少女と黒騎士の亡霊
ノクスは今なお血が噴き出す足を引き摺りながら、剣を構えた。何度、崩れ落ちそうになっても魔女の呪縛の力で何度も立ち上がり、騎士たちと剣を交える。
しかし、手負いであり、更にノクス自身も呪縛に抗っている今の状態では、かつて仲間を惨殺したあの頃と同じ力を発揮することなど不可能だった。
騎士たちの剣を防ぐだけでも、体に負荷がかかる。
夜の森に、金属の打ち合う音が響き渡る。だが、遂に弾き損ねた一撃が脇腹をとらえてしまった。
「がッ……!!」
朽ちかけの鎧は容易く砕かれ、血飛沫が舞った。
騎士たちは手を止めることなく、畳み掛けるように剣を振り下ろした。なんとか防ごうと剣を構えるノクスであったが、もはやなすすべもなく一撃、また一撃と剣戟を浴びていく。
腕も、肩も、胸も切り裂かれ、貫かれ、鮮血が迸る。ノクスは遂に、自らの作った血溜まりの上に崩れ落ちた。もはや立ち上がることなど、不可能だ。それは誰の目にも明らかだった。
「ふっ、思ったより壊れるのが早かったわね。まあいいわ、最初からあまり期待してなかったもの」
モルウィナは自身の命令によって傷つき倒れた騎士を鼻で笑った。その傍ら、魔女の手で自由を奪われているティナは呆然と眼前の光景を見つめていた。糸の切れた人形のように、血溜まりに横たわる痛々しいノクスの姿に、ティナは更に涙を溢れさせる。
「亡霊さん……」
しかし、そんな現状でも騎士達は即座に次の標的を魔女モルウィナへと定めた。
「魔女め、幼い子供を拐かすとは……!」
威勢よく魔女を威嚇するが、魔女の手にティナが捕らえられているせいで攻め込むこともできない。緊張に満ちた空気がその場を支配した。
しかし、モルウィナは不敵な笑みを浮かべたまま動じることはなかった。その手はまるで盾にでもするように、ティナを捕らえたままだ。
「愚かね。私をモルウィナと知って、それでも挑んでくるなんて」
嘲るようにモルウィナは指先を一つ弾いた。
その瞬間、まるで雷撃のように眩い光と共に魔力が大気を裂いた。黒い稲妻のような凝縮された魔力が弾け、轟音と共に騎士たちを薙ぎ払う。
重装の鎧を容易く砕き、大地を抉り、騎士たちの悲鳴が轟いた。
魔術に精通した騎士たちは光の結界を展開し、魔女の力に抗ってみせるが、外道に堕ち、禁忌に手を染め続けた邪悪な力を止めるには力不足であった。結界はたちまち砕かれ、魔女の放つ雷撃に撃ち抜かれて骨まで焼き尽くされていく。
「この程度なの?まるで紙細工のようね。あっけないこと」
なおも魔女は自身の力を見せつけるかのように魔術を放ち、一人、また一人と抗う間もなく討ち倒されていく。
その凄惨な光景を、まるで遠い世界のことのように、ノクスは見つめていた。
視界は霞み、耳に届く音すらも遠い。蹂躙されている騎士たちを、ティナを、救いたいのに、指一本動かすこともままならず、ただ見ていることしかできずにいた。
ーーここで、終わるのか……
ただ一人の少女すら守ることもできず、魔女に弄ばれ続けた無念を抱え、ノクスは重い瞼を閉じようとしていた。
その時だった。掠れた視界に、誰かの足が歩み入ってきた。
その人物はノクスの前で立ち止まり、力強い声で呼びかけてきた。
「立て」
聞き覚えのあるその声に、胸がざわついた。
なんとか視線を上げると、そこには、あの日自らの手で死に追いやってしまった親友の姿があった。栗色の髪に、黄金色の瞳。白銀の鎧を隙なく着込んだ、あの日のままの姿だった。
「立て。ここでくたばるなんて、許さないぞ」
親友は微笑んでいた。まるでノクスであれば、まだ立ち上がれると信じているかのように。
「お前には、まだやるべき事があるはずだ」
差し伸べられる手。数十年ぶりの再会に、ノクスの目は見開かれた。
指一本、動かすこともままならなかった彼の身体は、まるで導かれるかのようにその手を取っていた。
「さあ。行こう、"シリル"」
ーーシリル。永い間失われていた本当の名前。その名で呼びかけられた途端に、ノクスーー否、シリルの心は霧が晴れたように、本来の自分を取り戻した。
胸に刻まれた呪いの刻印は音もなく霧散し、深くえぐられたはずの傷も何事もなかったかのように痛みが消えた。
親友の手を握り返すと不思議なことに、あれほど重かった身体が動き出し、シリルは静かに立ち上がった。
もはや魔女の前に立つ騎士は一人として残ってはいなかった。魔術によって抉られ、黒煙が立ち上る大地には騎士達の無残な骸が散らばり、血溜まりができあがっている。
「ふふ、邪魔者はいなくなった。これで心置きなく始められる」
魔女モルウィナはそう言うと、捕らえていたティナへと向き直った。
まだ幼い子供でしかないティナはもはや抵抗する事すら恐ろしく、ただ震えることしかできない。
「……あ、ぁ……」
「怖がらなくても大丈夫よ。痛いのなんて、あっという間なんだから」
優しげに微笑み、まるで母親のように慈愛に満ちた手つきで頭を撫でながら囁いた。しかし、紡がれた言葉はどこまでも冷酷で残忍だ。
自身の爪を鋭利な刃のように長く伸ばし、その切っ先をティナの喉元へのあてがう。
「た、たす……けて……亡霊、さん……ッ」
「呼んでも来ないわよ。もう死んでるもの。でも大丈夫。すぐに会わせてあげるから」
モルウィナの爪の先がティナの喉へと食い込む。ティナは遂に耐えきれず、意識が途絶え、ガクリとその場に崩れ落ちてしまった。
彼女が最後に見た光景はーー
ーー胸元から剣の刃が突き出し、驚愕に目を見開く魔女の姿だった。
衝撃。背後から自身を貫いた刃に、魔女モルウィナは信じられないものを見るように目を見開いた。
その刃は見事に魔女の心臓を刺し貫いていた。
既に討伐隊の騎士達は骸と化し、もはや剣を持てる者などいないはずだった。
「……ありえ……ない……ッ」
魔女は驚愕に顔を歪め、ゆっくりと振り返った。
そこには血に濡れ、深い傷を負いながらも立ち上がり、剣を突き立てた男の姿があった。くすんだ金の髪に蒼穹の瞳は、かつて闇に濁ったそれではない。本来の自分を取り戻した、力強い眼光で魔女を射抜いている。
モルウィナの目には、それは本当に「騎士の亡霊」に見えたことだろう。死によってしか解けるはずのない縛りを破った彼がこうして立ち上がり、魔女に一矢報いているのだから。
「死に、損ない……ッ!! どうして、お前が……ッ!!」
モルウィナは身を捩って手の中に魔力を集中させる。しかし、それを彼ーーシリルは許さなかった。
「終わりだ……!」
剣を引き抜き、素早く翻す。
傷ついた体とは思えないほど軽やかに、美しい一閃。
反撃に出ようとした魔女だったが、核である心臓を潰されたことで魔力を手繰ることができず一歩遅れた。
刃の閃きは魔女の首を捉え、音もなく切り離されたそれは高々と宙を舞った。地に落ちるよりも先に、ボロボロと崩れ散っていく。
残った肉体も、まるで停滞していた時が一度に進んだように朽ちていき、やがて土塊のように崩れていった。
多くの人々に恐れられた魔女の終幕は呆気ないものとなった。
非道の限りを尽くした魔女は、己の力を過信した末に、ただ一人の人間の手によって討ち滅ぼされた。それも、魔女がその手で弄び、尊厳を奪い続けてきた孤独な騎士の手で。
魔女を打ち倒したシリルは崩れ落ちそうな足を踏み締め、剣を置き、倒れているティナの元へと歩み寄った。
膝をつき、抱き起こすと、静かな寝息が聞こえてくる。首には魔女の爪が食い込んでできた小さな傷があったが、その他に怪我はないようだった。
「ティナ……怖かっただろう……もう、大丈夫だ……」
まだ幼い身で、何人もの人間が殺される場面を見せられのだ。体の傷が浅くても、心の傷は計り知れない。シリルは魔女の支配に抗いきれず、彼女を巻き込んだことを深く悔いた。
シリルは右手に握りしめていた拳を開いた。そこにはティナが見つけ出したロケットペンダントが握られていた。
オルテの幻影の手を取ったとき、立ち上がるとオルテの姿は消えてしまっていた。しかし、オルテの手を握った右手には、代わりにこのロケットペンダントが残されていた。
ーーきっと、彼の魂はずっとここにいたのだろう。
「ティナ……君が、見つけれくれたおかげだ……君のおかげで、私は大切なものを取り戻して、逝くことができる……」
静けさを取り戻していた森の中に、再び喧騒が響き始めた。魔女による魔術は大地を抉り、閃光を上げていた。そのときの轟音によってティナの住む村の者達が騒ぎに気がついたのだろう。ティナが寝室から姿を消したことにも気づいたはずだ。
叫び声と足音が遠くから聞こえ、松明を手に森の中を進んでいる人影が幾つも伺えた。その手には以前のように鍬や鎌など、武器になるものが握られている。
シリルはその場を動かなかった。ただティナに最期の別れをするように、小さく語りかけた。
「……ありがとう、ティナ……さようなら」
シリルは眠っているティナにそう囁くと、彼女を地面に横たえ、その手にペンダントを握らせた。
間もなくこの凄惨な現場に、村の者達がたどり着くだろう。そうなればどうなるか、想像に難しくはない。
もう、あの時のように抵抗する必要はない。立つ余力すら残ってはいなかった。
魔女は討ち倒した。あとは亡霊だけだ。
魔女に操られていたとはいえ、自分のこの手は多くの仲間や親友の血で汚れている。
シリルは最期の償いの覚悟を決めていた。
だが、その壮絶な覚悟に反して心はひどく穏やかだった。
夜の心地よい風に吹かれながら、彼はその時が来るのを静かに待った。
◆
それから数ヶ月の時が経った。
ティナは村人達に救い出され、手厚く保護された。目が覚めたばかりの頃はひどく錯乱していたが、王国の魔法医師による魔術を用いた精神治療によって心の傷は順調に回復していった。
気を失った後、あの森で何があったのか、ティナは詳しくはわからない。大人達からは、もう安心していい、とだけ聞かされた。
大人達は、騎士の亡霊を庇う発言をしていたティナに、あの夜の結末を語ることを憚った。しかし大人達の会話を聞いていれば、幼いティナでも自ずと理解した。
あの夜、恐れられた魔女と黒騎士の亡霊は消滅した。あの場には凄惨な戦いの末に倒れた何人もの騎士達の遺体、そして討ち取られたと思われる魔女の残骸が残っていた。
生き残っていた騎士の亡霊を討ち取ったのはティナの父親だったらしい。
後の調査によって、魔女は討伐部隊との死闘の末に討ち取られたと結論づけられた。
それからは、長きにわたり多くの人々を脅かしてきた邪悪な魔女を、命を賭して討ち取った騎士達は多くの人々から賞賛された。感謝し、死を悼み、彼らの魂を慰める歌が歌われ、誰もがその功績を称えた。
しかし、ティナは気づいていた。魔女に迫られ、殺されようとしていたあの時、魔女の胸を貫いていた剣の主が誰なのか。眠っている間に、手に握らされていたペンダントがそれを確信させてくれる。
あれから森へは行っていない。もう、そこに会いたい人はいないのだから。
手の中には、あの時のペンダントが握りしめられている。そこに込められていた写真はティナの曽祖父と曽祖母のものだった。
父からは、曽祖父も魔女と戦い、戦死した事実を知らされた。それは魔女から友を救うための戦いだったという。
その友の名は、伝えられていない。
もしかしたら、とティナは答えの出ることのない考えを巡らせ、そしてやめた。真実を語れる者は、もうどこにもいないのだ。
手の中のペンダントを握りしめる。そうすると、彼の手のぬくもりを思い出せる気がした。
「ありがとう……優しい、亡霊さん……さようなら」
今はただ、小さく、消え入りそうな声で感謝と、そして別れの言葉を紡いだ。
あの夜、遂に彼に掛けられなかったこの言葉を。
きっと、彼の魂に届いていると信じて。
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