少女と黒騎士の亡霊


 ある日、ノクスは人の気配を感じ取り、動き出した。その姿はまさに亡霊だった。何年もの年月を生き続けた彼は、美しかった顔立ちがもはや別人のように青白く、目は窪み、髪も髭も伸び続け、変貌を遂げていた。

 誰もが恐ろしく、不気味に思うその姿で、彼は塔に近づく気配の主と対峙した。



「お父さぁぁ〜ん、お母さぁぁ〜〜ん!!!」



 それは泣きじゃくる小さな少女だった。栗毛色の髪を三つ編みにした少女は、見たところ、年の頃はまだ六つか七つ程度のようだ。涙で濡れた頬を手で拭いながら必死に親を呼び続けている。

 どうやら遊び半分で入り込んだ森から出られなくなったらしい。



 ノクスはその姿を見やり、剣の柄に手を伸ばした。



 少女もまた、ノクスの浮浪者のような恐ろしい出で立ちに驚き思わず尻もちをついてしまう。震える少女に歩み寄りノクスはその姿を見下ろした。



 そのとき、彼は剣の柄にかけていた手をそっと離し、少女に手を差し伸べた。



 ノクスにかけられた呪縛は長い年月によって綻びが生じていた。それによって、彼は僅かな思考と行動の自由を得ていた。彼の本来持つ優しさが、呪縛から微かに解放された瞬間だった。



「…………」



 無言で差し伸べられた手を、少女は思わず取った。涙で潤んだ琥珀色の瞳がノクスを見上げた。



 恐ろしい見た目をしていても、彼の纏う雰囲気に優しさを感じ取ったようだ。



「お、おじいさん、だあれ……?」

「…………私の、名は…………」



 ひどくしわがれたひどい声だった。何年もの間、誰とも口を利かず、孤独にただ生きていたのだから無理もない。少女に老人と思われても仕方がないだろう。

 名を名乗ろうとして、ノクスは言葉を詰まらせた。



 呪縛に綻びが生じたとはいえそれは僅かなものだった。

 『ノクス』とは、本来の自身の名ではない、そのことは理解できていたが、彼は魔女からの拷問により、本来の名を完全に忘れてしまっていた。



 忌まわしい魔女から与えられた名を名乗ることを躊躇していると、少女は心配そうにノクスの顔を覗き込む。



「おじいさん……お名前、忘れちゃったの?」

「…………」



 ノクスは無言で頷いた。まるで、彼のほうが迷い子のように。



「わたしはね、ティナっていうの。あのね……わたし、村に帰る道がわからなくて、おじいさん、わかる?」



 ノクスは無言で頷くと、ティナの手を取り、彼女を森の出口へと案内した。

 すっかり泣き止んだ少女、ティナは森の出口にたどり着くとやっと安心して顔を綻ばせた。



「ここから先は、私は行けない……」

「……どうして?」

「行けない……そういう、命令なんだ……」



 彼を縛る呪いによって、森から出ることは叶わなかった。ティナを森の出口へ案内し終えると、すぐに塔へと戻るため踵を返す。



「おじいさん、森に出るっていう騎士の亡霊さんなの?」

「…………」



 返事はしなかった。いや、できなかった。

 森から出られない彼には、森の外で人々が交わす噂など知る由もないのだから。



「ありがとう、亡霊さん! またね!」



 無邪気に手を振る少女を振り返ることもなく、ノクスは一人森の中へと帰っていった。

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