に画面を手で覆った。毬江ちゃんは驚いたように顔を上げたが、そのまま携帯を彼女の鞄にしまう。
その間に毬江の目から一雫落ちたが、肩に手を置き、目を見てゆっくりと話し始めた。
「いいかい、今回の事は毬江ちゃんは何も悪くないし、声が出せなかったのも、動けなかったのも、あの場にいたら仕方の無いことだったんだ。だから、絶対に自分のせいだなんて思わない事」
そうは言われても、やはり納得出来ないのだろう。反論する術を奪われた毬江は、口を開きかけたが、黙って首を振る。
「毬江ちゃん。厳しい事言うようだけど、起こってしまった事はもうどうにも出来ないんだよ」
はっきりと傷ついた顔をしたが、目だけは真っ直ぐに此方に向ける少女に、初めは彼女のだった正論が今だけはとても苦々しく思えた。
「だから毬江ちゃんは、これから可南ちゃんにしてあげられる事を考えて」
小牧は、毬江が一度頷き、そしてこくこくと頷くのを見て微笑み、白いハンカチを差し出した。
「それと、俺がいいって言うまで図書館に来ないこと。借りたいものがあったら俺に言うこと。……いいね」
「……うん」
「じゃあ俺はおばさんに話してくるよ」
小牧はいつも通り挨拶をして家に入り、先に毬江を2階に上がらせた。
毬江は言われた通り部屋に向かったが、ダイニングのドアが閉まる音を聞いて立ち止まった。
(……小牧さんは気づいてないのかな)
私に言い聞かせている間、小牧さんの方が傷ついた顔をしていた事に。事務室から出る時、私の背中に添えた手が震えてたことに。
「……可南っ」
毬江は少し冷たくなったハンカチを握り締めた。
*
心地よい揺れに、目を覚ます。首が曲がっていたようで、目の前まで迫っていた真っ黒な鏡のような窓に、自分の顔が映っていた。
窓辺の寒さがなんだか怖くて、ハンドルを握る黒い横顔から隣へ顔を逸らした。お兄ちゃんへ右手を伸ばすと私の顔を一瞥したが、止めることはしなかった。そして前を見たまま、縋るように上着の裾を握ってしまった手を、上から一度だけぎゅっと握りしめてくれた。
「起きたのか」
「うん、」
何事もなかったかのように話す声に、正直すごくほっとする。
温かいと感じていたのは、首元まで掛けられていたのだろう見慣れた男物のコートだった。恐らくいいだけ泣いて、いつの間にか眠ってしまったのを兄に車に乗せられた、といったところか。
(お子ちゃまじゃん、)
自分に少し呆れてしまう。だが少し寝たおかげでだいぶ違う。寝れば嫌なことを忘れる、都合のいいところには少し感謝した。
落ち着いてくるとだんだん睫毛が涙で少し固まっているのが気になり、お兄ちゃんの服で目をこする。メイクをしていない睫毛はすぐに解れた。
「あまり擦るなよ」
心配されるほど擦る必要はなかったのだが、微かに感じた兄の匂いがなんだか懐かしくて、顔をコートにすっぽりと埋めた。
堂上は隣で、相変わらずの妹に渋い顔をした。
「……鼻つけるなよ」
聞こえたらしい可南は笑みを消してコート越しに無言で睨み、わざとらしく鼻をすすった。
「おい、やめろ!新しいんだ!」
堂上がコートを膝の上に叩きつけるように可南の顔から離すと、可南は可笑しそうに笑う。堂上も堂上で怒ったふりをしながらも、いつも通りの呆れた妹にほっとして口元を緩めていた。
「今日は家に帰るからな」
「ぇ……?」
「まさかアパートに帰すと思ったのか?」
少し低くなった声に隣を見ると、堂上がきゅっと眉を顰めていた。何も応えられずにいると、小さく溜め息をつかれる。
「んなことさせられるわけないだろうが」
そう言って軽く睨んできた兄は、アパートに帰ると私が独りになることを言っているのだろう。
「……もう結構平気だよ」
「だとしても今日は家に帰れ。……お袋も心配してるだろ」
きっと強がりも入っていると気づかれているのだろうなと思う。ド真面目に返してくれる兄には、感謝しかない。
"お母さんが"とは言っていても、目の前のお兄ちゃんも凄く心配してくれていると、ちゃんとわかる。
心配からなのか子ども扱いなのか、過保護ぎみで時々むっとすることもあるが、今はそれが素直に有り難い。
「わかった。……お兄ちゃんも帰る?」
「すまん、今日は無理だ」
「わかった、大丈夫」
可南は窓の外に目をやった。真っ黒に見えた窓には、街灯のぼんやりとした優しい灯が流れていた。
*
「痴漢だァ?」
玄田はまるで生ゴミでも見たような声で復唱した。いつものように特殊部隊事務室にひょいとやって来た柴崎はこともなげに頷いた。
「はい、盗撮、痴漢、覗き等の猥褻行為です」
今この場にいるのは他に堂上班だ。とは言っても小牧と堂上が不在のため、実質4人だけなのだが。
「正式な依頼は追って出るでしょうが、関係者が二人もいれば、この班が出張るのはもう決定ですし」
この中で詳しい経緯を知らないのは玄田だけだ。そのため渋い顔の玄田はいまいちしっくりきていないようだった。
「図書館でその……盗撮なんちゅうハレンチな行いがあるのか」
若干の死語をスルーし、柴崎はくりんと郁を振り返った。
「結構多いよねー、本屋とかも」
「ああ、うん……」
柴崎ほどざっくばらんになれない郁は顔を赤らめて頷いた。
「あのー、高校の制服がスカートだったんですけど、本見てたら隣に立ってた男の人がいつの間にか座り込んでたり……携帯で撮られたこともあるし。鞄当たるなーと思ってたら、その……お尻さわられてたり」
かなり躊躇したが、事例として出さざるを得ない雰囲気で、郁は言いづらそうにしながらも説明した。
最低だな、と若さで吐き捨てた手塚に対して玄田は珍しく黙っている。
「まさかこんな所でって油断もあるし、利用者も本に集中してるから足元は意外と無防備なんですよね。館員や書店員にも言えますけど。あたしも何度撮られたことか」
ほら、こんな美人だから?としゃらっと言ってのける柴崎には全員苦笑したが、今それに上手く返せる者は不在だ。
「そういう時はその、相手は」
柴崎に毒気を抜かれたようで、手塚は疲れたように先を促す。
「警備員や店員さんが見つけてくれて避けさせてくれたり、相手捕まえてくれたり。でも大体あれ?って思ったらもうやり逃げだから」
隣の郁は複雑そうな若干泣きそうな顔をして黙っている。うわー素人未婚女子がやめてー!という心の叫びが聞こえてきそうだ。
「市内の書店にも回覧を出したんですが、やはり同様の被害が増えてるみたいですね。書店は警察が巡回を強化するそうですが、図書館は例によって司法不介入の原則で協力には消極的で」
「こんなときまで!?女の子に被害が出てるんだよ!?」
思わず噛みついてしまった郁をいなすように柴崎が手を振った。
「たとえ警察が協力してくれても結果は一緒よ」
巡回の強化といっても実効はほとんどなく、警察は予防処置しかできない。そのため、仕方のないことだと分かっていても、書店さんも『制服で警官が来てくれてもね』と苦笑いなのだという。
確かにこれ見よがしに警官のいるときに盗撮するバカはいない。結局できることと言えば、張り紙で女性客に注意を促し、書店員が「気をつける」レベルだ。
「何だ何だ、舞台がいつの間にか整ってんじゃねえか」
玄田が身を乗り出す。
「要するに、その手合いを萎縮させるにはでかいヤマを上げればいいこったろう。
うちなら囮も見張りも使いたい放題だ。現行犯で捕まえて警察に引き渡せば新聞沙汰になるし、これがバカどもへの一番の牽制だ。利用者の自衛も促せるしな」
「うちは服務規程違反に囮捜査の条項自体ありませんしね」
そう言いながら入ってきたのは、毬江を送り届けて戻って来た小牧だった。あまり大きな声だと廊下に聞こえますよ、と咎めることも忘れずに。
「毬江ちゃん、大丈夫でした?」
郁としては被害を受けた可南もだが、それを目の当たりにした毬江も気にかかるところだ。
「当然だけどだいぶショックみたいだったよ。一応落ち着くまで此処には来ないように言っておいたけど」
そう微笑う小牧の目は笑えておらず、静かな怒りが滲んでいる。
毬江のためだけに査問に耐えきったほど大切に思っている幼馴染が怖い思いをしたのだ。小牧が怒りを覚えないはずがない。
だが郁の頭にはもう一人の少女が浮かぶ。小牧に特別な気持ちを抱く少女に。小牧教官が怒ってるのは、毬江ちゃん関連だからなのだろうか、と。
毬江の事は口にするが、可南のことには全くと言っていいほど触れない小牧に、可南の気持ちを知る郁は、そう思わずにはいられなかった。
結局、小牧の口から可南の名前を聞かぬまま、話し合いは堂上が帰ってくるまでお開きとなってしまった。