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第一章

 昨日の夜はずっと考えていたけど結果はでず、そのまま寝落ちしてしまった。目を覚まして、もう一度その数字を見ると、ふと過去の地理の授業が頭に浮かんだ。

「緯度と経度か」

 ようやくその数字の意味が分かったので、パソコンで検索にかけると、この場所からそう遠くはない場所に位置していることが分かった。

 さて、何をもっていこうかな。

 昨日のあいつの口ぶりだと、ほとんどの荷物は勝手に持ってきてくれるみたいだし、最低限リュックに交通費や勉強道具さえ入れていけばいいんだろうか。さっき地図で確認した限りでは、場所は普通の一軒家らしいので、それだけあれば生活できそうな気がする。そもそも、退院して民家に行かされる理由が全く分からないんけど。

 とりあえず、渡されたカギと座標の紙はポケットに押し込んだ。手当たり次第に使っていた問題集やノート、教科書をリュックに詰め、上のほうに筆箱を乗せるとリュックのチャックを閉めた。そして、リュックの前ポケットに財布をしまう。コートを羽織ると、リュックを背負った。

「重っ」

 思わず声が出てしまうほど、今の僕にとってこのリュックは重くなっていた。数月前だったら普通に持って登校できていたはずなのにと思ってしまう。まあ、ほぼ寝たきりに近い状態だったから体力が衰えるのも仕方ないのかな。

 少し心配にもなったけど、あいつがほかの荷物は持っていくと言っていたので、その言葉を信用して入りきらない荷物は置いていくことにした。最初のころは少なかった荷物も、長い間ここで生活するうちにだんだんと増えていって、長期出張の人の部屋のようになってしまった。

「行ってきます」

 なんとなく、長い間を過ごしたこの部屋にも愛着がわいてきたので、挨拶をして部屋を後にした。

 受付の人に多少話を通すと、すんなりと外に出ることができた。常に快適な温度だった室内と違い、太陽と放射冷却によって循環している外気は、今の僕にとっては負荷が大きかった。

 スマホを取り出すと、最寄り駅の場所を調べる。ほぼ始めてきた場所だから不安だったけど、マップアプリの従うように道順を確かめながら歩くと、ちゃんと言われた通りの駅に着いた。駅で二駅分の切符を買い、電車に乗った。

 登校していたころはこの通学時間に睡眠時間を補っていたけど、二駅分だとうとうとする暇さえなかった。駅を降りて改札を出ると、なれた街のにおいがした。

 一度深呼吸をしてから、もう一度マップアプリを開き、緯度と経度を入れて目的地を探す。重い荷物に謎の安心感を抱きながら、街並みを歩いていくと、ストリートビューで見た一軒家についた。だけど

「表札はうちのじゃないんだ」

 てっきりあいつのことだから、目印になるように表札を変えているものだと思ったけど、別の名前の新しめの表札が置いてあった。周りの家を確認してみるけど、僕の名字の表札は一つも見つからなかったからこの家でいいのかなと思い門の戸に手をかけると

「35.599604901093315, 140.14050185057184」

 と書かれた付箋が剝がれ落ちた。明らかに文字があいつのものだったので、これが目印だったのだと確信する。確証が持てたので、堂々と門から敷地に入ると、綺麗に整えられた庭と、まだ塗装のむらが少ない2階建ての一軒家が目に入る。

 ドアに近づくと、昨日手渡されたカギをポケットから取り出し、恐る恐るカギ穴に差し込んでみる。ちゃんと鍵の形があっていたので、

カチャ

 という子気味いい音とともに鍵が開いた。押戸を慎重に押し開けると、懐かしいさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。同時に涙腺が緩みそうになったけど、上を向いて我慢した。

「失礼します」

 と小声で言ってから玄関を上がる。重荷だったリュックを丁寧に玄関のそばに置くと、手洗い場を探した。廊下の突き当りのほうかなと思って歩き進めると、予想通りにあった。なるべく汚さないように、丁寧に手を洗い、口をゆすいだ。

 廊下を戻ると、リビングらしい部屋にリュックをもっていき、荷物を取り出した。高校に通っていたころから慣れた荷物の詰め方は、どこでも勉強ができるように計画されている。必要なものだけ取り出すと、今日の分の勉強を始めた。

 始めてきた環境にしては、だいぶ勉強がはかどったので少し休憩をはさんだ。部屋の配置、家具のセンス、食器の置き方、どれをとっても昔の家を思い起こさせるものが多い。それは僕にとって気分のいいものではなくなってしまった。あの日のことを思い出すから。

 必死に頭からあの記憶を押し出し、もう一度勉強を始める。脳裏にあいつの顔がちらつき、そのたびにストレスがたまる。気が付かないうちにどんどん勉強の効率が落ちていることに気が付き、スマホを取り出して動画を垂れ流し始める。動画の内容であいつを無理やり頭から追い出す。


 いったいどれだけの時間がたっただろうか。いつの間にか窓から入っていた日の光はオレンジに変わり、烏のなく音が聞こえ始めていた。少し伸びをして、次の勉強に移ろうとしていると

「ただいま」

 急に玄関の扉が開いて、女子の落ち着いた声が家に響いた。無駄だろうけど、彼女にばれないようにと荷物を部屋の隅に運んでいると

「きゃー」

 と叫ばれ、視線が合ってしまった。けど、不思議と視線を合わせると謎の安心感にも似た親近感を覚えた。それは彼女も同様だったらしい。お互いに謎の沈黙が生まれた後

「私、手を洗ってくるね」

 そう言い残し、洗面所のほうに向かっていった。僕は荷物をもう一度テーブルのほうに運び、椅子に座って彼女を待つ。

 ほどなくして彼女は帰ってきた。そして、僕の向かい合わせになる席に座ると、荷物を下ろした。

 すらっとした顔の輪郭、細めの眉、あどけなさの残る目元、雑な口紅の感じが残る口元、細身の首に胸元までかかりそうな長い黒髪。どこの学校かわからないセーラー服に身を包んだ彼女の年齢は判別ができなかった・

 観察されているのに気付いた彼女は口を開く。

「そんなに私の顔がおかしい?」

「そんなことはないよ。それより、状況を説明してもらえないかな。全くわからないんだ.」

 ため息をつくと、彼女は時間が惜しいようで、少し早口で話し出した。

「私の名前は矢田部 椿姫。隣町の葛木中学校に通う中学三年生。この家には五年前ぐらいに引っ越してきたの。」

 次は君の番です。目線がそう語ったので、僕が語り始める。

「僕は橋上 翔。少し離れた高校に通っている高校三年生だよ。とはいっても、今年の五月ぐらいから学校に通えてないから、卒業できるかすら怪しいけどね。昨日の夜に、父親の悟にこの家に行くように言われたんだ。」

 そう答えると、気まずい時間が生まれた。その間に僕は彼女の言っていた言葉を咀嚼する。葛木中学校なら、ここら辺の生徒が通う公立中学だ。学区が違ったからかかわることはなかったけど、そういえばあの中学はセーラー服が売りだった。時代遅れ感もあるけれど、数年したらまたは槍が来そうなものだ。

 この空気を彼女が先に切り裂いた。

「ではあなたはなんでこの家の鍵を持っているんですか。まさかピッキングして侵入したんですか。」

 至極当然の質問だ。率直に僕の答えを述べる。急に警護になったことに対して、少し戸惑ったけど。

「父親に言われたときに鍵も一緒にもらったんだ。ほら。」

 ポケットからこの家の鍵を取り出すと、彼女の前に置く。彼女の鍵と僕のもらったカギを真剣に見比べ、綿密に同じものであると確認すると、ぼくのほうに返してきた。そして、次の質問を投げてきた。

「昨日あなたはお父さんに何と言われてここに来たんですか。」

 なるべく思い違いがないように昨日のことをお思いだし、丁寧に答える。

「僕の部屋で休んでいると、急に父親が僕の一か月を買うと言って来たから、最初は軽く断ったんだ。でも押し切られたから、その一か月の条件を聞くと、この家に来るだけだっていうんだ。だから、今日の朝にここにやってきたんだ。」

 彼女には気づかれないように言葉をぼかしたつもりだった。けれども、彼女から痛い言葉が出た。

「じゃあ、あなたの部屋に帰ればいいじゃないですか。この家にとどまる理由はないはずです。」

 彼女の言葉に僕は反論ができない。確かに普通の部屋ならそれが可能だけれども、僕の場合にはそれができない。見え透いた嘘のような気もするけれど、ごまかしを続けた。

「僕の部屋はもう解約してしまったんだ。だからもうあの部屋には戻れないんだ。」

「そうですか」

 ひねり出した嘘に彼女は納得したようだった。先ほどのように突っ込まれるのではないかと心配していると、また彼女が口を開いた。

「百歩譲ってこの家に来てしまったのは仕方ないとして、あなたはこれからどうするつもりなんですか、まさかこの家に住み着くなんてつもりはありませんよね。」

 一難去ってまた一難。一つの嘘をつきとおすと、また別の難題を突き付けられてしまった。正直表札の時点でこの家に人が住んでいる可能性は十分にあったけれども、普通に住めるものだと信じていたから今の今まで考えていない問題だった。彼女の言うように、この家に住み続けるのは図々しいお願いだと思う。それに確認はしてないが、まだお金はあるはずなので、少なくとも野宿のような生活はしないで行けるはずだ。それでも、僕は彼女に少し引き下がって頭を下げた。

「もう部屋を追い出されてしまったし、頼れる親戚もギャンブル依存症の父親以外にいないんだ。それに、どうせあと一か月だから、住まわせてほしい...です。」

 相手は年下だけれども、お願いごとをするのだから咲いていんげんの礼儀を払おうとしたけれども、変な感じになってしまった。追い出されたくはないなと考えていると

「お母さんと相談して、了承されたら住んでもいいですよ。」

 と言ってくれた。一息するのもつかの間、今度は玄関のチャイムが鳴った。僕はこの家の家主ではないことが分かったので、出しゃばらずに椿姫が応対するのを眺める。

「どちら様ですか」

 壁際にあるインターホン越しに椿姫が声をかけると、

「&&1さんあての宅急便です」

 という、青年の声が聞こえた。睨むような視線で椿姫が僕のほうを見るので、昨日あいつに言われたことを伝えた。

「昨日、父親が僕の荷物は後で送るって言ってたからそれだと思う。1日で突くのは少し早すぎると思うけどね。」

 そういって、僕は彼女の代わりに荷物を受け取りに門のほうへと向かう。道路の手前側には大きな荷物を足元に置いたお兄さんが伝票をもって待っていた。

「家具衣類教科書の配達です。」

 と言って、伝票と荷物を僕に渡してきた。パソコンや教科書一式が入っているので、その段ボール以上の重みを感じた。どうせならお兄さんに仲間で運んでほしいと思ったけれど、お兄さんは次の場所へトラックを走らせていた。仕方なく荷物を家に入れる。

「その荷物、どうするつもりですか?」

 椿姫が冷たい声で僕に告げた。人情ややさしさに助けてもらえると信じていた僕には少し重い言葉だった。言葉に詰まる僕を見ると、椿姫は落胆をにじませた声で言う。

「まあ、とりあえずあなたの一時的な部屋に運んでください。空いている部屋が奥に一つあるので。」

 そういうと、玄関から突き当りにある階段を昇って行ってしまった。大きな荷物のせいで自由に動けない僕は、なるべく早く階段を目指した。

 階段を上り終えると、小さな部屋が左右に2つずつ、奥に一つ並んでいて、隅にトイレがあった。彼女はその部屋の中で一番左側の奥のほうの部屋を開けていた。その部屋に荷物を入れて中を見渡すと誰かが住んでいた形跡が全くない部屋があった。

「ここは空き部屋なの?」

 僕が率直に椿姫に聞くと、椿姫は少しいやそうな顔をして

「空き部屋ではないですよ。ただ自由に使っても大丈夫です。」

 そういうと、僕の部屋から出ていき、隣の部屋に入り際に

「私はこの部屋で勉強しているので、入らないでくださいね」

 と言って扉を閉めた。

 僕はもう一度部屋を見渡す。ベッドが一つと勉強机が一つ置いてある。質素なつくりの部屋だけど、十分広いので荷物を置くには十分な部屋だ。ただどのかぐにも使った跡がない。買いたての塗装のにおいはしないのに、人の痕跡がないのが逆に気持ち悪かった。

「まあ仕方ないか」

 僕は新しい部屋の内装を決めて、荷物を取り出し始めるのであった。
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