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第三章

 椿姫の事情を知った日から数日が経過していた。あれから僕らは目立ったことはしなかったけれども、毎晩お茶会と称して紅茶を飲みながら勉強や家族のことを話し合った。お互いのことを打ち明けているので、かなり気楽に話ができるようになったけど、小百合さんの前で仲がいいことを見せないように、二人で注意していた。

 椿姫の勉強も僕の勉強もある程度順調に進んでいた。特に椿姫の勉強については、問題集を変えたからか、難しい問題に対して様々な手段を用いて解こうとする姿勢が身についたように感じている。椿姫の家庭教師を担っている身として、これほどの幸せはないだろう。一応僕の勉強も、それなりに共通テストの問題傾向に慣れたので、許容範囲内の点数が安定して出せるようになった。目標点までは遠くても、達成できる見込みはありそうだ。

 それと、最近少しだけ変わったことがある。それは、僕のブログのコメントが増えたことだ。これまでたった一人、"さとちゃん"という人物だけがコメントをしてくれていた。最近はその人とは別に"かめっしん"という名前の人もコメントを付けてくれるようになった。急に読者が二人になったので、少し驚きながらも、いつも通りの更新を続けている。

 そんな風に新しい人が現れながらも、相変わらず僕は勉強をしている。今日は水曜日なので椿は中学校に行ってからそのまま家に帰ってくると思う。もとは塾の自習室を使って勉強していたらしいんだけど、僕のことを塾生に見られてから、自習室にいるとからかわれるので使うのをやめたと言っていた。それについて僕が謝ったけど、家で落ち着いて勉強できるようになったから気にしないでって言われてしまった。

 それから、僕の通帳の中身に大きな変化はまだない。まだ280万以上が残っているので、早く使わないとなぁと毎日考えている。今のところの僕の予定としては、椿姫の学費にでもなったらいいかなと思っている。

 今日は料理担当が椿姫だけど、お昼ご飯の時には学校に行っているので小百合さんがお昼ご飯を作ってくれるので、僕はのんびりと勉強をしていられる。今日の予定はいつもの数学の問題集が終わったらとにかく共通テストの予想問題集をとにかく解くだけだ。

 僕は問題集を開いて今日の問題を確認する。タイマーをかけると、ノートに数式を書きなぐり始めた。

 それから一体どれくらいの時間がたっただろうか。僕の頭は浮遊しているかのような感覚にとらわれていた。視界は真っ白になっていて、数式もノートも見当たらない。それでも何か不可視雛安心感に、現実との乖離にさいなまれた。

 突如として僕の視界に現れた存在を見て、僕はすべてを察した。それは、さらに原形をとどめなくなった僕の家のリビングだった。そして僕は予想通り水を口に含む。

 今日は寝不足だったのか、まさか勉強中に寝落ちするなんてなぁ。

 なんて気楽に考えながら、無理やり悪夢から解放されようとした。けれども、僕のその行動を咎めようとする存在がいた。

 見紛う事なき僕自身が僕の手をつかんでいたのだ。

 瞬間、夢特有の高速の思考回路にとらわれているような感覚が襲う。現実でないから、僕は僕のことを三人称的に見ることができるのだろうか。いや、それにしてもさっきまでの僕は台所側にいたのに、あいつは反対側にいる。大量の疑問符が頭に浮かぶ。

 その様子を見て、"僕"は笑った。

「お前は自分のことすらも忘れてしまったのか?」

 刹那、頭に答えが浮かぶ。せっかくの夢の中だからと思い、少しもったいぶった様子で"僕"に告げた・

「僕のことを嫌いな僕、だろ」

 僕の言葉を聞いた上で、"僕"はあきれた様子でつかんでいた手を離すと、僕を突き飛ばした。いつの間にか後ろにあったはずの冷蔵庫はなくなっていて、真っ暗な闇の渦がそこにあった。闇にさらわれていく僕に吐き捨てるような言葉がふりかかる。

「逃げてばかりな奴が答えにたどり着けるとでも思っているのか?それとも悪夢を見ることで過去を背負っているとでも信じているのか?」

 まどろみの中で僕はその言葉を聞いていた。何が戦うことなのか教えてくれよ、という僕の言葉は発せられることなく、ブラックホールに吸い込まれた。

 気が付けば僕は腕を組んで机の上で寝ていたことに気がついた。頭から"僕"の声が離れない。後味の悪い焼き魚を食べたあとのような気分になりながらも、僕はスマホの時計を確認する。どうやらまだまだ時間は過ぎていないようなので、安心して僕は勉強を再開した。

 数式を処理しながら僕は考える。さっきの"僕"の言葉の意味は何だったんだろうか。いや、そもそも僕自身が知らない記憶を"僕"は持っているんだろうか。僕と独立した人格のように動く"僕"が存在することに恐怖すらも感じる。

 けれども、わずかにも僕はあいつの言葉に共感している部分があった。僕は過去から目を背けないようにして生きてきたつもりだった。けど、僕は自分が見てきたものだけ何度も反芻しただけで、自分から謎を調べようとは考えなかった。いや、そもそもこの前に椿姫に話して疑問を投げられるまで、謎があることすら認知していなかったんだ。

 逆に言えば夢の中以外で過去に目を向けたことがなかったのかもしれない。しかも、あの感じからするに、あの"僕"が作った夢なのかもしれない。そうすると本当に僕は逃げてばっかりかもしれないなぁ。

 なんか意気地なしだな。

 僕はまた数式いじりに帰っていった。

「お昼ごはんだよ~」

 小百合さんの声が耳元を撫でた。いつの間にかお昼ごはんの時間になっていたようだ。僕は今やっている勉強の霧がよくなるところまですると、自分の部屋を後にした。

 ふと椿姫の部屋の隣を通った時に、わずかに空いていた扉の隙間から部屋をのぞいてみた。丁寧に整頓された部屋の装飾たちだけれども、先日の話を聞いてしまうと、隠したい過去を気が付いてしまう。

 ため息が口からこぼれて。これ以上見てはいけないと思い扉を閉じた。深呼吸しながら階段を下りてリビングに向かう。柔らかい卵のにおいと、ほのかな酸味のあるトマトのにおいがする。

「今日はオムライス作ったの。久しぶりだから一つ失敗しちゃったのよね。」

 よく見ると、僕のところにおいてあるオムライスはきれいなラグビーボール状をしていたけど、小百合さんのところにおいてあるオムライスはチキンライスの上に破けた薄焼き卵が載っているだけになっていた。僕は自分の席に着くといった。

「僕の、崩れたやつでいいですよ」

「せっかく作ったんだから、人にはおいしいものを食べてほしいの。料理作るならわかるでしょ」

 僕の提案は拒絶されてしまった。小百合さんらしいなぁと思う。小百合さんと目を合わせながら合掌し

「いただきます」

 と言って食べ始めた。オムライスにスプーンを充てると、その形を崩すことなくきれいに切り取れた。久しぶりに作ったと言っていたけど、僕には絶対まねできない薄焼き卵だ。

 ふわふわなオムライスを堪能していながらも、僕の思考回路ではッ強の夢のことを考えていた。食べ進めていくほどに、僕の食事しているからだと、夢を思い出す思考回路は切り離されていくようだった。ほぼ完全にオムライスのことが眼中からなくなったとき、小百合さんから声がかかった。

「どうしたの。ボーっとして全然スプーンが進んでないけど」

 その言葉にはっとして、僕の思考回路は体に戻ってきた。僕は小百合さんに謝るとついでに聞いてみた。

「すみません。ちょっと考え事してました。どうやったら過去に立ち向かえるんですかね」

 小百合さんは一口オムライスを口に含むと、視線を僕から外した。そして、部屋の隅を見るように、いや窓の外の空を眺めていながら言った。

「まずは過去を知ることだと思うのよね。案外人ってつらい経験をすると過去を間違って記憶しているのよ。正しい過去を見つけてからそれと向き合うのが大事だと思うの」

 もう一口オムライスを口に放り込みながら、翔くんなら逃げたりしないと思うけどね、といった。

 僕には小百合さんの言葉に少し驚かされた。確かに僕が見ている夢の内容は一回下見たことのない景色だとしても、僕には衝撃的な内容すぎて完全に覚えていた。だから、間違って記憶している部分なんてあるはずがない。

 そして、小百合さんが最後にこぼした言葉が呪いのように感じられた。まさか、とは思ったけど、ありえないと頭に叩き込んでオムライスを食べ始めた。

 オムライスを食べ終わると、食器の片づけをした。小百合さんはまた医者のドラマを見ていた。なぜそのドラマが好きなのか気になったけれど、じっと見ている小百合さんの目に宿っているものが強かったので、聞くことができなかった。

 片づけが終わると、僕は自分の部屋に戻ろうとした。そこで、ふと共有のカレンダーをはっとした。今日の午後の予定欄に僕の通院が書き込まれていた。そういえば前に通院した時に、今日に次の予約を入れたのを思い出した。

 僕は急いで二階の自分の部屋に入ると、リュックを取り出した。そして、今日まだ終わっていない勉強道具とかを詰め込む。最後にお薬手帳や健康保険証を確認すると、リュックをもって下の階に降りた。まだドラマを見ていた小百合さんに僕は言葉を投げる。

「ちょっと病院に行ってきます」

 返事こそなかったけど、わずかに体が動いていたので聞き取ったんだろうと思い、僕はそれ以上告げずに家を出た。十一月の下旬にしては強い日差しが僕を襲った。日の光から目をそらすようにして、日陰に入り込みながら僕は病院を目指した。
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