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神に拾われる話⑨

2026/01/02 20:25
神に拾われる話
光の糸を掴んだまま、どれほど引き上げられたのかは分からない。
ただ、最後に身体が闇を抜けた瞬間、視界が一気に白く弾けた。

――眩しい。

思わず目を閉じ、次の瞬間、了は柔らかな地面に身体を投げ出していた。
湿り気を含んだ土の匂い。草が風に擦れる音。遠くで水のせせらぎが聞こえる。

生きている世界だった。

胸いっぱいに息を吸い込むと、腐臭ではない、清涼な空気が肺を満たした。
それだけで、喉の奥がひくりと震え、了は思わず嗚咽を漏らした。

「……ひどい穢れだ……」

静かな声が、すぐ近くで響いた。

顔を上げると、そこに銀色の人が立っていた。
長身で、性別を断じがたい中性的な姿。白銀の髪が木漏れ日の中で淡く輝き、着物のような衣は光を含んで揺れている。

人でありながら、人ではない。
そう直感的に理解できる存在だった。

だが、その眼差しには、嫌悪も軽蔑もなかった。
そこにあったのは、労りだった。

「怖い思いをしたね。……もう大丈夫だ」

その一言で、張り詰めていたものが、音を立てて崩れ落ちた。

「……っ……」

了は声を上げて泣いた。
涙が止まらない。安堵と疲労が一気に押し寄せ、身体が小刻みに震える。

助かった。
生きている。
誰かが、見つけてくれた。

「……あ、あの……」

名を名乗ろうとして、言葉が止まった。

――名前。

自分の名前が、出てこない。

胸の奥を探る。だが、そこには靄しかなかった。
先ほどまで必死に呼んでいたはずの父と母の顔も、声も、今は掴めない。

「……あ……れ……?」

了は、自分の手を見つめた。
黒く染まった、穢れに覆われた手。

「……分からない……」

震える声で、そう零す。

銀色の人は、少しだけ眉を下げた。

「穢れのせいだね。自分の正体を失ったものは、操りやすいから」

責めるでも、嘆くでもない、淡々とした言葉だった。

今、了の頭に残っているのは、ただ一つ。
あの腐敗した神域。
肉塊の化け物。
澱神。

――それだけが、はっきりしている。

「……」

人間だった頃の自分を、思い出せない。
何をして生きてきたのか。誰を大切にしていたのか。

それが分からないことが、怖かった。

「さあ」

銀色の人は、柔らかく声をかけた。

「おいで。その穢れを、清めよう」

そう言って、了に向かって手を差し伸べる。

――だめだ。

了の中で、強い拒否感が湧いた。

今の自分の感覚が、はっきりと告げている。
この人は、触れていい存在ではない。

あまりにも神聖で、清らかで、尊い。
澱神の眷属として作り変えられたこの身で、触れれば穢してしまう。

「……っ」

差し出された手を前に、了は身をすくめた。

だが、その葛藤を見透かしたように、銀色の人は一歩近づき、躊躇なく了の手を取った。

温かかった。
驚くほど、確かな温もりだった。

「この程度の穢れなど、私には何の影響もない」

静かで、揺るぎのない声。

「さあ、おいで」

抗う間もなく、了の身体は引き起こされる。
その手は強引ではなく、だが決して離さないと告げているようだった。

銀色の人に導かれ、了は木々の合間を進んでいく。
光が葉の隙間から差し込み、風が枝を揺らす。

一歩、また一歩と進むたび、
腐敗と闇の感触が、少しずつ遠ざかっていく。

まだ、何も思い出せない。
自分が誰だったのかも分からない。

それでも――

この手に引かれている限り、
ここにいていいのだと、了は初めて思えた。

銀色の神域の奥へと、
二人の影は、静かに溶け込んでいった。

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