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第一章

 その日の昼食後、僕はふと思い立って病院に行くことにした。退院するときは医者とあまり話さずに出てきてしまったけど、これから服用する薬のことや、治療についてのことを聞かなきゃいけない。それに、普通に生活したらあと何日生きられるのかも。

 いつものリュックに軽く問題集六冊と筆箱、それに財布を入れた。あと、あいつが送ってくれた荷物に入っていた通帳も一緒に入れておく。まだ記帳していないけど、きっと残高がすごいことになっているんだろう。

 リュックを背負ってコートを羽織ると一階に降りると、小百合さんに声をかける。

「それでは、少し病院に行ってきます。」

 小百合さんは特に何も言葉を返すことはなかったけれど、少しだけ眉をひそめたような気がした。

 家を出た僕は、この家に来た時の逆の道を通って、病院に向かった。今日は十一月にしては少し暖かい日だった。コートは着なくてもよかったかもしれない。

 駅に向かうと、ICカードを取り出して改札機に通そうとしたら、はじかれてしまった。残高をみたら、一駅分の料金にすら足りていなかった。仕方なく隣にある発券機でチャージをする。通学していた頃は定期券だったから、残高のことなんて気にしたことがなかった。半年ほど程放置されていた財布の中の千円札を発券機に入れた。ICカードを取り出してもう一度発券機に通して改札の中に入った。

 電車を待ちながらも、持ってきた単語帳や問題集を開いて待つ。ふとなんのために勉強しているのだろうかと思う。行き急ぐように時間さえあれば問題集を開くけれど、意味などあるのだろうか。

 考えたって仕方ないと言い聞かせて勉強を続けようとしたら電車が来てしまった。そして、予想通りすぐに目的の駅に空いてしまったので、それ以上勉強することはできなかった。

 街を見ると、退院した日より少しだけ明るくなったように見えた。裸にされた並木と石畳の道の先に僕がいた病院が見えてきた。少し離れてみると、大病院の風格を感じずにはいられない。

 半年ぶりぐらいに正面から病院に入る。玄関前の花壇に植えられた花たちは、どうやらこの病院と提携している大学のサークル活動の一環で整備されているらしい。病院内で春夏秋冬を感じられる数少ない場所だ。

 正面玄関から建物の中に入ると、まるで役所のように大きな待合室兼受付がある。受付の機会に僕の診察券と保険証を読み込ませると、レシートのような待合番号が渡された。

 待合の椅子に座ろうとした瞬間、受け絵付けの上のディスプレイに僕の番号が表示されてしまったので、勉強を断念して中待合に入る。

 中待合には、来客を飽きさせないための様々な医療に関する本が置いてある。ふと自分が読み古した本のタイトルを見て懐かしくなる。自分が医者を目指した理由を思い出して少し泣きそうになった。

「どうぞ」

 看護師さんが扉を開けると、久しぶりに見た体型が平均的な柳田医師の姿があった。促されるままに、円形の椅子に座る。

「久しぶりだね」

 昔と変わらず気さくに話しかけてくれる目元のしわが少し増えただろうか。それに少しやせたような気もする。

「お久しぶりです。今日は、これからの生活の仕方について伺いたくて来ました。」

 柳田医師は日本でも数少ない、遺伝子の突然変異や遺伝性の疾患の臨床の専門医だ。まだ研究途中のこの分野の専門医は少ない上に、遺伝性の疾患は種類が豊富なので、彼の意見を聞くために県外から来る人も後を絶たない。

 それに、柳田医師は患者のために心身を尽くす姿勢も相まって、彼はこの病院の顔ともいえるほど有名で信頼されている医者だ。

「君のお父さんから連絡はもらってるよ。ほぼ不要な入院だったから、僕もすんなり隊員の許可を出したけど良かったんだよね?」

「それは問題ないです。」

「じゃあ、これから一か月分ぐらいの薬を出しておこうか。」

 あいつがちゃんと柳田医師に連絡していたことに少し驚いてしまう。そういうところは用意周到なのが余計にいら立たせてくる。

 いらないことを考えていると、医師が処方箋を手渡してきた。昔見た薬の名前が、昔の倍の量で処方されている。それだけ僕の状態も良くないんだろうな。

「この薬は容量だけ確認すれば、前と同じように飲んでいいからね。それと、激しい運動意外は別に問題ないから、精一杯あと一か月楽しみな。」

 そういうと、柳田医師は僕のズボンのポケットに手を突っ込んできた。僕は診察室の扉のほうに歩いてお礼を伝える。

「ありがとうございました」

 そういうと何事もなかったかのように、僕は診察室を後にした。その足で院内の薬局に向かう。少し薬価が高いとか、ジェネリックを使わないとかいろんな噂があるけど、気にせずずっと使っている。

 薬剤師に処方箋を手渡すと、ほぼ待つこともなく薬が出てきた。お会計はさっきポケットに入れられたお金で払う。大半は残ったので、診察台にしようと決めて、ポケットにしまい、薬はリュックに入れた。

 今度は受付に行くと、診察料を払う。さっき医師からもらったお金はほとんどなくなってしまったから、ちょうどよかった。残ったお金は、近くの赤い羽根募金に入れておいた。

 病院を出ようとして、正面玄関を内側から見たとき、あの日のことが思い出された。帰り道、歩きながらあの日のことを回想する。

 中学三年の夏休み。部活を引退する前から気になっていた、胸痛が気になってきたので、かかりつけの小児科に診てもらった。たいしたことない肺炎とかだろうと高をくくっていたけれど、随分と深刻そうな顔をした小児科医は言った。

「親御さんと話をしましょう」

 嫌な予感に背筋が凍る思いをしながらも、お母さんを診察室に予備、一緒に話を受けた。

「お子さんは深刻な心臓病の可能性があります。ですが僕のクリニックではその程度や原因を把握できる設備は申し訳ないことに持っていません。ですから、僕の知っている腕のいい先生を紹介するので、行ってみてください。」

 そういわれて、診察室から出されてしまった。その日は医者の恩情ということで診察料もなく帰された。僕が家に帰ろうかというと、お母さんは言った。

「この足で病院に行きましょう。何もないかもしれないからね」

 冷静そうに聞こえた声は、今にして思えば僕を落ち着かせるための希望論だったのだろう。あの時の僕は、お母さんの言葉を聞いて、一縷の光を見出した気でいた。

 近くのバス停から病院行きのバスを捕まえて、二人並んで座る。重苦しい沈黙がお母さんとの間に流れて、窓の外の景色に目目をやるしかなかった。

 じきに病院につくと、当時は花壇に僕の身長と同じくらいの背の高さのひまわりが咲いていた。大きくその端を太陽に向けて精一杯栄養を受けているようで、その姿に少し憧れた。

 病院に入ると、外来の受付の手続きをお母さんがやってくれた。大きな病院だし、待合にたくさん人がいたのでかなり待たされると思ったけれど、以外にも早く中待合まで通された。

 中待合に入ってから、一言だけお母さんと話した。

「もし僕が病気だったらどうするの?」

 今にして思えば、あまりに残酷な言葉だったと思う。人に対しての気遣いを持ち合わせていなかった僕は、率直にお母さんに聞いてしまった。お母さんは初めて目尻に涙を浮かべながら言った。

「好きにさせてあげるわよ」

 その時の僕は内心その言葉に喜んでいた。幼少期から習い事や塾などであまり自由な時間がなかった僕は、好きにできるという言葉に敏感だったのだ。その言葉がどれだけ悲しいかも知らずに。

「どうぞ」

 中待合から診察室に通されると、これぞ診察室といった部屋だった。患者が横になるための簡易ベッドに、丸い椅子が2つ、防止などの荷物置きに、某有名メーカーのデスクトップパソコン一式、部屋の奥にはたくさんの薬品の棚と、どこに通じているのかわからない通路。

 部屋を見渡していると、医者がやってきた。開口一番

「紹介状に精密検査の依頼が書かれていたので、精密検査を行いのでついてきてください。」

 そう言うと、診察を一切することなく、荷物を持って部屋の外に促された。医者について、吹き抜けになっている3階建ての建物の地下に行くと、CT室やMRI室と言った放射線機器類がおいてある部屋があった。まずはこちらに、と言われ、CT室に入った。

 初めてのCTにワクワクしながら、ドーナツ型の機械の空洞部分につながるベッドに寝そべる。そのまま寝ていると、勝手にベッドが前後に動いてすぐに検査は終わったらしい。あっけないなと思いながらも、次の部屋に移った。

 MRI室でも同じように検査を受けた。噂には聞いていたけれど、想像以上にMRIの音はうるさかった。耳が壊れるんじゃないかと思うほどの轟音に耐えると、また診察室まで戻された。

 診察室に入り、医者と対面すると、半透明な黒いフィルムを持った技師がやってきた。そのフィルムを見て、医師が険しい表情をして言う。

「これから残酷なことを伝えなくてはなりませんが、心の用意はできていますか?」

 その言葉ですでに結果を伝えているようなきがするなと思いながらも、楽観的に大丈夫だと思った僕は答えた。

「大丈夫です」

 答えてしまってから、お母さんの方を見ると、ハンカチを目元に当てながら、唇をかみしめてうつむいていた。医師は、お母さんが少し泣き止むのを待ってから、深呼吸していった。

「大動脈乖離が起きています。まだ進行していないので、動脈瘤になっていませんが、いずれ動脈瘤になるでしょう。」

 わあっとお母さんは泣き出してしまった。反対にあまり実感がない僕は、医師に聞いた。

「原因はわかっているんですか。」

 医師は腕を組み、眉をひそめていった。

「あなたの体を見る限り、年齢や不摂生などによるものではないと思います。すると...、先天性の可能性が高いです。」

 先天性の病気。それじゃあ治りようもないかと、少しあっけらかんとした。ついで程度にこんな事も聞いてみた。

「どれぐらい生きられそうですか?」

 僕の特に驚いてもいない様子を不気味に感じたのか医者は少したじろぎながら言う。

「十年は持つと思います。まだ経過観察をしていないので、進行の速さもわからないので不確定ですが。」

「そうですか」

 自分ごとのような実感はなかったけれど、数年前からわずかに自分の体を疑問に思っていた。本当にこのまま普通の人と同じように生きられるのだろうか、と。それが本能的なものだったのか、それとも漠然とした不安でしかなかったのかはわからない。けれど、それが現実になったんだなと思った。

「そしたら僕はどうしたらいいんでしょうか。」

 誰も答えなんて知らない質問。それでも答えが得られると思って聞いた。

「経過観察次第ですけど、あまり過度な運動は控えつつも普通に生活していけばいいと思います。今の時代、薬剤投与によって、昔に比べて何倍も長生きできるようになってますから。」

「わかりました」

 そう答えたものの、その言葉が僕に向けられたものでないことははかっていた。あまり気にしないで普通に生きればいいか、なんて気楽に考えた。

 隣を見て、いまだに泣いているお母さんを見て、あまりの感覚の違いを目の当たりにして言葉をかけられなくなってしまった。

 もう帰ろう

 喉元まで出かかった言葉は、お母さんの服の袖を引っ張るだけになった。お母さんは無理やり泣き止むと、僕に合わせて椅子から立った。

 僕がそのまま部屋を出ようと踵を返した時、横で仰々しくお辞儀をしているお母さんがいた。つられて僕ももう一度先生のほうを見てお辞儀をしてから、涙目のお母さんと部屋を後にした。

 そのあとのことはあまり覚えていない。二人で帰りにご飯を食べに行ったけれど、ほとんど会話もしなかった。たくさん頼んでいいといわれで、知らないイタリアンをいくつか頼んで意外とおいしかった事は覚えてる。


 いつの間にか駅についてしまったらしい。改札を通りながら、病気のことを少し考える。

 自分が病気と知ってから、少しだけ大人になれたような気がする。過去を振り返りながら、今を生きれるようになった。そのかわり、自分を殺したいほど嫌いな自分を心の中に作ってしまったが。
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