結婚するって本当ですか


その17・義兄の幸せ



「ただいまぁ」
明るい声と、玄関が開いて閉じる音。
「鋼の、ただいま。いい子にしてたか?」
思わず笑っちゃいたくなるような甘ったるい口調で兄に話しかけるのは、兄の夫でボクの義兄。ロイ・マスタング将軍だ。
「飯食う?お風呂も用意できてるけど」
答える兄の声を聞きながら、もういいかなとボクはそっと部屋のドアを開けた。兄夫婦はいつまで経っても新婚さんみたいだから、邪魔をしないように気を使うのもこれでなかなか大変なんだ。
リビングに向かって足を踏み出し、おかえりなさいと声をかけようとして、ボクは思わず開けた口を閉じた。
義兄に抱きしめられてただいまのキスを顔中に浴びている兄の手は、両方後ろに回っている。
その手に握られているのは、昼間兄が必死に研いでいたもの。カミソリだ。
「に、兄さん…」
呟くように言ったボクの声に、義兄が顔をあげた。なにも気づいてないらしく、相変わらず明るくて幸せそうな表情でボクを見る。
「やぁアルフォンス。今日は早かったんだな」
同時に振り向いた兄が、鋭い目でボクを睨んだ。余計なことは言うなと言いたいようだ。
「は、はい…今日は午後から講義がなくて」
「そうか。じゃ、久しぶりに皆で食事ができるな」
上機嫌な義兄は兄をようやく解放し、着替えるために二階へあがっていった。見送る兄の顔は無表情で、目だけが獲物を狙うようにギラギラと光っている。兄の瞳は金色だから、そうして見るとまるきり肉食獣だ。
「……兄さん………」
ボクの声に怯えが混ざっているのに気づいたかどうか。兄はちらりとこちらを見て、手にしたカミソリを見てから小さく舌打ちした。
「なかなか隙がねぇな、あいつ」
「兄さん、それ危ないよ。ケガでもしたら大変だし、バスルームに戻して…」
「飯にしようぜ、アル」
無理やり笑顔を作って手を差し出したボクを無視するように、兄はカミソリを握ったままくるりと背を向けた。

ああ、神様。どうしたらいいでしょうか。兄が自分の夫を狙っています。

夫の命、ではなく。

最近生やし始めた、夫のヒゲを。

「だって!むさ苦しいし、似合わねぇじゃんかよ!」
食器棚からお皿を出しながら、兄は唇を尖らせた。カミソリは調理台の上だ。手に持ってないってだけで、なんかすごくホッとする。
「ヒゲくらいいいじゃない。准将は童顔だから、貫禄つけたいんじゃないの?」
「ウゼぇだろ!無精髭みたいで薄汚ぇし!」
それが自分の夫に対する言葉なのか。
「寝てるとき剃ろうとしたけど、気配に聡いんだよな。すぐ目を覚ましちまう」
そりゃあんだけ殺気を放ってればね。相手が軍人だってこと忘れてるんじゃないの。
「もういいじゃん、ヒゲくらい。好きにさせてあげなよ」
「やだ!絶対根こそぎむしり取ってやる!」
カミソリの立場はどこに。

食事をして、順番にお風呂に入って、リビングでお酒を飲む義兄に付き合っておしゃべりして。
その間も兄はカミソリを離さない。獲物を狙う猛禽類みたいな目で義兄を見つめ、隙あらばヒゲをこそぎ落とそうとしている。

これは危ない。
ヒゲだけじゃなく、鼻とかいろんなものまで削ぎ落としそうだ。うっ、想像しちゃったよ。気持ち悪。
とにかく、義兄に危険が迫っていることをどうにかして伝えなくては。
だが、兄は義兄から離れようとしない。そんな兄に、義兄もひたすら嬉しそうだ。
無理に引き離すことはできそうにない。だったら、兄がどっかいなくなる隙を狙うしか。
「兄さん、コーヒーおかわり欲しいな」
「キッチンにあるよ」
くそぅ。泥と間違うようなコーヒーをおかわりしてやろうってんだから、そこは喜んでキッチンに立つべきだろうに。
「あ、義兄さんのおつまみがなくなっちゃったよ。持ってきなよ」
「それならここに」
テーブルの下からスーパーの袋を出す兄。中身はポテチ。むぅ、秘蔵のお菓子まで出すとは、どこまで立ちたくないんだよこいつ。ちょっとは動かないと太るぞ。
「氷が少ないよ」
「冷蔵庫にあるよ」
行けってか。
「お水が足りないね」
「蛇口ひねったら出てくるよ」
知ってるってばよ。
なにをどう言っても兄は動かない。義兄の隣に座りこみ、甘えるように体を預けている。そのケツの下のクッションの下にはカミソリ。いつでも出せるように、左手は常に空けてる状態だ。

こうなったら持久戦。ボクはソファに座りなおし、冷えきったコーヒーを啜りながら二人を油断なく見つめた。

やがて、義兄が不審そうな目をこちらに向けるようになった。そりゃそうだ。兄からもボクからも、殺気さえ感じる視線を向けられているんだから。気づかなかったら軍人失格。あ、でもハボック少尉あたりは気づかないかもしれないな。
義兄はボクを見た。なのでボクも見つめ返した。この視線の意味に気がついてくれればいいけど。

「…アルフォンス、そういや授業でわからないところがあると言ってたね」
「……」
一瞬戸惑った。そんなこと言った覚えはない。
けれど、すぐに気づいた。義兄はボクがなにか言いたがっていることをわかってくれたんだ。
「はい!あの、ボクの部屋にノートがあるので」
立ち上がると、義兄も立ち上がった。兄は不満そうだったが、勉強に付き合う気はないらしい。テーブルの上のグラスやカップを片付け始めた。
「どれだい?私ももう学校を出てずいぶん経つし、わかるかどうか」
義兄は自然な口調でリビングを出て、ボクの部屋に入っていく。そのあとを追いながら、兄がキッチンに行ったのを確認してからドアを閉めた。

「すいません、嘘なんかつかせて」
「いや。なにか鋼のに聞かれちゃまずい話があるんだろう?」
机の前の椅子を義兄に勧め、ボクはベッドに座った。そうしてあらためて義兄の顔を見る。生え揃う直前みたいなヒゲは、確かに微妙な存在感があった。
「あの……そのヒゲ、」
「ん?これか」
義兄がそれを触る。
「それ、伸ばすんですか?」
「ああ、うん。この地位まできても、年が若いとどうしてもなめられてしまってね。やはりなにかで貫禄を出さないと」
貫禄を出すというより、童顔を誤魔化したいんだろう。義兄はいくつになっても出会った頃からちっとも年をとってないように見えるから。
「でも……兄がそれ、狙ってるの知ってます?」
「狙って?」
「はい。毎日熱心にカミソリ研いでて…」
そこまで言って、ボクは困った。

義兄は兄に夢中だ。義兄の中では兄はそれこそ初めて会ったときの子供のまんまで、義兄はそんな兄が可愛くて可愛くて仕方ないんだ。
その義兄に、兄がどっかのスナイパーなみの殺気で義兄を狙ってるなんて言って、はたして本気にとってくれるだろうか。

「なるほど、そういうことなんだな」
頷く義兄。そういうことって、どういうこと。
「おかしいと思ってたんだよ。あの鋼のが、私の側からまったく離れないというのが」
えっ。
じゃあ、わかってくれた?
「いくらなんでも、離れなさすぎだろう。それにあんなに殺気を振り撒いて。あれで不審に思われないと信じているのは鋼のくらいなもんだ」
笑う義兄に、ボクも安心して微笑んだ。

よかった。

もう、獲物を狙う虎みたいな目の兄を見なくてすむんだ。義兄の命を心配しなくてすむんだ。

「じゃ、剃って…」
「いや、しばらくこのまま生やしておくよ」
義兄は立ち上がった。リビングに戻る気らしい。
「でも!兄は本気で…」
慌ててボクも立ち上がる。
義兄はにっこり笑って、ボクの頭を撫でた。
「大丈夫。これでも軍人なんだ、狙われることには慣れている」
慣れるほど狙われてるのか。なにやったんだあんた。
「それに、」
義兄は幸せそうに微笑んだ。
「鋼のがあんなに側にべったりくっついていてくれるなんて、滅多にないからね。もったいないじゃないか」

つまり、こんなことでもなければ兄は側にくっついていてくれないってことですよね。




ボクはなにも言えず、リビングに戻る義兄を見送った。

きっと義兄なら、なにを根こそぎ削ぎ落とされても笑って許すんだろう。

それが義兄の幸せ。

うん、だったら仕方ない。

仕方ないけど。

でもボクは、犯罪者の弟という立場にはなりたくないので。

幸せいっぱいの義兄と、殺る気満々の兄がいるリビングという名の戦場へと、戻っていくのだった。




END,
37/37ページ
スキ