少女と黒騎士の亡霊
びくりと、肩が震え、胸に刻まれた呪印が疼いた。
それは、主の帰還を報せるものだった。
「どうして……今に、なって……ッ」
恐怖と怒り、憎しみ。これまで蓋をされてきた感情が吹き荒れそうだった。
気配はあっという間に近づき、やがて、塔の出入り口が静かに開き、石でできた階段を登る足音が響いた。
「……あら、まだ生きていたのね」
夜闇に包まれた古塔の中、現れた魔女モルウィナはこの塔を出ていったそのときと変わらぬ姿で現れた。
部屋に入るなり、隅で半身を起こし、未だ涙の跡が残る顔をあげ、恐怖と憎悪で震えているノクスをまるで虫けらでも見るかのように一瞥して嘲笑する。
「も、モルウィナ……様……っ」
今にもその喉笛を掻き切ってやりたい衝動に駆られているのに、身体はそれに反して魔女に頭を下げてしまう。未だにその身体を縛る呪いは根深く、魔女への服従を強いていた。
「ふふ、あなた、なんて言ったかしら? 名前。もう忘れてしまったわ」
馬鹿にしたように魔女は言った。
彼の本来の名前を剥奪してまで植え付けたそれすらも、今や魔女にとってはどうでもいいものと化していた。その事実に、ノクスは悔しさに歯噛みした。
モルウィナが指を弾くと、長い時間放置され、荒れ果てた部屋はたちまち整い、倒れていた燭台は立ち上がり蝋燭に火が灯った。
「ああ、そう。ノクスとつけてあげたのよね。ちょうどいいわ、手駒が欲しかったの」
燭台の火に照らされた魔女の顔は恐ろしく美しい微笑みを浮かべていた。漆黒のドレスの裾を引き、ノクスの元へ歩み寄った彼女は、ノクスの顎を掴んで顔を上げさせた。
「その前に。あなた、ずいぶんと楽しそうに暮らしていたのね」
「……な、何を、言って……」
「とぼけないで。あたしには、視えるのよ」
モルウィナは塔の周辺の記憶を幻視して、ここしばらくのノクスの動向を確認したのだ。
そう、ティナと共に過ごしたあの穏やかな日々を。
「あたしはここを守るように命じたはずなのに」
「こっ、この塔には、一歩も、入れてはおりません……ッ!貴女の命に、従って……!」
「では、新たに命じるわ。あのお嬢さんをここに連れてきて、あの三つ編みの可愛らしい無垢な子を」
冷酷に、残忍に、魔女は命じた。
その言葉に、ノクスは震えながら反論した。
「ば、罰なら、私が全て受けます……! どうか、どうかお許しください、その命令だけは……! どうか……!」
その時、ノクスに刻まれた呪縛の刻印が光をおび、ノクスの体を引き裂くような苦痛を与え始める。
「がッ、ああぁぁッ!!!」
床をのたうつノクスの姿を、モルウィナは嘲笑しながら観察した。
「あなたはあたしのお人形、あたしの言うことを聞いていればいいのよ。さあ、お行きなさい、今すぐに」
苦痛でノクスの心はねじ伏せられ、呪縛の刻印の導くままに、彼は魔女へと首を垂れた。
「………ッ、仰せの、ままに……」
伏せられた顔から、枯れたかと思われた涙が再び溢れ出し石床を濡らした。
意思に反して、魔女の命令を遂行する為にフラフラとした足取りでノクスは夜の闇の中、ティナの住む村へと向かうのだった。
◆
誰もが寝静まる夜、月が高く昇り星々が煌めく夜空をティナは部屋の窓から見上げていた。
眠れなかった。彼の、ノクスの最後に見た哀しげな横顔が忘れられなかった。
今頃、亡霊さんはどうしているんだろう……
ティナは一人、悶々と悩んでいた。
両親からは厳しく叱られ、昼間のうちは毎日家庭教師をつけられ自由に遊び回る時間を制限されてしまった。
もう、亡霊さんとは会えないのだろうか……彼は優しくて、寂しそうだった。一人であの塔に住んで、誰かの言いつけをずっと守っているようだった。
自分のことも、何もかも忘れているのに。家族や友達もなく、一人ぼっちで。
彼の心が安らげる日は来るのだろうか、それはいつ訪れるのだろう。
来る日も来る日もそんなことばかりを心配しているから、家庭教師からは上の空だと叱られたばかりだ。
優しい人が、悲しい思いをするのはイヤだ。ただそれだけだ。
今夜もなかなか寝付けず、ぼんやりと美しい夜空を見上げて物思いに耽る。
「ティナ……」
ああ、どうやらあまり眠れていないせいか、幻聴まで聞こえてきた。
いや、幻聴ではない。確かに聞こえた。彼の呼ぶ声が。
「ぼ、亡霊さん……!?」
窓から身を乗り出して見渡すと、ノクスが村の中の、ティナの住む屋敷の元までやってきていた。驚いたティナは、寝巻きのまま、誰にも気づかれないよう、カーテンを使って窓から外へと脱出していた。
そこには黒騎士の亡霊と恐れられた彼が佇んでいる。これまで頑なに森から出なかった彼が、ティナの住む屋敷の敷地までやってくるなんて。
「こんばんは、亡霊さん……あの、あの時のこと……」
なんと声をかけたものかと、ティナは逡巡した。しかし、ノクスはただ手を差し伸べた。
見上げると、ノクスは会ったばかりの頃のような、空虚な表情を貼り付けていた。ただ、その目の下には月光の下でもわかるほど、涙の伝った跡がくっきりと残っている。
「亡霊さん……泣いていたの?」
差し伸べられた手を取ると、彼はその手を引いて黙って歩き出した。
「ど、どこにいくの?」
ティナは一瞬躊躇った。しかし、この手を振り払ったら、彼は本当に消えてしまいそうに思えた。一瞬の迷いの後、ティナは恐る恐るノクスと手を繋いで森の中へと導かれた。
初めて出会ったあの日とは反対に。