知らない世界の、知らないきみと






◇◇◇◇



「着いたぞ。エドを起こしてくれ」
サイドブレーキを引いたヒューズが、伝票の紙を持って降りていく。
「鋼の、起きなさい。着いたそうだよ」
言われたとおり起こそうと、声をかけて振り向いてみた。すやすやと眠る鋼のは、それくらいでは起きそうにない。
寝起きが悪いところは同じなのか、と身を乗り出して、肩に手をかけてゆさゆさ揺らしてみる。
「ん…やだ、ロイ……もうちょっと……」
いやいやいや!
もうちょっと、って言ったんだよな?そうだよな?そりゃそうだ、私の耳がどうかしてるんだ。

もっと、と聞こえるなんて。

きっとあれだ、最近鋼のとしてないからだ。忙しかったから我慢していて、昨日やっと早めに、と言っても日付が変わる頃だが、帰れたから。だから久々にと思ったのに、うっかり寝てしまって。
うん、鋼のもきっと不満に思っているだろう。戻れたら嫌というほど構い倒さなくては。

うんうん頷いてどうにか気持ちを抑え、また鋼のを見た。
「鋼の、」
「………ロイ、……」
眉を寄せた鋼のの瞼から、雫が一粒。
「………………」

我慢なんかできるか。

私はベッドへと手を入れて、鋼のの頬に触れた。
鋼のは眠ったまま、それでも私の手にすり寄ってくる。

愛しい金色と同じ、さらりとした柔らかな髪。

少しだけ開いた桜色の唇に、顔を寄せたとき。

「……ロ、イ……」

甘えるような鋼のの声に、動きが止まった。

この子は私ではなく、こちらの私を求めている。

私はどの世界の鋼のでも愛しているけど、この子は違う。あいつを、あの薄ぼんやりで能天気で筋肉バカのあいつを愛しているんだ。

嫉妬で頭の中がくらくらしてきて、思わず手に力が入ったようだ。鋼のが瞼を薄く開け、私を見てまわりを見た。
「わ!オレすっかり寝ちゃってた!もう着いたの?」
「………着いたよ。起きなさい、ヒューズが待ってる」
「大変!ちょ、ロイどいて。オレの靴そこだから」
慌ててベッドから出てきた鋼のが、運転席に移動して私の足元に手を突っ込んだ。
そうして、靴を取った鋼のが私を見る。
「ロイ、どうかした?なんか変だよ?」
「そうか?……疲れたのかもな、慣れないことだらけで」
適当な言い訳に、鋼のは素直に頷いた。
「座ってていいよ。ヒューズさんと、ぱぱっとやっちゃうから」
素早く降りてドアを閉めた鋼のを見送って、ため息をつく。

命よりも大事な、私の鋼の。その鋼のが、他の男に心を奪われている。それが、こうまで辛いとは。

私の世界の鋼のも、私を好いてくれているかどうかわからない。結婚はかなり強引だったし、そのあとも彼の態度は以前とまったく変わらなかった。
けれど、知る限りでは鋼のに他の男などいなかったはず。冷たくても、暴言だらけというかそれしか言われたことがなくても、他の男をあんなふうに呼んだことは一度もなかった。

あれはこっちの私の恋人で、私の妻じゃない。
わかっていても、無理だ。
だって彼は私の希望。

自分も幸せになってもいいのかもしれないと、そう思わせてくれた唯一の光なんだから。




「ヒューズさん、危ない!」
鋭い声に、はっと顔をあげる。サイドミラーに、高く積んだ荷物がぐらつくのが見えた。
急いで飛び降りて、そちらへと走る。鋼のが必死で荷物を支えていて、その側でヒューズが踞っていた。
「どうした、ヒューズ!」
「ロイ、来るな!」
危険だ、とヒューズが叫ぶ。だが、体は勝手に鋼のの元へと走った。
「鋼の、どきなさい!私が支えるから、」
「ロイ、危ないよ!ヒューズさんを早く……」
鋼のの言葉が終わらないうちに、荷物が崩れた。それは積むときに見た、大根の箱。重量も結構あったはず。
「……鋼の!」
手を伸ばし、掴んだ腕を力いっぱい引く。軽い体はすぐに私の腕の中に収まった。

荷物が音を立てて崩れていく。

そうして。

私と鋼のは無傷。

ヒューズは荷物の下敷きになった。




「大丈夫か?」
「よく言うぜ、オレのことなんか忘れてたくせに」
濡らしたタオルで、あちこちにできた傷を拭いてやる。痛い、と文句を言いながらも、ヒューズはくすくす笑いっぱなしだ。
「いやぁ、安心したよ。どの世界でも、おまえはおまえなんだなぁ」
「どういう意味だ」
「……や、気にすんな。ちょっと今、思い出しただけだ」
もういい、とタオルを押しやってヒューズが立ち上がる。
「さ、片付けようぜ。荷主がいなくてよかったな」
崩れた箱に手をかけるヒューズの肩を、掴んで止めた。怪訝な顔のヒューズを、思い切り睨む。
「………なんだよ」
「誤魔化すな。足、どうしたんだ?」
「……………いや、」
言い訳しようとするヒューズの横で、鋼のが訝しげに奴の足元を見た。
「歩き方変だなって思ってたんだ。もしかして荷物崩れたの、そのせい?」
よく見せて、としゃがみこむ鋼のに、苦笑したヒューズが肩を竦めた。
「誤魔化せねぇなぁ。じつはさっき、うっかりアレを踏んじまってよ」
指すほうを見ると、木箱が壊れて散乱している。
「なんだあれは」
「水産で魚を入れるのに使う箱だよ。誰かが使ってそこに放置したのを、どっかのトラックが踏んでったんだろ」
ばらばらに壊れて潰れた木箱の破片には、錆びた釘が刺さったままのものもあった。
「……おまえ、あれを踏んだのか?」
「あー、ついな。そんで痛くてよろけたら、荷物にぶつかって。はは、なにやってんだかなぁオレ」
踏み抜いてしまったのか。
「……う、」
想像したらしく、鋼のが青い顔で口元を押さえた。
釘が刺さったままでなくてよかったが、あの錆びようではしっかり消毒しないと危ない。
「………鋼の、近くに病院は?」
「おいおい、大げさだぞ!これくらいで…」
「バカかおまえは」
大げさなんかじゃない。戦場では満足な手当てもできなくて、錆びた鉄で怪我をして死んだやつもいるんだ。
「怪我を甘く見るな。万が一のことがあったら、グレイシアとエリシアはどうなる?……まぁ心配しなくてもグレイシアは美人だから、すぐに再婚しておまえのことなど忘れてしまうだろうが」
「おい!おま、オレがちょっとだけ考えていたことをそんなはっきり!」
予想はしていたらしい。
私はヒューズの目を睨むように見つめた。
「いいかヒューズ。私は、親友を二度も亡くしたくないんだ。わかったか?」
「……………………」
息を吸い、盛大に吐き出したヒューズが、肩を竦める。
「わかったよ親友。二度と死んだりしねぇ。これでいいか?」
「上等だ。……鋼の、この世界にもタクシーはあるのか?」
黙って聞いていた鋼のが、はっとして頷いた。
「ある!今呼ぶ!」
そのままトラックのドアへと走っていく。電話を中に置いたままだったようだ。
「…………悪いな、ロイ。まだ荷物を半分もおろしてねぇのに」
「鋼のがいるから、大丈夫だ。二人でなんとかやるさ」
「でもよ……おまえに負担が……」
「大丈夫だと言っただろう。いつからそんな、遠慮深くなったんだ?」
笑ってみせると、ヒューズも笑う。

「そうだな。大丈夫だよな、車は運転できるんだもんな」

「……………え?」

「オレがダメで、エドは免許がなくて。つまりおまえが、この車を運転して会社に帰らなきゃならねぇんだよ」

「………………えええ?」

「ロイ!ヒューズさん!タクシーすぐ来るって!」
ドアを開けて叫ぶ鋼の。
ちんまりした鋼のが比較対象になってしまっているからだろうか、トラックがさらに大きく見える。

「………う、運転は…ひと月に一度、くらいしか………」

「だーいじょぶだって!前向いて進めて、曲がり角を曲がれさえすりゃ乗れるって。こっちのロイが乗ってんだ、おまえだって乗れるさ!」

「………………そんな簡単なものなのか……?」

「あー、あっちにゃこっちのロイが行ってんだよな?今頃エドを乗せてドライブとかしてるかもしんねぇぞ?」

ど、ドライブ……!
私が一度もしてやったことのないことを、あの能天気が………!

「エドも、運転うまいロイってカッコいい!大佐のやつこのまま帰ってこなきゃいいのに!とか思ってるかもしれねぇし?」

ああなんかそれすごく言いそう。なんか今、たった今この瞬間にも言われているような気になる。能天気が車庫入れとかばっちりキメて、鋼のがそれを尊敬の眼差しで見つめたりとか、してそう。マジで。

「せっかく来たんだ、記念に運転でもうまくなって帰れよ」

私のあまりの動揺っぷりに、笑いすぎたヒューズが指で目尻を拭う。泣くほどおかしいことなのか。

「いや、だが現実として。私には無理だ。白状すれば、普通車すらあまり得意じゃないんだ」

「できるさ。だって、おまえはおまえなんだから」

市場の入り口から、カラフルな色で社名が書かれたタクシーが入ってきた。
それを見て、座り込んでいたヒューズが立ち上がる。
「ヒューズさん、これ、お金」
鋼のが数枚の紙幣を差し出した。
「リザさんに言ったら、あとから返すからとりあえず立て替えて渡してくれって」
「なんだ、気を使わなくても診察代くらいは持ってるぞ」
「や、今回は仕事中のことだから会社が負担するって。だからロイの財布から出しとけって、リザさんが」
私のか。まぁ入っているのはあの能天気の金だから別に構わないが。ていうかあいつは社長のはずなんだが、扱いが雑な気がするのは気のせいなんだろうか。
「じゃあ行ってくる。治療がすんだら戻るから、待っててくれ」
「……ヒューズ、やっぱり私には………」
「どっちもおまえなんだ。片方にできて片方にできねぇなんて、あるわけねぇだろ」
笑ったヒューズが私の肩をぽんと叩く。
「案外こっちのロイも、今頃あっちで錬金術が使えるようになってたりするかもだぜ?」
それはまずい。鋼のが、本気で私を不要と判断してしまうじゃないか。

タクシーが走りさって、鋼のと二人きりになる。

「ロイ、オレがリフト乗るからさ。荷台の上でパレットにロープかけてよ………って、なに変な顔してんの」

「…………じつは、…………」



ヒューズは足の裏を怪我してしまった。
なので運転はできない。

残ったのは大型免許を持たない鋼のと、

………………………

「……………!!」

状況を理解した鋼のが、真っ青な顔で声にならない悲鳴をあげた。


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