第三章
僕は今日の夢の話しから、小百合さんと柳田医師に言われたこと、そして僕の家について話した。椿姫は最初の夢の話はさもつまらなさそうに聞いていたものの、最後の家についてはなぜか興味ありげに聞いていた。
「ということなんだ。どうするのがいいんだろうか」
率直に僕は問いかけた。年上の僕がこんなことを椿姫に聞くのはおかしな話だ。けれども、今の僕にはただ人に聞いて答えを得たいという面があったのかもしれない。そんな僕の質問に、椿姫は予想外の答えをした。
「そこまで考えているなら、実際に家に入ってみたらいいじゃないですか。案外葉入れるかもしれないですよ?」
「そんなことしたら不法侵入になるかもしれないよ。そんな危険なことは」
「本当に過去に立ち向かいたいんですか?あなたのことですから、その家の鍵も持っているんでしょうし、そのカギでは入れれば家は売りに出されていないか買い手がついてないんですよ。そのカギで試してみればいいんじゃないですか?」
ぐぅの音も出なかった。言い訳をして逃げ続けてようとしてただけだ。だからこそ僕は、椿姫に話を聞いてもらってよかったと思った。
「そうだよね。わざわざ話を聞いてくれてありがとう。」
そういうと僕は、自分の部屋に帰ろうとした。僕が立ち上がって後ろを向いた瞬間、服の裾を引っ張られた。僕が振り返ると、甘ったるそうなやさしさを浮かべた椿姫が立っていた。
「ちょっと待ってください。私が一緒に行ってあげますよ」
「それはいいよ」
とっさに僕は椿姫の提案を否定した。しかし、椿姫は棒の裾をつかんで離そうとせずにつづけた。
「とりあえず座りなおしてもらってもいいですか」
しぶしぶ、言われるがままにローテーブルの前に座った。さっきと同じ状況になったところで、椿姫は話をつづけた。
「あなたのことですから、いったん部屋に帰ってから勉強の予定を立てて、時間が作れたら行こうとでも考えていたんでしょう。厳しいこと言いますけど、そんな悠長なことしてられるほど体がもつんですか?」
僕は何一つ言い返せなかった。椿姫は僕の様子を見ながら続ける。
「ですから、明日の午後に一緒に行ってあげます。明日はお母さんは午後6時ぐらいに帰ってくる予定ですし、わたしは五時間目で授業が終わるので十分に行けますよ。」
確かにそれはいい提案かもしれない。けれども、僕には理解できないことが残っていた。
「どうしてそこまで考えてくれるの?君にはあんまり関係ないことだと思うんだけど」
「翔さんは自分のことを後回しにする人間ですし、特にこういうことはやりたがらないからですよ」
不思議と椿姫はすましたような顔をしていた。僕はこの答えの意味が分からなかったけれど、この提案に乗るのが最善だと思ったので、その提案に乗った。
「じゃあ、明日の午後に一緒に行こうか」
それから僕たちは明日の予定を立てた。単に椿姫の授業が終わった後に、同級生に見つからないようにして駅の反対側に来るだけだから、時間だけ決めてお開きになった。
いつの間にか十二時を回っていたらしく、椿姫は話が終わるとベッドに入ってしまった。椿姫が安眠できるようにと思って、音を立てずに自分の部屋に帰ろうとすると、猫なで声が聞こえてきた。
「頭なでてよ~」
普段の椿姫の声からは考えられないような声だけど、あの日以降毎日聞いている。仕方がないと思い、寝ている椿姫のベッドの前に膝まづくと、椿姫の頭をなでた。枕に頭が付いているので、多少なでても紙が絡まらなさそうで安心した。
「おやすみ、お兄ちゃん」
そう言い残すと、椿姫は本当に眠ってしまったようだった。よく見ると、ちゃんともこちゃんを抱いて寝ている。本当にお父さんのことが好きだったんだなと思うとともに、彼女の依存性の強さが垣間見えるような気がした。
そこまで確認すると、僕も自分の部屋に戻った。机の前に座って学習計画帳を開くと、今日の予定が完了していることを確認してから、明日の予定を書き込んだ。椿姫が言っていた時間帯を開けておいて、少し少なめの勉強量にしておいた。
それから、最近おろそかになっているブログを書くためにパソコンを開いた。胃炎だったらここに書き込まないと落ち着かなかったのに、今では椿姫にそれを離すことで落ち着いているような気がする。それでも、読んでくれている人がいることと、椿姫にあまり重い負担をかけないように、今日もブログを書きなぐる。
今日の小百合さんに割れたこと、病院にいって柳田医師に言われたこと、自分の家を確認したらまだ売られていなかったこと、そして椿姫に話したことを書き留めた。ブログを書いていると、時々さとちゃんがどう考えているのか気になることがある。僕が書いていることは多少特殊な人生であれど、あまり役に立つ話なんてない。ブログの更新時間も不定なのに、僕が朝確認するまでに返信を書くという芸当はどうやっているのだろうか。
それに、最近新しくコメントを付けるようになった、かめっしんという人についても謎に包まれている。ネットを介したコミュニケーションだから仕方ないことなのだろうけど
、一度顔を合わせて話してみたいなと思う。
ちょうど書き終えたときに、終電が通る音がした。夜がやってくる。パソコンの電源を落とすと、僕の部屋にも夜を招き入れた。
いつも通り、始発が走り出す前に目が覚める。そういえば、今日は小百合さんがいないので、朝ごはんの準備とかもやらないといけないと気づく。学習計画帳を開いて今日の予定を書くと、僕は自分の部屋を出た。
椿姫を起こさないように気を配りながら、下の階に降りると、何やら日の音が下の階から聞こえてきた。火事かと思って焦って下の階に降りると
「そんなに焦ってどうしたんですか、翔さん」
ガス台で調理をしているエプロンをかけた椿姫がいた。安堵と疑問が頭に浮かび混乱していると、椿姫が説明してくれた。
「今日はお母さんがいないので、自分でお弁当を準備しているんですよ。」
慣れてるんですよ、とでも言いたげな手つきで焼けたソーセージをお弁当箱に詰めると蓋をした。すべてを理解した僕は、改まって椿姫に挨拶をした
「おはよう椿姫」
「はい、おはようございます」
ご機嫌そうな椿姫はフライパンを片付けると、朝の支度を始めた。まだ午前四時半過ぎなのに、そんなに急ぐことがあるんだろうか。まだ僕には疑問は残っていたが、椿姫がいなくなったに入ると、パンを二枚焼いておいた。
久しぶりに朝早い時間帯にごはんのじゅんびをしているのだから、少しだけごちそうにしようかな。ちょっと申し訳なかったけど、フライパンを取り出すと、ハムを焼くとその上に卵を割り入れた。
焼けたパンにハムエッグを乗せると、フライパンを洗って戻しておいた。それからコーヒーを準備しようと思った。けど、いつもは小百合さんが全部準備しているので、何からコーヒーを入れているのかわからず、手当たり次第に食器棚を開けてみた。
どうしてもコーヒーに関する道具が見つからないなぁと悩んでいると、椿姫がやってきた。
「ハムエッグ作ってくれたんですね。あともしかしてコーヒーメーカーを探してるんですか?」
そういう椿姫の目は僕のほうを向いていなかった。椿姫の視線の先を見と、食器棚の隣のワゴンの上にコーヒーメーカーとコーヒー豆が置いてあった。穴にあったら入りたい気持ちでコーヒーメーカを取り出してコーヒーを入れる準備をしていると、椿姫は小さく噴き出した。余計に恥ずかしい思いをした。
コーヒー豆はよく見たお店で扱っているやつで、しかも僕も飲んだことのあるキリマンジャロブレンドだった。よく僕のお母さんが好きだけど少し高いのよねと言っていたのを覚えている。コーヒー豆の粉と水を入れると自動で淹れてくれる優れモノで、便利だなぁと感心する。
その間も椿姫はそそくさと朝の支度をしていて、気が付けば五時を過ぎていた。コーヒーが入ると、机の上にパンとコーヒーを置き、朝ごはんの支度をすると、テレビをつけてのんびりと椿姫を待った。朝五時台のテレビは30分おきにニュースをやっているが、あまり大きなニュースはないらしい。
三回ぐらい洗面所とリビングを行き来したあとで、ようやく椿姫は準備が終わったらしい。僕の前の席に椿姫が座ると、合掌して
「いただきます」
というと、二人して朝ご飯を食べ始める。適当に作ったにしてはおいしいハムエッグになった気がする。ちゃんと半熟の卵の黄身が割れた時の甘さが、ハムの塩気を緩和して、よりハムのジューシーさが出ている。心の中で自画自賛していると、椿姫がコーヒーを置いていった。
「ハムエッグ、最近お母さんがよく作ってくれるんですよね。もしかしてそれを見てまねたんですか。」
そういわれてみれば、確かに小百合さんに作ってもらったこともある気がする。でもそれ以上に、僕にはハムエッグには思い入れがあった。
「これはね、僕のお母さんが受験の日とかに作ってくれたんだよね。あとは早起きした時に作ってくれて、おいしかったから作ってみただけだよ。」
わたしも好物なんです、というと椿姫はいつも以上に口を大きく開けてかぶりついた。椿姫も好物だったんならちょうどよかった。僕は満足した気持ちで朝ご飯を食べ終えた。
僕らが朝の支度と朝ごはんの片づけが終わっても、まだ六時半ぐらいで時間には余裕があった。僕はのんびりとコーヒーを飲みながら少しだけ優雅な朝を過ごしていた。椿姫も僕の前に座ってニュースを眺めていた。
キリマンジャロブレンドは独特の酸味と甘みがあるコーヒーで、後抜けの良いコクが特徴的だ。香りもよいから、こんな朝にはちょうど良いコーヒーだった。
僕がのんびりしていると、椿姫はリュックを背負い、行く準備を整えていた。時計を見たが、まだ七時を回っていなかったので、僕は早いんじゃないと聞くと
「今日は早くいって早く帰りたいんですよ」
というと、玄関のほうに向かってしまった。せっかくなので、僕も玄関に向かい学校へ行く椿姫を見送った。椿姫はいつもよりもご機嫌そうに学校へ向かったので、僕は安心して家に戻った。
朝ごはんの片づけも住んでいたので、僕はただひたすらに勉強を進めることにした。椿姫との予定まであと八時間ぐらい。自分の部屋に戻ると、問題集にとりかかった。
朝はそこまで気にしていなかったけど、十一月にしては驚くほど寒い。僕は自分のベッドから毛布を一枚取り出すと、僕の膝にかけた。時折その毛布に手を入れて温めながら勉強を続ける。
とりあえず数学の問題集が終わると、パソコンを取り出してブログを見ることにした。いつもなら朝起きてすぐに見るけれど、今日は朝ドタバタしていたから忘れていた。今日もコメントが付いているのかな。
ブログのコメント欄を見ると、予想通り二件のコメントが付いてた。一つはさとちゃんからで、もう一つはかめっしんさんからだった。
「こういう時は、何も考えずに現地調査ですよ byさとちゃん」
「一度行ってみたらいろいろとわかるかもしれませんよ。意外と知らなかったことを知るきっかけになるかもしれません。 byかめっしん」
二つのコメントを読んだ僕は、みんな似たようなことをいうということは、相するべきなんだろうなと納得した。誰か一人でも反対する人がいたら、僕は自分の逃げを肯定していただろうけど、全員から立ち向かえと言われて、ようやく決心がついた。
二人のコメントに、短文ながらも変身する。
「いつもコメントありがとうございます。現地調査やってきます」
「コメントありがとうございます。行ってみることにします。知らなかったことが出てきたら面白いですね。」
返信を終えると、パソコンを閉じると勉強に戻った。他力本願のような気はするけれど、決心がついたので、地に足が付いたように勉強をすることができた。そのおかげか、いつもより少しだけ進みが早いような気がした。
気が付いたら、いつの間にかお昼ごろになっていた。今日の料理担当は小百合さんの予定だったけれど、家にいないのだから自分で作るしかないか。キリの良いタイミングで勉強をやめ、学習計画帳に進捗を書き込む。そこまで終わったら、僕は下の階に降りた。
当然だけど、リビングには誰もいない。いつもなら小百合さんがテレビを見ているか、料理をしてくれているはずだったから、少しだけさみしく感じる。
冷蔵庫を開けて、昨日の残り物や使っても問題なさそうな食材を探す。昨日の椿姫が作ってくれたご飯は、昨日中に食べ切ってしまったから、一から作るしかないか。あきらめると、いつも通りミックスベジタブルと卵とご飯を取り出した。
フライパンをセットして、レンジでご飯を温めながらミックスベジタブルを炒める。片手間に木べらを取り出してから、この家に慣れてしまったなと気づく。始めてきたころにはうまく使いこなせないキッチンも、数回使っただけのはずなのに、我が家のように使いこなせる。
卵を炒め終えたころに、ちょうどご飯が温まる。と言っても少しだけ冷たいご飯だけど、フライパンに放り込んで炒めればだんだんと温まるだろう。
ボーっとしながら炒飯を作る。ガス台の横からリビングを眺めてみる。やっぱり、僕の家によく似た構造だと思う。他人の空似のごとく、他家の空似なんてことがあるのだろうか。
いつの間にかご飯が十分パラパラになっていた。僕は塩コショウを振るとお皿に盛りつけて、自分の席まで運ぶ。いつもならいるはずの二人を思いながら、合掌する。
「いただきます」
短時間で適当に作れる炒飯を食べながら、僕は今日の予定を思い出す。三時半過ぎに駅の向こう側に集合。それから、僕の家に行って、葉入れなければすぐに帰る。もし入れたとしても、四時半には向こうを出て五時半前にはこっちに帰ってくるようにすること。それが、小百合さんに見つからないようにするための方法だ。
空になったお皿にスプーンを突き立てていることに気が付くと、皿を流し場に持って行って洗った。なんとなくまだ空腹のような気もするけれど、食べ過ぎで体に不調をきたしたら大問題だ。病人が言うことでないのかもしれないけれど。
片づけまで終わると、僕は久しぶりに薬を飲んだ。いつ以来なんだろうか。この家に来てから飲もうと思ったことは何度かあるけれど、二人にばれたくなかったから口をつけていなかった。病気のことは知られているのに、薬を飲んでいることは知られたくないっていうのは、自分でもよくわからない。
薬特有のシロップの甘さが際立つ錠剤と、西洋医学の薬よろしくのほぼ無味に包装された薬をいっぺんに飲み込んだ。それに、もう一つ、イチゴのような甘さのする粉薬を飲む。鎮痛剤と血圧を下げる薬の二種類だ。飲みなれている味のはずなのに、久しぶりだから少しむせかけてしまった。
それから、僕はテレビをつけてみた。いつも通り、小百合さんがこの時間帯によく見ているテレビドラマがやっていた。少し気になっていたから、作品を注視してみた。ここまでのストーリーがわからないから、理解するのが大変だった。どうやら、内容は医者と看護師の恋、しかし医者側が勝手に離別を申し出たという話らしい。看護師視点のストーリーで、看護師業界のごたごたがよく描かれている作品だ。
看護師の仕事柄というのはお母さんからよく聞いていた。だからこそ、この作品の再現度は非常に高いと思ったし、少し近寄りがたい業界なんだなと痛感した。もし僕が医者になっていたら、この人たちとうまくやれただろうか。
テレビを見ていたら、僕はふとあることを思いついた。ただ、その行為の危険性は重々承知していた。いわゆる、押してはいけないと言われたら押したくなるような、スリルと好奇心が織り交ざる感覚の行為だった。
僕はそーっとリビングの隅にある食器棚の下の段を開けた。小百合さんがいたから一度も明けたことがなかったそこには、予想通り小型の金庫が置いてあった。暗証番号はわからないけれど、これは多分重要な書類が入っているはずだ。
なぜ金庫の場所が分かったのか。それは、この家の作りが僕の家に似ているから。僕の家にはここに金庫があって、いつも不用心に感じていた。こんなところにあったら、空き巣にすぐにばれるだろうと思ったけれど、何とか守り続けられた。そしてこの金庫にはいろんな書類が入っていることを聞いたことがあった。例えば生命保険関係の書類とか。
金庫があることを確認すると、僕はもう一度椅子に座った。つけっぱなしにしていたテレビを止めると、天井を見上げながら考える。今のでこの家は僕の家に非常によく似ているどころか、ほぼ兄弟のようなものであることが分かった。つまり...どういうことなんだろうか。
そこまで考えておきながら、僕は答えを持ち合わせていなかった。ただ、少なくともこの既視感は、ただの既視感ではないことだけが分かった。
少し眠っていたのだろうか。疲れが出たのか、それともご飯を食べたことによる満腹感か。起きた瞬間から頭がズーンと重くめまいがするようだった。
ハッとして時計を確認すると、二時半を指していた。勉強するにしても時間が足りないし、椿姫との約束に遅れでもしたら何を言われるかわからない。
僕は鎮痛剤を頭痛薬として飲むと、身支度を整えた。二回に行って、リュックを取り出す。今日はあまり重い荷物で言っても仕方ないのはわかっているが、何を減らそうと思っても減らせなかった。結局いつもと同じ荷物を準備し終えると、下の階に降りて歯を磨いて支度を整えた。
戸締りは火の元の確認を念入りにして、安心したら僕は家を後にした。門のところまで来てからもう一度、玄関の戸を確認すると、駅のほうに向かった。
やっぱり自分の家に行くのが怖い。もう引き返してしまおうかと、悪魔か天使のささやきが何度も僕の耳をなでた。そのたびに僕は踵を返そうとした。その都度、僕の頭の中には椿姫のあきれる顔と、僕を嫌いな"僕"が嘲笑する姿が頭によぎった。
いつもの倍近い時間をかけて駅に着くと、急に人だかりができていた。どうやら催し物をやっているらしい。その人だかりを後にして、僕は駅の反対側に向かう。自分の身長を生かして向こう側にいる人影から椿姫を探す。しかし、見当たらなかった。
人だかりを完全に抜けると、単語帳を片手に勉強している中学生の姿を見つけた。こうやって見ると、とても端正に整えられた顔立ちと、美しい黒髪が目立つ。この姿だけ見れば、立派な優等生少女で、夜中に僕に甘い声を出してくる少女とは思えなかった。
僕は周りの目を気にしながら椿姫に近づくと、僕の姿に気が付いて近寄ってくる人影があった。
「ちゃんと来てくれてよかったですよ。」
椿姫は、僕に歩調を合わせながら器用に単語帳をカバンにしまった。そして、棒の顔を見上げながら言った。
「それじゃあ、行きましょうか。翔さんの家へ」
「そう、だね」
一度周囲を見渡したけれど、僕らのことを見ている人間なんてどこにもいなかった。ただ、太陽だけが僕らをまっすぐに見ていたんだ。
「ということなんだ。どうするのがいいんだろうか」
率直に僕は問いかけた。年上の僕がこんなことを椿姫に聞くのはおかしな話だ。けれども、今の僕にはただ人に聞いて答えを得たいという面があったのかもしれない。そんな僕の質問に、椿姫は予想外の答えをした。
「そこまで考えているなら、実際に家に入ってみたらいいじゃないですか。案外葉入れるかもしれないですよ?」
「そんなことしたら不法侵入になるかもしれないよ。そんな危険なことは」
「本当に過去に立ち向かいたいんですか?あなたのことですから、その家の鍵も持っているんでしょうし、そのカギでは入れれば家は売りに出されていないか買い手がついてないんですよ。そのカギで試してみればいいんじゃないですか?」
ぐぅの音も出なかった。言い訳をして逃げ続けてようとしてただけだ。だからこそ僕は、椿姫に話を聞いてもらってよかったと思った。
「そうだよね。わざわざ話を聞いてくれてありがとう。」
そういうと僕は、自分の部屋に帰ろうとした。僕が立ち上がって後ろを向いた瞬間、服の裾を引っ張られた。僕が振り返ると、甘ったるそうなやさしさを浮かべた椿姫が立っていた。
「ちょっと待ってください。私が一緒に行ってあげますよ」
「それはいいよ」
とっさに僕は椿姫の提案を否定した。しかし、椿姫は棒の裾をつかんで離そうとせずにつづけた。
「とりあえず座りなおしてもらってもいいですか」
しぶしぶ、言われるがままにローテーブルの前に座った。さっきと同じ状況になったところで、椿姫は話をつづけた。
「あなたのことですから、いったん部屋に帰ってから勉強の予定を立てて、時間が作れたら行こうとでも考えていたんでしょう。厳しいこと言いますけど、そんな悠長なことしてられるほど体がもつんですか?」
僕は何一つ言い返せなかった。椿姫は僕の様子を見ながら続ける。
「ですから、明日の午後に一緒に行ってあげます。明日はお母さんは午後6時ぐらいに帰ってくる予定ですし、わたしは五時間目で授業が終わるので十分に行けますよ。」
確かにそれはいい提案かもしれない。けれども、僕には理解できないことが残っていた。
「どうしてそこまで考えてくれるの?君にはあんまり関係ないことだと思うんだけど」
「翔さんは自分のことを後回しにする人間ですし、特にこういうことはやりたがらないからですよ」
不思議と椿姫はすましたような顔をしていた。僕はこの答えの意味が分からなかったけれど、この提案に乗るのが最善だと思ったので、その提案に乗った。
「じゃあ、明日の午後に一緒に行こうか」
それから僕たちは明日の予定を立てた。単に椿姫の授業が終わった後に、同級生に見つからないようにして駅の反対側に来るだけだから、時間だけ決めてお開きになった。
いつの間にか十二時を回っていたらしく、椿姫は話が終わるとベッドに入ってしまった。椿姫が安眠できるようにと思って、音を立てずに自分の部屋に帰ろうとすると、猫なで声が聞こえてきた。
「頭なでてよ~」
普段の椿姫の声からは考えられないような声だけど、あの日以降毎日聞いている。仕方がないと思い、寝ている椿姫のベッドの前に膝まづくと、椿姫の頭をなでた。枕に頭が付いているので、多少なでても紙が絡まらなさそうで安心した。
「おやすみ、お兄ちゃん」
そう言い残すと、椿姫は本当に眠ってしまったようだった。よく見ると、ちゃんともこちゃんを抱いて寝ている。本当にお父さんのことが好きだったんだなと思うとともに、彼女の依存性の強さが垣間見えるような気がした。
そこまで確認すると、僕も自分の部屋に戻った。机の前に座って学習計画帳を開くと、今日の予定が完了していることを確認してから、明日の予定を書き込んだ。椿姫が言っていた時間帯を開けておいて、少し少なめの勉強量にしておいた。
それから、最近おろそかになっているブログを書くためにパソコンを開いた。胃炎だったらここに書き込まないと落ち着かなかったのに、今では椿姫にそれを離すことで落ち着いているような気がする。それでも、読んでくれている人がいることと、椿姫にあまり重い負担をかけないように、今日もブログを書きなぐる。
今日の小百合さんに割れたこと、病院にいって柳田医師に言われたこと、自分の家を確認したらまだ売られていなかったこと、そして椿姫に話したことを書き留めた。ブログを書いていると、時々さとちゃんがどう考えているのか気になることがある。僕が書いていることは多少特殊な人生であれど、あまり役に立つ話なんてない。ブログの更新時間も不定なのに、僕が朝確認するまでに返信を書くという芸当はどうやっているのだろうか。
それに、最近新しくコメントを付けるようになった、かめっしんという人についても謎に包まれている。ネットを介したコミュニケーションだから仕方ないことなのだろうけど
、一度顔を合わせて話してみたいなと思う。
ちょうど書き終えたときに、終電が通る音がした。夜がやってくる。パソコンの電源を落とすと、僕の部屋にも夜を招き入れた。
いつも通り、始発が走り出す前に目が覚める。そういえば、今日は小百合さんがいないので、朝ごはんの準備とかもやらないといけないと気づく。学習計画帳を開いて今日の予定を書くと、僕は自分の部屋を出た。
椿姫を起こさないように気を配りながら、下の階に降りると、何やら日の音が下の階から聞こえてきた。火事かと思って焦って下の階に降りると
「そんなに焦ってどうしたんですか、翔さん」
ガス台で調理をしているエプロンをかけた椿姫がいた。安堵と疑問が頭に浮かび混乱していると、椿姫が説明してくれた。
「今日はお母さんがいないので、自分でお弁当を準備しているんですよ。」
慣れてるんですよ、とでも言いたげな手つきで焼けたソーセージをお弁当箱に詰めると蓋をした。すべてを理解した僕は、改まって椿姫に挨拶をした
「おはよう椿姫」
「はい、おはようございます」
ご機嫌そうな椿姫はフライパンを片付けると、朝の支度を始めた。まだ午前四時半過ぎなのに、そんなに急ぐことがあるんだろうか。まだ僕には疑問は残っていたが、椿姫がいなくなったに入ると、パンを二枚焼いておいた。
久しぶりに朝早い時間帯にごはんのじゅんびをしているのだから、少しだけごちそうにしようかな。ちょっと申し訳なかったけど、フライパンを取り出すと、ハムを焼くとその上に卵を割り入れた。
焼けたパンにハムエッグを乗せると、フライパンを洗って戻しておいた。それからコーヒーを準備しようと思った。けど、いつもは小百合さんが全部準備しているので、何からコーヒーを入れているのかわからず、手当たり次第に食器棚を開けてみた。
どうしてもコーヒーに関する道具が見つからないなぁと悩んでいると、椿姫がやってきた。
「ハムエッグ作ってくれたんですね。あともしかしてコーヒーメーカーを探してるんですか?」
そういう椿姫の目は僕のほうを向いていなかった。椿姫の視線の先を見と、食器棚の隣のワゴンの上にコーヒーメーカーとコーヒー豆が置いてあった。穴にあったら入りたい気持ちでコーヒーメーカを取り出してコーヒーを入れる準備をしていると、椿姫は小さく噴き出した。余計に恥ずかしい思いをした。
コーヒー豆はよく見たお店で扱っているやつで、しかも僕も飲んだことのあるキリマンジャロブレンドだった。よく僕のお母さんが好きだけど少し高いのよねと言っていたのを覚えている。コーヒー豆の粉と水を入れると自動で淹れてくれる優れモノで、便利だなぁと感心する。
その間も椿姫はそそくさと朝の支度をしていて、気が付けば五時を過ぎていた。コーヒーが入ると、机の上にパンとコーヒーを置き、朝ごはんの支度をすると、テレビをつけてのんびりと椿姫を待った。朝五時台のテレビは30分おきにニュースをやっているが、あまり大きなニュースはないらしい。
三回ぐらい洗面所とリビングを行き来したあとで、ようやく椿姫は準備が終わったらしい。僕の前の席に椿姫が座ると、合掌して
「いただきます」
というと、二人して朝ご飯を食べ始める。適当に作ったにしてはおいしいハムエッグになった気がする。ちゃんと半熟の卵の黄身が割れた時の甘さが、ハムの塩気を緩和して、よりハムのジューシーさが出ている。心の中で自画自賛していると、椿姫がコーヒーを置いていった。
「ハムエッグ、最近お母さんがよく作ってくれるんですよね。もしかしてそれを見てまねたんですか。」
そういわれてみれば、確かに小百合さんに作ってもらったこともある気がする。でもそれ以上に、僕にはハムエッグには思い入れがあった。
「これはね、僕のお母さんが受験の日とかに作ってくれたんだよね。あとは早起きした時に作ってくれて、おいしかったから作ってみただけだよ。」
わたしも好物なんです、というと椿姫はいつも以上に口を大きく開けてかぶりついた。椿姫も好物だったんならちょうどよかった。僕は満足した気持ちで朝ご飯を食べ終えた。
僕らが朝の支度と朝ごはんの片づけが終わっても、まだ六時半ぐらいで時間には余裕があった。僕はのんびりとコーヒーを飲みながら少しだけ優雅な朝を過ごしていた。椿姫も僕の前に座ってニュースを眺めていた。
キリマンジャロブレンドは独特の酸味と甘みがあるコーヒーで、後抜けの良いコクが特徴的だ。香りもよいから、こんな朝にはちょうど良いコーヒーだった。
僕がのんびりしていると、椿姫はリュックを背負い、行く準備を整えていた。時計を見たが、まだ七時を回っていなかったので、僕は早いんじゃないと聞くと
「今日は早くいって早く帰りたいんですよ」
というと、玄関のほうに向かってしまった。せっかくなので、僕も玄関に向かい学校へ行く椿姫を見送った。椿姫はいつもよりもご機嫌そうに学校へ向かったので、僕は安心して家に戻った。
朝ごはんの片づけも住んでいたので、僕はただひたすらに勉強を進めることにした。椿姫との予定まであと八時間ぐらい。自分の部屋に戻ると、問題集にとりかかった。
朝はそこまで気にしていなかったけど、十一月にしては驚くほど寒い。僕は自分のベッドから毛布を一枚取り出すと、僕の膝にかけた。時折その毛布に手を入れて温めながら勉強を続ける。
とりあえず数学の問題集が終わると、パソコンを取り出してブログを見ることにした。いつもなら朝起きてすぐに見るけれど、今日は朝ドタバタしていたから忘れていた。今日もコメントが付いているのかな。
ブログのコメント欄を見ると、予想通り二件のコメントが付いてた。一つはさとちゃんからで、もう一つはかめっしんさんからだった。
「こういう時は、何も考えずに現地調査ですよ byさとちゃん」
「一度行ってみたらいろいろとわかるかもしれませんよ。意外と知らなかったことを知るきっかけになるかもしれません。 byかめっしん」
二つのコメントを読んだ僕は、みんな似たようなことをいうということは、相するべきなんだろうなと納得した。誰か一人でも反対する人がいたら、僕は自分の逃げを肯定していただろうけど、全員から立ち向かえと言われて、ようやく決心がついた。
二人のコメントに、短文ながらも変身する。
「いつもコメントありがとうございます。現地調査やってきます」
「コメントありがとうございます。行ってみることにします。知らなかったことが出てきたら面白いですね。」
返信を終えると、パソコンを閉じると勉強に戻った。他力本願のような気はするけれど、決心がついたので、地に足が付いたように勉強をすることができた。そのおかげか、いつもより少しだけ進みが早いような気がした。
気が付いたら、いつの間にかお昼ごろになっていた。今日の料理担当は小百合さんの予定だったけれど、家にいないのだから自分で作るしかないか。キリの良いタイミングで勉強をやめ、学習計画帳に進捗を書き込む。そこまで終わったら、僕は下の階に降りた。
当然だけど、リビングには誰もいない。いつもなら小百合さんがテレビを見ているか、料理をしてくれているはずだったから、少しだけさみしく感じる。
冷蔵庫を開けて、昨日の残り物や使っても問題なさそうな食材を探す。昨日の椿姫が作ってくれたご飯は、昨日中に食べ切ってしまったから、一から作るしかないか。あきらめると、いつも通りミックスベジタブルと卵とご飯を取り出した。
フライパンをセットして、レンジでご飯を温めながらミックスベジタブルを炒める。片手間に木べらを取り出してから、この家に慣れてしまったなと気づく。始めてきたころにはうまく使いこなせないキッチンも、数回使っただけのはずなのに、我が家のように使いこなせる。
卵を炒め終えたころに、ちょうどご飯が温まる。と言っても少しだけ冷たいご飯だけど、フライパンに放り込んで炒めればだんだんと温まるだろう。
ボーっとしながら炒飯を作る。ガス台の横からリビングを眺めてみる。やっぱり、僕の家によく似た構造だと思う。他人の空似のごとく、他家の空似なんてことがあるのだろうか。
いつの間にかご飯が十分パラパラになっていた。僕は塩コショウを振るとお皿に盛りつけて、自分の席まで運ぶ。いつもならいるはずの二人を思いながら、合掌する。
「いただきます」
短時間で適当に作れる炒飯を食べながら、僕は今日の予定を思い出す。三時半過ぎに駅の向こう側に集合。それから、僕の家に行って、葉入れなければすぐに帰る。もし入れたとしても、四時半には向こうを出て五時半前にはこっちに帰ってくるようにすること。それが、小百合さんに見つからないようにするための方法だ。
空になったお皿にスプーンを突き立てていることに気が付くと、皿を流し場に持って行って洗った。なんとなくまだ空腹のような気もするけれど、食べ過ぎで体に不調をきたしたら大問題だ。病人が言うことでないのかもしれないけれど。
片づけまで終わると、僕は久しぶりに薬を飲んだ。いつ以来なんだろうか。この家に来てから飲もうと思ったことは何度かあるけれど、二人にばれたくなかったから口をつけていなかった。病気のことは知られているのに、薬を飲んでいることは知られたくないっていうのは、自分でもよくわからない。
薬特有のシロップの甘さが際立つ錠剤と、西洋医学の薬よろしくのほぼ無味に包装された薬をいっぺんに飲み込んだ。それに、もう一つ、イチゴのような甘さのする粉薬を飲む。鎮痛剤と血圧を下げる薬の二種類だ。飲みなれている味のはずなのに、久しぶりだから少しむせかけてしまった。
それから、僕はテレビをつけてみた。いつも通り、小百合さんがこの時間帯によく見ているテレビドラマがやっていた。少し気になっていたから、作品を注視してみた。ここまでのストーリーがわからないから、理解するのが大変だった。どうやら、内容は医者と看護師の恋、しかし医者側が勝手に離別を申し出たという話らしい。看護師視点のストーリーで、看護師業界のごたごたがよく描かれている作品だ。
看護師の仕事柄というのはお母さんからよく聞いていた。だからこそ、この作品の再現度は非常に高いと思ったし、少し近寄りがたい業界なんだなと痛感した。もし僕が医者になっていたら、この人たちとうまくやれただろうか。
テレビを見ていたら、僕はふとあることを思いついた。ただ、その行為の危険性は重々承知していた。いわゆる、押してはいけないと言われたら押したくなるような、スリルと好奇心が織り交ざる感覚の行為だった。
僕はそーっとリビングの隅にある食器棚の下の段を開けた。小百合さんがいたから一度も明けたことがなかったそこには、予想通り小型の金庫が置いてあった。暗証番号はわからないけれど、これは多分重要な書類が入っているはずだ。
なぜ金庫の場所が分かったのか。それは、この家の作りが僕の家に似ているから。僕の家にはここに金庫があって、いつも不用心に感じていた。こんなところにあったら、空き巣にすぐにばれるだろうと思ったけれど、何とか守り続けられた。そしてこの金庫にはいろんな書類が入っていることを聞いたことがあった。例えば生命保険関係の書類とか。
金庫があることを確認すると、僕はもう一度椅子に座った。つけっぱなしにしていたテレビを止めると、天井を見上げながら考える。今のでこの家は僕の家に非常によく似ているどころか、ほぼ兄弟のようなものであることが分かった。つまり...どういうことなんだろうか。
そこまで考えておきながら、僕は答えを持ち合わせていなかった。ただ、少なくともこの既視感は、ただの既視感ではないことだけが分かった。
少し眠っていたのだろうか。疲れが出たのか、それともご飯を食べたことによる満腹感か。起きた瞬間から頭がズーンと重くめまいがするようだった。
ハッとして時計を確認すると、二時半を指していた。勉強するにしても時間が足りないし、椿姫との約束に遅れでもしたら何を言われるかわからない。
僕は鎮痛剤を頭痛薬として飲むと、身支度を整えた。二回に行って、リュックを取り出す。今日はあまり重い荷物で言っても仕方ないのはわかっているが、何を減らそうと思っても減らせなかった。結局いつもと同じ荷物を準備し終えると、下の階に降りて歯を磨いて支度を整えた。
戸締りは火の元の確認を念入りにして、安心したら僕は家を後にした。門のところまで来てからもう一度、玄関の戸を確認すると、駅のほうに向かった。
やっぱり自分の家に行くのが怖い。もう引き返してしまおうかと、悪魔か天使のささやきが何度も僕の耳をなでた。そのたびに僕は踵を返そうとした。その都度、僕の頭の中には椿姫のあきれる顔と、僕を嫌いな"僕"が嘲笑する姿が頭によぎった。
いつもの倍近い時間をかけて駅に着くと、急に人だかりができていた。どうやら催し物をやっているらしい。その人だかりを後にして、僕は駅の反対側に向かう。自分の身長を生かして向こう側にいる人影から椿姫を探す。しかし、見当たらなかった。
人だかりを完全に抜けると、単語帳を片手に勉強している中学生の姿を見つけた。こうやって見ると、とても端正に整えられた顔立ちと、美しい黒髪が目立つ。この姿だけ見れば、立派な優等生少女で、夜中に僕に甘い声を出してくる少女とは思えなかった。
僕は周りの目を気にしながら椿姫に近づくと、僕の姿に気が付いて近寄ってくる人影があった。
「ちゃんと来てくれてよかったですよ。」
椿姫は、僕に歩調を合わせながら器用に単語帳をカバンにしまった。そして、棒の顔を見上げながら言った。
「それじゃあ、行きましょうか。翔さんの家へ」
「そう、だね」
一度周囲を見渡したけれど、僕らのことを見ている人間なんてどこにもいなかった。ただ、太陽だけが僕らをまっすぐに見ていたんだ。