結婚するって本当ですか
その6・はじめまして
朝早くから、兄は走り回っていた。
家中の窓を開け放ち、床を拭き廊下を拭き家具を拭き、トイレもキッチンも磨きあげた。風呂まで磨こうとするのでお客様はそこまで見ないんじゃないかと言うと「そんなんわかんねぇだろ!」と切羽詰まった声が返ってきたからほっといた。今は窓を拭いている。
昨夜遅く帰ってきた大佐が、
「明日の夜、母が来るよ」
そう言ってにこにこと兄の頭を撫でた。ようやく自慢の婚約者と自慢の弟を紹介できる、と大佐はたいそう機嫌がよかった。そう言われればボクも嬉しくなって、楽しみですと笑顔で答えた。
だが兄はそれどころじゃない顔をした。何時に来るのかと大佐に縋りついて聞いて、夜だよと言われて夜って何時から夜なの暗くなってからなの星が出てからなのとかさらに詰め寄った。ちょっと落ち着けよ。
それから朝まで眠れなかったらしい兄は、大佐が出勤していってから掃除しっぱなしだ。きょろきょろと部屋を見回し、目についたところを片っ端から磨いている。雑巾を片手にぶつぶつなにか呟きながらとり憑かれたみたいに家中を歩き回る兄はどっか壊れた人みたいで怖い。
「兄さん、お昼だよ」
落ち着いてなにか食べようよと無理やりな笑顔でキッチンに向かおうとしたら、さっき磨いたんだから触るなと怒鳴られた。食いたきゃコンビニでも行けって、いやお客様に夕食出すんじゃなかったの。おかあさんにもコンビニ行けって言う気なの。
なにを言っても無駄。ぎりぎりいっぱいな兄は今度は玄関ドアを拭き始めた。脚立が要るんじゃない?と言ったら殺意のこもった目で睨まれた。
兄が疲れ切った様子でようやくリビングのソファに倒れこむように座ったのは、もう陽が傾き始めた頃だった。
はぁ、とため息をついて、兄は俯いた。
「あと、なにをしたらいいかなぁ……」
買い物はすんだ。夕食も作った。あとはお客様が来たら温めればいいだけだ。
「もうなんにもしなくていいからさ、お風呂にでも行ってきたら?」
朝から掃除に励んだ兄は、埃だらけになっている。髪もくしゃくしゃ。一応お嫁さんとして紹介されるんだから、少しは身綺麗にしておかないと。
そう言うと、兄は不安そうに外を見た。夕闇が濃くなっていく空に星が輝き始めている。
「………そうだよな。きれいにしないと……」
その声はいつもの兄らしくなくて、弱くて少し震えている。
なにをそんなに思い詰めているんだろう。
「兄さん…あのさ、大佐のおかあさんなんだから。きっといい人だよ」
会ったことはないけど、そう思うから。
「だからさ、あんまり考えなくても。普段通りでいいんじゃないかなぁ」
「けどさ……」
兄は俯いたまま、足をぷらぷらさせた。
「………普通のおかあさんなら、息子には普通の嫁をもらってほしいんじゃないかな……」
オレ、男だし。しかもこんなガキだ。親もいなくて、田舎者で、礼儀もなんにも知らない。そんなの、嫌なんじゃないのかな。
「……………」
ボクは言葉に詰まった。
兄が言うことは事実ではあるけど、そんなの関係なく大佐は兄が好きだと言った。だから別に気にすることじゃないと思う。
言葉に詰まったのは、兄は大佐に押し切られて渋々結婚に同意したように見えてたのに、いつの間にか本気で大佐と結婚する気になっていたんだと気付いたからだ。
本気だから気にしなくていいことが気になるんだ。大事な人のおかあさんに気に入られたくて、自信がないからどうしていいのかわからなくて困っているんだ。
ボクは俯いて泣きそうな顔をしている兄が急に可愛くなって、隣に座ってその小さな肩を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。兄さんはボクの自慢の兄なんだ。どんな人だって、きっと見ただけで気に入るよ」
「………そういうの、身内バカっていうんじゃねぇのか」
兄はちょっと笑って、肩の力を抜いた。
風呂行って、着替えなきゃ。どんな服着たらいいのかな。
そう呟いて、兄は目を閉じた。
「で、そのまま眠ったというわけか」
「………はぁ」
大佐はくすくす笑って、ソファで眠る兄の頬をつついた。
兄は部屋着にエプロンをつけたまま。顔も服も手も掃除で汚れたままだ。きれいな金髪もなんだか煤けたみたいに汚れている。
ボクは大佐の後ろに立つ女性に頭を下げた。
「すいません、ご挨拶もできなくて。でも、兄はほんとに朝から一生懸命で」
「わかってるよ」
にっこり笑う年配の女性はクリス・マスタングと名乗った。
大佐のおかあさん。
ボクと兄にとっても、これから母になる人だ。
おかあさんは兄の傍に行き、髪を優しく撫でた。隈のできた目元に指で触れて、大佐を振り向いて笑う。
「ろくに寝てなかったんだろうね。ダメじゃないか、ちゃんと寝かせてあげなきゃ。可愛い顔が台無しだよ」
「大事にしてるつもりなんだがね。この子は余計なことを悩み過ぎる」
大佐は肩を竦めて、それから笑った。
養母だと聞いていたけど、大佐のその笑顔はおかあさんに似ていると思った。
「さて、食事にしようか。アルフォンス、用意はできてるんだろう?」
「あ、はい。兄さんが夕方頑張って作ったのがあります」
料理は苦手な兄が本を片手に必死に作ったものだ。味は正直保証できない。
でも、きっとこの人も大佐と同じように、どんなものでも美味しいと言ってくれるだろうと思った。
兄が目を覚ましたのは翌朝だった。寝すぎだろ。
大事な大事なお客様に挨拶もせず、汚れたまんま、しかも寝顔しか見せてない。
究極に落ち込んだ兄は毛布の塊になって、いくら大佐が大丈夫だと慰めても当分の間しくしくと泣き続けていた。
END.