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神に拾われる話①
2026/01/02 20:17神に拾われる話
大学の図書館は、夏休みに入った途端、まるで時間の流れを忘れたかのように静まり返っていた。
冷房の低い唸りと、遠くでページがめくられる微かな音だけが、広い空間に残されている。
民俗学研究室に所属する蓮見了は、閲覧席ではなく書架の間を彷徨っていた。論文のテーマは「近代以降に消失した山間信仰」。資料はすでに出尽くしていると思っていたが、どうしても引っかかる感覚が拭えなかった。
「……ここ、か」
彼が足を止めたのは、宗教学の中でも最も奥まった棚だった。貸出履歴の紙は白紙のまま、背表紙は埃に覆われ、他の本よりも一段低い位置に押し込められている。
指を伸ばした瞬間、なぜか一瞬だけ躊躇した。
理由は分からない。ただ、触れてはいけないものに触れる前の、言葉にできない予感。
それでも了は、本を引き抜いた。
ずしり、と予想以上の重みが掌に伝わる。
革張りの表紙はひび割れ、金の装飾はほとんど剥げ落ちていた。題名はかろうじて読める。
――『辺境村落における澱信仰集成』
聞いたことのない言葉だった。
閲覧席に戻り、慎重にページを開く。紙は茶色く変色し、ところどころ虫に食われている。だが文字は異様なほど鮮明だった。
> 山深き地に、澱(おり)の神を祀る村あり
人の世に溜まりし穢れを集め、神とする
その鎮めには、定期的な贄を要す
了の眉がわずかに動く。
民俗学の視点から見ても、あまりに体系立ちすぎている。口承の寄せ集めではなく、まるで実地報告書のようだった。
ページをめくるごとに、村の位置、儀式の日取り、贄に選ばれる条件が淡々と記されていく。
> 贄は若き男であること
村外の者が望ましい
穢れを宿す器として、神に近づけやすい
背筋に、冷たいものが走った。
「……冗談、だろ」
そう呟きながらも、了は読むのをやめられなかった。
地図のページには、現在の行政区分では存在しない村名が記されている。だが、山の稜線や川の形は、現代の地図と一致していた。
――行ける。
そう気づいた瞬間、心臓が早鐘を打った。
学術的好奇心。それだけでなく、説明のつかない引力のようなものが、了をその村へと引き寄せていた。
---
夏休み初日。
リュック一つを背負い、了は山間部へ向かった。電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、最後は徒歩で山道を進む。
携帯の電波は途中で途切れ、周囲には濃い緑と蝉の声しかない。
「……本当に、人が住んでるのか?」
不安が芽生え始めたころ、視界が開けた。
古い木造家屋が点在し、中央には小さな広場。その奥に、苔むした社が見える。
村だった。
了が足を踏み入れた瞬間、数人の村人が一斉にこちらを見た。
その視線は鋭い――が、次の瞬間、柔らかな笑みに変わる。
「おや、旅の方かい?」
「珍しいねえ、こんなところに」
囲まれるように声を掛けられ、了は戸惑いながらも事情を説明した。民俗学の研究で、古い信仰を調べている、と。
村人たちは顔を見合わせ、そして深く頷いた。
「それはそれは」
「今日はちょうど、いい日だ」
その言葉の意味を、了は理解できなかった。
夜、宴が開かれた。
山菜、川魚、見たことのない肉料理。酒は濁り、甘ったるい匂いがした。
「遠慮せんで、食べなさい」
すすめられるまま口に運び、盃を重ねる。
次第に、頭がぼんやりしてきた。
「……あれ……?」
箸を落とし、立ち上がろうとして膝が崩れる。
村人たちの顔が、歪んで見えた。
「効いてきたな」
誰かが、そう言った。
床に倒れ伏す了を、何人もの手が押さえつける。抵抗しようとするが、身体が言うことをきかない。
視界の端で、社の戸が静かに開かれるのが見えた。
「澱神さまへ、贄を」
意識が闇に沈む直前、了は悟った。
――あの本は、警告ではなかった。
――案内だったのだ。
そして彼は、二度と“客人”として目覚めることはなかった。
冷房の低い唸りと、遠くでページがめくられる微かな音だけが、広い空間に残されている。
民俗学研究室に所属する蓮見了は、閲覧席ではなく書架の間を彷徨っていた。論文のテーマは「近代以降に消失した山間信仰」。資料はすでに出尽くしていると思っていたが、どうしても引っかかる感覚が拭えなかった。
「……ここ、か」
彼が足を止めたのは、宗教学の中でも最も奥まった棚だった。貸出履歴の紙は白紙のまま、背表紙は埃に覆われ、他の本よりも一段低い位置に押し込められている。
指を伸ばした瞬間、なぜか一瞬だけ躊躇した。
理由は分からない。ただ、触れてはいけないものに触れる前の、言葉にできない予感。
それでも了は、本を引き抜いた。
ずしり、と予想以上の重みが掌に伝わる。
革張りの表紙はひび割れ、金の装飾はほとんど剥げ落ちていた。題名はかろうじて読める。
――『辺境村落における澱信仰集成』
聞いたことのない言葉だった。
閲覧席に戻り、慎重にページを開く。紙は茶色く変色し、ところどころ虫に食われている。だが文字は異様なほど鮮明だった。
> 山深き地に、澱(おり)の神を祀る村あり
人の世に溜まりし穢れを集め、神とする
その鎮めには、定期的な贄を要す
了の眉がわずかに動く。
民俗学の視点から見ても、あまりに体系立ちすぎている。口承の寄せ集めではなく、まるで実地報告書のようだった。
ページをめくるごとに、村の位置、儀式の日取り、贄に選ばれる条件が淡々と記されていく。
> 贄は若き男であること
村外の者が望ましい
穢れを宿す器として、神に近づけやすい
背筋に、冷たいものが走った。
「……冗談、だろ」
そう呟きながらも、了は読むのをやめられなかった。
地図のページには、現在の行政区分では存在しない村名が記されている。だが、山の稜線や川の形は、現代の地図と一致していた。
――行ける。
そう気づいた瞬間、心臓が早鐘を打った。
学術的好奇心。それだけでなく、説明のつかない引力のようなものが、了をその村へと引き寄せていた。
---
夏休み初日。
リュック一つを背負い、了は山間部へ向かった。電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、最後は徒歩で山道を進む。
携帯の電波は途中で途切れ、周囲には濃い緑と蝉の声しかない。
「……本当に、人が住んでるのか?」
不安が芽生え始めたころ、視界が開けた。
古い木造家屋が点在し、中央には小さな広場。その奥に、苔むした社が見える。
村だった。
了が足を踏み入れた瞬間、数人の村人が一斉にこちらを見た。
その視線は鋭い――が、次の瞬間、柔らかな笑みに変わる。
「おや、旅の方かい?」
「珍しいねえ、こんなところに」
囲まれるように声を掛けられ、了は戸惑いながらも事情を説明した。民俗学の研究で、古い信仰を調べている、と。
村人たちは顔を見合わせ、そして深く頷いた。
「それはそれは」
「今日はちょうど、いい日だ」
その言葉の意味を、了は理解できなかった。
夜、宴が開かれた。
山菜、川魚、見たことのない肉料理。酒は濁り、甘ったるい匂いがした。
「遠慮せんで、食べなさい」
すすめられるまま口に運び、盃を重ねる。
次第に、頭がぼんやりしてきた。
「……あれ……?」
箸を落とし、立ち上がろうとして膝が崩れる。
村人たちの顔が、歪んで見えた。
「効いてきたな」
誰かが、そう言った。
床に倒れ伏す了を、何人もの手が押さえつける。抵抗しようとするが、身体が言うことをきかない。
視界の端で、社の戸が静かに開かれるのが見えた。
「澱神さまへ、贄を」
意識が闇に沈む直前、了は悟った。
――あの本は、警告ではなかった。
――案内だったのだ。
そして彼は、二度と“客人”として目覚めることはなかった。