少女が魔女に至るまで

 気がつくと、そこは朽ちた聖堂だった。



 壁は崩れ、隙間から植物の蔦が這い、苔が広がっている。

 久しく感じていなかった体の重み、そして拷問の時のままの傷と縛られた体の痛みが駆け抜ける。



 封印の儀式が行われたその場所で、イリスは一人静かに目覚めた。



 もうリュシアンはいない。



 イリスを包み込むあの温もりは永遠に失われた。





 彼女の封印を解いたのは、「再誕派」を名乗る思想集団だった。

 腐敗した世を滅ぼし、新たな秩序を打ち立てることを目的に掲げている。



 彼らは、イリスを「災厄の魔女」と信じ、世界を業火で焼き尽くすよう願うつもりでいたらしい。





 しかし、イリスは魔女ではなかった。長い時間と労力をかけて封印を解いたにも関わらず、現れたのはただの田舎娘だったのだ。





 その事実に、イリスもまた、そんなことならばリュシアンと共に眠りにつかせて欲しかったと悲しみにくれた。



 勝手な思想のために、あの幸福の時間とリュシアンを永遠に葬っておきながら、彼らはイリスが魔女ではなかったことに怒りと落胆を示した。



 だが、イリスの秘めた魔力が強大であることは事実であった。その力を利用するため、イリスは解放されることなく彼らに囚われた。

 リュシアンを失ったイリスはもはや何の希望もなく、ただ彼らの言いなりだった。イリスが魔力を用いて逃亡することを防ぐために、魔力を封じるチョーカーの装着を強制し、彼らが組織の拠点とする塔の一室に監禁された。



 封印から解放された直後に纏っていたボロ布のような服のまま、狭い部屋へと閉じ込められたイリスは、ただ抜け殻のように項垂れていた。



 身体中に刻まれたままの拷問の傷の痛みすら遠く感じる。どれだけ傷ついていたとしても、リュシアンを失った痛みと比べれば些細なものだった。まるで心の一部が欠けて失われたように、イリスの胸の内は空虚であった。





 そこへ、彼女の世話と監視の役として一人の男が通された。その姿を見て、イリスは目を疑った。





 そこに立っている男はリュシアンに瓜二つだったのだ。





 「……っ……リュシ、アン……?」



 驚いたイリスは思わず彼の名を口にした。



 リュシアンと同じ風貌、だがその髪と瞳の色だけは全く違う。



 まるで月の輝きのような銀の髪に、蒼玉のような澄んだ青い瞳のリュシアンとは違い、黒いローブに身を包んだその男は、闇のように黒い髪に、柘榴石のように深い紅色の瞳をしていた。



それでも、その相貌はリュシアンとあまりに酷似していた。



「イリス……!」



 男は微笑みながらイリスの元に歩み寄る。

 リュシアンの魂は封印と共に消滅したはずだ。だというのに、今目の前にいる彼は一体何なのか?イリスにはわからない奇跡によって、リュシアンが蘇り、イリスを助けに来てくれたのだろうか?



「リュシアン……なの……? そんなはず……」

「ああ、俺だよイリス。怖い思いをしたな。もう大丈夫だ」



 しかし、イリスは言葉に表せない違和感を覚えた。髪や瞳の色は違えど、よく似た相貌、そして何より彼自身がリュシアンであることを肯定している。



 それでも、イリスの中で、何かが違うと囁いた。



「あなた……本当に、リュシアンなの……?」



 歩み寄る男から離れるように、イリスは後ずさる。

 その仕草に、男はふっと鼻で笑った。



「……何だよ、せっかくお前の大好きな騎士様のふりをしてやったのに」



 リュシアンと瓜二つなその顔で、男は冷たい笑みを浮かべた。まるで虫ケラでも見るような視線をイリスに向け、口元を歪ませている。



「あなた、一体何なの……!? どうして、リュシアンと……」

「似てるのかって? そりゃ当然だろ」



 強引にイリスの腕を掴み、傷ついている彼女の体を壁に押し付ける。



 背中を強く打ち、咳き込むイリスはその時見えてしまった。イリスの腕を掴む男の手首に、小さなホクロがあった。リュシアンがイリスの頬を撫でる時、いつも見えていたそれ。何故、男の手首にも同じものがあるのか。



 男はそっとイリスの耳元で囁いた。



「この体はくたばった騎士様のものだからだよ」



 一瞬、言葉の意味がわからなかった。追い打ちをかけるように目の前の男は下卑た笑みを浮かべて言葉を続ける。



「魔女を飼い慣らすために、再誕派の連中が用意した器だ。俺はその空っぽの器に入れられた悪魔さ」



 信じられなかった。信じたくなかった。リュシアンの魂は消され、残った肉体すらこんな形で利用されていたのだ。



 イリスには魔術の知識もなければ、黒魔術や悪魔召喚というものの存在も知らない。この男の言葉が真実かどうかを知る術などなかったが、今まさにリュシアンの肉体を操って邪悪な言動をするその男は、イリスにとってまさに悪魔そのものだった。



 まるでリュシアンの尊厳すら凌辱するように、ゼノと名乗ったその悪魔は、イリスに対し残酷な仕打ちを続けた。

 イリスの世話役を命じられているゼノは、イリスの纏うボロ布のような衣服を強引に剥ぎ取り、風呂に入れてやると言って浴室へと引きずっていった。



 肌を露わにした姿のまま乱雑に浴槽へ沈められ、手荒く髪や背を擦られた。



 拷問の跡が未だ生々しく残る体を手酷く扱われ、泣いてやめてと懇願するイリスに向けて、ゼノは愉快そうに嗤うばかりだ。



 「騎士様とは、もっといいことしてたんだろ?」



 耳にしたくもない言葉を囁かれ、イリスは必死に首を振った。



 リュシアンは決してイリスに深く触れることはなかった。逃亡中の生活の中で、イリスの頬や髪を愛おしそうに優しく撫でたり、包み込むように抱きしめるだけだった。

 封印されてからの精神世界でも、彼は口付けすらせず、イリスを気遣っていた。



 そんな優しい彼との思い出を踏み躙るように、ゼノはイリスを追い詰めていく。







 以降、ゼノは暇があればリュシアンの体と、イリスの世話役という立場を使ってイリスを傷つけ続けた。



 食事を無理やり口に押し込み、耐えきれず戻したものもまた口に詰め込んだ。

 傷だらけの体を強引に掴み、悲鳴を上げれば怒鳴り、抵抗すれば髪を掴んで引き倒す。

 洗い場では素肌に無遠慮に触れ、冷水に何度も沈めた。



 彼はイリスの泣き叫ぶ姿に愉悦していた。



 ゼノは再誕派の幹部たちに喚び出された本物の悪魔だ。



 再誕派の者達は汚い手を使い、リュシアンの亡骸を手中に収め、来たる魔女復活の時のために、その肉体を腐敗から守るため、そして悪魔という至高の使い魔を捧げ物とするため、ゼノをリュシアンの肉体へ憑依させた。



 悪魔が人間界で振るう力は、契約した人間の力に左右される。



 リュシアンの肉体に封じられた悪魔ゼノは、災厄の魔女と呼ばれる凶悪な魔女の使い魔として契約を取り交わすはずだったが、結局イリスは魔力が豊富と言っても、その力を使いこなせないただの小娘だ。

 このまま彼女と契約を交わせば、強大な力が手に入ったとしても、ゼノが暴れることを主であるイリスが拒めば意味がない。



 結果再誕派の幹部たちは計画を練り直し、ゼノの処遇についても保留とした。



 噂通りの災厄の魔女と契約を果たせれば凶悪な力が手に入り、欲望のままに人間を嬲ることができたはずだったのだ。





 これは予定が狂った事に対する憂さ晴らしだ。





 再誕派の者たちはゼノのその行為を咎めなかった。

 ただでさえ悪魔は扱いが難しい。その上、気が立っている彼を諌められる者などいなかった。



 更に、彼らにとってイリスの価値は内に秘めた魔力のみ。それさえ損ねることがなければどのように扱おうが問題はない。

 ボロ布しか纏っていなかったイリスに黒いローブを与え、その後は寝台しかない小部屋に押し込み、一日に二度味気ない食事を与えるのみで、彼女を気にかけるものなどいなかった。







 イリスは日に日にゼノの気配に恐怖を感じるようになった。ゼノが部屋に無遠慮に侵入してくると心臓が凍りつき、その姿を見ただけで吐き気を催し、体が震え怯えてしまう。



 そんなイリスの様子を見て、ゼノは嗤いながらこう言った。



「“この姿“に怯えてやがんのか?」



 その言葉にイリスは、リュシアンの姿に恐怖を抱くようになっていたことに気がついた。愛おしい人の姿のはずなのに、会いたくないと、触れてほしくないと、そう感じるようになってしまっていた。



 そのことにすら、イリスの心は砕けそうだった。ゼノの日々の仕打ちによって、大切なものが穢されていく。



 その顔で、嗜虐的な笑みを浮かべないで。



 その声で、聞くに耐えない言葉を投げつけないで。



 その手で、こんな風に触れないで。



 騎士だったリュシアンの体を手に入れたゼノに、力で敵うわけもなく、チョーカーのせいで魔力を使うこともできなかった。



 必死に抵抗しても、いとも容易く組み敷かれてしまう。



 その時、彼の右手首にあるホクロが目に止まる。

 かつて、リュシアンがそっと頬に触れるたび、愛おしく思えたその小さな印。それが今では地獄のような時間を告げるものとなってしまった。



 イリスが知る、イリスだけの大切な想いが、悍ましい行為によって踏み躙られていく。





「たすけて……リュシアン……っ」





 涙ながらに呟いた言葉。か細く、弱々しく、ほとんど風に消え入りそうな程の懇願だった。



 それでも、その名を呼んだ瞬間だった。

 今まさにイリスを力づくで押し倒していたゼノの手が、唐突に彼女の体から離れたのだ。

 これまでどんなに懇願しても、ゼノがイリスを弄ぶ手は止まらなかったというのに。



 イリスは驚きで動けずにいた。

 しかし、困惑したのは彼女だけではなかったようだ。



 ゼノ自身も、自分の手を凝視していた。

 その瞳に浮かぶのは明らかな動揺だった。まるで肉体が自分の命令に従わない事に、戸惑っている様子だった。



 だが、その不自然な静寂は一瞬のことだった。

 すぐにゼノはふてぶてしく笑い、いつものようにイリスににじり寄った。





 ただ、その「違和感」はこの時を境に繰り返されていった。



 食事を強制する時、無理やり洗い場へ引き摺る時、ゼノがイリスを傷つけ愉しむ時、彼の動きが一瞬、どこがぎこちなくなる。まるでイリスの悲痛な声に反応するように、イリスを傷つけることを拒むように。



 その変化は徐々に頻度を上げていき、やがて、ゼノは苛立ちを隠せなくなった。





「くそッ!! なんだ、“こいつ“!? 死んだやつが、今更出しゃばるんじゃねえッ!!」





 イリスを押さえつけようとした手がそれを拒んだ。苛立つままゼノはその拳を痛めつけるかのように床に叩きつける。まるでリュシアンが傷つけられているようで、イリスは思わずゼノを止めるため、その手に縋りついた。



「やめて!!」

「邪魔をするなッ!!」



 力任せに振り払い、イリスに向けて拳を振り下ろそうとした。



 目を瞑り、迫る痛みに身を硬くする。しかし、一向に衝撃が襲ってくることはない。



 恐る恐る目をひらけば、ゼノが振り上げたその拳を、もう一方の手が掴み、阻んでいた。



「リュシアン……?」



 イリスは震える声でその名を呼んだ。

 その拒絶は紛れもなくリュシアンの意思に違いなかった。



 魂は失っても、肉体だけでイリスを傷つけることを拒み始めたのだ。



 それでもなお、ゼノは諦めなかった。



「くそっ!! 入れ物が、言うことを聞かなくなりやがった!! お前のせいだ……ッ、全部、お前の!!」



 感情のままに、ゼノはイリスに掴みかかる。

 イリスに詰め寄るその姿は、かつてのリュシアンの高潔さは欠片も残されていない。その姿はまさに悪魔だった。顔を歪め、恨みと憎しみに満ちた声を吐き、腰に下げた剣へと手を伸ばした。



 スラリと引き抜いた剣を振り上げる。



 イリスは恐怖にすくんで動くこともできずにいた。

 しかし、その凶刃がイリスを襲うことはなかった。







 「……ッが……!? な、なんで……ッ!?」





 ゼノは自らの胸を貫いていた。鮮血が吹き出し、イリスの顔を汚していく。

 イリスは震えて微動だにできずにいた。目を見開き、愛した男と同じ姿のゼノの凄惨な最期を見つめている。



「っくそ……が……ッ! そこまで、して……ッ、こんな、小娘……」



 血溜まりに力無く膝をつき、ゼノは力尽きた。それと共に、闇色に染まった髪は元の銀の輝きを取り戻し、瞳も、血のような紅から優しい青に戻った。



 その体は、最期にイリスを見つめ、優しく微笑んだ。



 その表情は決してゼノが見せることのなかった慈愛に満ちたものだった。言葉もなく、糸の切れた人形のように、その場に倒れ伏す。



 その姿を、イリスは呆然と見つめていた。



 生暖かい、彼の血を浴びて。再びリュシアンが死ぬ瞬間を見せつけられた。



 封印の儀式の時、魂を抜き取られ絶命した瞬間も、封印が解かれ、魂が塵のように崩れていった瞬間も、今この時も、全て、イリスのために命を散らせていったリュシアン。





「……あ、ああ……、あぁぁ……!!」





 自分のせいだ。

 自分が弱いから。自分の弱さのせいで、またリュシアンが死に追いやられた。



 イリスの中で堪え続けていた何かがぷつりと切れてしまった。



 胸の内から押し寄せてくる激情。

 

 怒り、憎しみ、恨み、悲しみ。激しい感情の渦がイリスの内側から溢れ出す。首に取り付けられたチョーカーが弾かれたように吹き飛んだ。



 イリスの暴走する力は制御を失い、押さえつけられていた分、力の激流となって全てを飲み込んでいった。



 ゼノへの怒り、再誕派への憎しみ、二人をここまで追いやってきた人間たちへの絶望、そして何より、自分が許せなかった。



 誰かを傷つけたくない、誰のことも害さない、この力は決して怒りや恐れで振るわない。そんな誓いがあったせいでリュシアンを失ったのだ。





 (私は、魔女であるべきだった!!)





 世界が望んだ通り、魔女であればリュシアンが封じられることも、魂を失うことも、体が傷つくことも、死ぬこともなかった。

 そうであったら、自分と出会うことも、愛してくれることもきっとなかったとしても。



 彼がこんな最期を遂げるよりずっといい!





 イリスの内から溢れた力はあっという間に塔を包み込み燃やし尽くした。

 もはや何も我慢する気はない。彼をこんな目に合わせた者たちに何を遠慮する必要があっただろうか。



 逃げ惑う再誕派に属する者たちはなす術もなく炎に包まれ、熱にのたうち人の形の炭に変わっていった。幹部の数人が塔の外へと命からがら逃げ出すも、炎はまるで命を与えられたようにうねり、逃げ仰た者たちを追い回した。



「ああ、あの小娘はやはり災厄の魔女だった!!」



 断末魔を上げる幹部たちを、焔の蛇は一人残らずその業火に飲み込んでいった。



 塔の中に生きているのはイリスただ一人となった。事切れたリュシアンの肉体を、彼の血に染まりながら抱きしめている。嗚咽を漏らし、震えながら、冷たくなっていくその体を掻き抱いた。



「リュシアン……私、もう迷わないし、躊躇わないよ……」



 最初から、こうしていればリュシアンを奪われることはなかったのにという後悔を噛み締めながら、彼女は小さく、囁くように呟いた。



「きっと、こんな私、失望するよね……でも、これからは、私の意思で私の為に生きていく……貴方が私に、言ってくれた通りに……」



 眠るリュシアンの唇に自身の唇を重ねる。生きてるうちに遂にすることも叶わなかった口付けを交わして、二人は炎の渦に包まれていった。









 ある辺境の地に、その塔はあった。



 かつて大火によって崩壊したその古塔に、今では魔女が住むという。

 漆黒の髪に、炎のような赤い瞳。彼女を狩ろうと近寄る者がいれば、皆容赦なくその命を刈り取られる。



 人の命を奪うことも厭わない、冷酷非情な恐ろしい魔女だと人は噂する。






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