知らない世界の、知らないきみと
◇◇◇◇
「午前中の分はここまでにしましょう」
リザが時計を見て言った。時刻は昼を少し過ぎていて、いい加減腹が減ったと思っていたところだった。
今すぐ帰る方法なんていくら考えてもわかるはずもなく、泣く泣く諦めた私はひたすらサインをすることだけに没頭していた。
どうにかつけペンにも慣れ、肩こりにも慣れてきて、ハボックが破損した紙を事務局とやらに交換に行かなくてもすむようになってきた。これなら、あと少し頑張れば紙束もなくなってくれるんじゃないか。
「エドワード、私はいつも昼飯はどうしてるんだ?」
隣に座って本を読んでいたエドワードに声をかける。
「んー?適当にそこらで食ってんじゃねぇの?」
顔も上げずに答えるエドワード。夢中で読んでいるのは、やたらに分厚い本だ。よくわからないが、なにか科学に関するもの。なんでこんなものにそんなに夢中になれるのか。
「じゃあほら、行くぞ」
「あっ!」
素早く本を取り上げる。
「なにすんだよ!」
「私はこっちのことはなんにも知らないんだ。昼飯も、どこでどうすればいいのかわからん。案内してくれ」
「そんなもん、適当なやつについてきゃ食堂でもどこでも行けんだろ」
「私のサポートをすると言ったのはきみだったな?」
「……う、」
言葉に詰まったエドワードは、悔しそうに私を睨んでそっぽを向いた。
「あんた、ムカつく。そういうとこ、たいさそっくりだ」
「光栄だな、きみの旦那様とそっくりとは」
「褒めてねぇよ」
むすっとしてドアへ歩き出すエドワードについて歩きながら、まわりを見る。ハボックが立ち上がって、リザとなにか話をしながら私たちと同じ方へ歩き出すところだった。
「ハボック」
「へい?」
間抜けな返事をしたハボックが、小走りで側に来る。
「こっちでは、おまえたちはどうなってるんだ?」
「どうって?オレと誰がですか?」
不思議そうな顔のハボック。後ろから来たリザも怪訝な顔をしている。
「だから、おまえとリザだ。籍は入れてるのか?」
「籍?」
ハボックとリザは顔を見合わせた。なんのことだか、という表情だ。
「なんだ、付き合ってないのか?あっちのおまえたちは同棲してずいぶん経ってて、そろそろ籍を入れようかなんて話してたぞ」
「…………へ?」
ぽかんと口を開けるハボック。アホさ加減が倍増されている。
「え?いやいや。もしかしてそっちじゃ、オレと中尉って付き合ってんですか?」
「そうだ。いつおまえが捨てられるかと思って見てたが、結構仲良くやってるみたいだぞ」
「…………………」
振り向くハボックの視線の先で、とことん無表情なリザが氷のような目でこっちを見ている。かなり怖い。
「………そちらにいる私に、一度会ってしっかり話をしたいものですわね」
唇だけで微笑んだリザが、行くわよと部下に命令した。足早に出ていくリザを追って歩き出したハボックが、ちらりと私を振り返る。
「どうやって墜としたのか、そっちのオレに聞きに行きてぇっスよ」
「私はそこまで聞いてなくてな。まぁ、頑張れ」
はぁ、とため息をついたハボックは、上司の後ろ姿に向かって急いで駆けて行った。
食堂は混んでいて、たくさんの軍人が私に声をかけてきた。偉い将軍なんかもいるらしく、無視するなというエドワードの忠告に従って適当な返事をする。だが、落ち着かない。いつ別人だと見破られるかヒヤヒヤしながらでは、飯が喉を通る状況ではないだろう。
というわけで、購買でパンと飲み物を買って、エドワードと二人で中庭に出た。芝生があってベンチもある、ちょっとした公園のような雰囲気。数人の軍人が散らばって座っているが、話が聞こえる距離でもない。
ベンチに座ってほっと息をつき、手にしていた袋を開けた。サンドイッチと菓子パン。おにぎりというものは、こちらにはないらしい。
「たいさ、エドワードって呼んでるのはそっちのオレだよね。そいつ、どんな奴?」
サンドイッチを食べながら聞くエドワードに、どう言えばいいかと考える。
「そうだな……可愛くて優しくて、真面目で真っ直ぐで。いつも何かに一生懸命になってる」
ううん、どう言えばエドワードの魅力を表現できるんだろう。
「皆に追いつこうと、毎日必死に頑張ってる子だよ」
そして天使のように美しくて、と続く私の言葉を無視して、エドワードは小さく笑った。
「そいつが追いつきたいのは、皆じゃなくて、あんたじゃねぇの?」
「……………」
いや、だがエドワードは自分でそう言った。早く皆に追いついて、一人前と認められたい、と。
「言いたくねぇから、そう言ってんだよ。そっちのオレも、あんたの背中に追いつこうと思って必死なんだろ」
「………きみも、そうなのか?」
「追いつこうったって追いつける背中じゃなかったけどな。たいさはいつも先を歩いてて、思い出したときにだけオレに手を差し出してくる。でも、オレがそれを取る前にまた向こうを向いちまって、オレはいつも取り損ねるんだ」
「でも今は結婚してるんだろう」
「したけどさ。相変わらずあいつの考えることはさっぱりわかんなくて、気づいたらいつも置いてきぼりなんだ」
エドワードの横顔は、なんだか寂しそうだった。
「あいつが本当はオレをどう思ってるか、全然わかんねぇ。もしかしたら結婚だって、そろそろしとかなきゃマズイかなって程度だったんじゃねぇかと思うんだ」
「………そんな程度で結婚を決めるような男なのか?」
「いや。……うん、でもそうかもしれねぇ。軍って古臭い習慣みたいなのが結構あってさ、結婚してねぇと、色々言われたりすんだよ。あいつなんか散々遊んでたから、特にそうだった」
だから、じゃあ結婚しとこうか、と考えて。
そのときたまたま側にいたのが自分だったから。
「…………そんなこと、絶対にない」
言い切ると、エドワードが顔をあげて私を見た。
「マスタング将軍がどんな男なのか、私にはわからん。会ったことがないからな。でも、これだけは言える」
マスタング将軍は、こちらの世界の私だ。
私のことなら、私が一番よく知ってる。そんな、適当な理由で結婚する男じゃない。
適当に結婚するのに、はるかに年の離れた、しかも同性を相手に選ぶはずがない。
「…………なんでそう言えるんだよ。あんたとあいつじゃ、違うとこもいっぱいあるだろ」
「細かいことが違っていたって、一番大きなところは同じなんだ。だから絶対、これは間違ってない」
一番大きなところ。
エドワードと出会って、恋をして、心の底から本気で愛したこと。
「マスタング将軍という奴は、金持ちで見栄っ張りでサボり癖のあるどうしようもない男だが、きみを捕まえて結婚したことだけは褒めてやっていいと思う」
「なにそれ」
笑い転げるエドワード。だが本当だろう。ろくに乗れない車を買って、わざわざガレージまで作って飾っておくなんて、見栄っ張りでなくてなんなんだ。
だがそうやって笑いまくったおかげで、エドワードの気持ちは少しは軽くなったようだった。
「早く食おうぜ。中尉が探しに来たら大変だ」
食事を再開するエドワードを眺めながら、私も残りを急いで口に押し込む。部屋を出るときに見たリザの冷たい目を思い出せば、とてもじゃないが業務に遅れるわけにはいかない。
けれど。
エドワードと話をしていて、気づいてしまった。
私は、エドワードがエドワードでありさえすれば、どこの異世界のエドワードにも恋をするんだということに。
私のエドワードとはまったく違う、野生動物のようなエドワード。
恋とか愛とか、無縁な様子だったのに。
さっきの言葉で、この子がマスタング将軍を好きなのはよくわかった。好きだからこそ、相手の気持ちがわからなくて不安になって、それを悟らせたくないから興味のないふりをしているんだろう。
それへ嫉妬する私は、もしかしたら最初に会った瞬間から、この獰猛に光る金色に囚われてしまっていたのかもしれない。
部屋に戻ると、皆はもう揃っていた。まだ仕事は始まっていなくて、賑やかにしゃべって笑っている。
その話題はというと。
「前回はマジ笑えたよなー。あの少佐、泥だらけになってさ」
「今回は雨が降らないといいですね。足元が悪いと、走りにくくて」
「視界が悪いと狙いも定まらないものね。つい味方を撃っちゃうし」
「あー、そうそう!中尉、准将めっちゃ狙い撃ちしてましたよね!当たらなくて残念だったなぁ」
「狙ったわけじゃないのよ。銃を向けた先に、なぜかいつも准将がいただけで」
演習という行事が存在するらしい。紅白に別れて模擬弾を撃ち合い、生き残りの数で勝敗を決めるという。そして前回の演習では、狙撃の名手だというリザに狙われた私がグラウンド中を逃げ回り、その流れ弾に敵兵が当たりまくったおかげでこちらの勝ちで終わったそうで。
「来週なんですよ、演習」
楽しそうに教えてくれるフュリー。
おまえたちにとっては机から離れて運動場で遊べる楽しい行事かもしれないが、私は嫌だ。素人が銃なんて撃ったところで的に当たるとは思えないし、元狙撃兵に狙い撃ちされるなんて冗談じゃない。マスタング将軍はひらひらと逃げ回って生き延びたらしいが、私は無理だ。瞬殺されるに決まってる。
「……どうにか、来週までには帰りたいものだな」
ていうか、演習の日に来なくてよかった。本気で。
午後からもサイン書きなぐりマシンと化していた私だが、頑張ったおかげで夕方早い時間にすべて終わることができた。
「こんなに早く終われるなんて、久しぶりだわ」
リザも機嫌がよさそうだ。
「では、あがってもいいかな」
「はい。お疲れさまでした。明日もまだいらっしゃったら、よろしくお願いします」
敬礼されて、苦笑するしかない。
寝てたら来たんだから、また寝たら戻るだろう。
実際はまったく根拠はないんだが、他にどうしようもないからには仕方がない。
帰り支度をしながら、折り畳み椅子をしまうエドワードを見る。
「帰ったらドライブでもしようか」
「えっ」
一瞬だったが、可愛い顔が恐怖にひきつったのは見逃さなかった。
「大丈夫、これでも私はプロドライバーなんだ。安心して道案内してくれ」
「……あ、そ、そうか。そうだよな、トラックとか乗ってんだもんな」
まだ動揺を隠しきれてないエドワードをつれて、ハボックの運転する車で帰路につく。
この子をこうまで怯えさせるなんて、なかなかできることじゃない。いったいこっちの私は、どれだけ運転が下手なんだろう。ちょっと見てみたい。乗りたくはないけど。
帰って着替えて、早速車の鍵を握る。
「一日一回は運転しないと、落ち着かなくてね」
「あはは、なんだよそれ。ワーカホリックってやつじゃねぇの」
車に乗って、エンジンをかけて。
助手席でシートベルトを締めるエドワードを見て、ふと思う。
相手はエドワードだ。
それにドライブして飯を食って、あとは帰るだけ。
でも、まるでデートみたいな雰囲気。
これって、浮気になるんだろうか。