知らない世界の、知らないきみと
◇◇◇◇◇
「……とりあえず、出勤しましょうか」
協議の結果、ものすごく冷静な顔で中尉が言った。
「いや、こんな状態なんだし、私はこちらの私がしていた仕事を全く知らないんだぞ?そんなんで仕事になるとも思えない。ここは一日、いや数日、休みを取ってだね」
必死な私の言葉に耳を貸す様子もなく、中尉は立ち上がってタンスに手をかけた。
「休んで遊び呆けていても事態は変わらないでしょう。それに会社に行けばみんないるし、なにかいい案も浮かぶかもしれないわ」
手早く着替えを出し始めた中尉に、諦めのため息をつく。せっかくこんな妙なことになったんだから、それを口実に休んでごろごろしたかったのに。
私が目覚めたのは、見たことのない部屋だった。
殺風景で狭い、なんにもない部屋。身動きしただけで軋む安物のパイプベッド。フローリングの床に転がっているのは、知らないメーカーのビールの空き缶だ。
しばらく呆然としてから、窓に近寄ってカーテンを開けてみた。
そこから見える景色は、いつものセントラルシティとはまったく違うものだった。遠くにコンクリートのビルが密集して建ち並び、そのまわりから戸建て住宅のような小さな建物が山の上まで広がっている。ビルの向こうには海。セントラルに海はないのに。
ガラス戸を開けてベランダに出て、景色をもう一度眺め直し、さてここはどこだろう、と考えていたとき。
「あら、おはようございます。今朝は自分で起きれたんですね」
傍の衝立みたいなプラスチックの板に大きく穴が空いていて、そこから見慣れた副官が顔を出した。
「さっさと支度しないと、出発に遅れますよ。まさか半裸で出勤する気じゃないでしょうね?」
「………中尉。きみ、その格好は……」
冷静な無表情でからかってくる部下。だが、着ている服が。
黒いポロシャツと、作業ズボンのようなゆったりしたパンツ。濡れた服を片手に持っているのは、干しかけていたところだったのか。
…軍服はどうしたんだ。ていうかここは明らかに司令部じゃないのに、なんで普通に居るんだ。ていうかその穴はなんなんだ。きみ専用の通用口なのか。
そんな疑問を口にしようとする私に、不思議そうな目を向ける中尉。
「………まだ目が覚めてないんですか?」
「……………………」
首を傾げるその仕草に、違和感。
「………きみは、誰だ?」
中尉じゃない。
反射的にポケットにあるはずの手袋を探す。けれど今の私は下着一枚のとても無防備な姿で、愛用の手袋はどこにもなかった。
穴から入ってきた中尉に部屋の中に連れ戻され、小さなテーブルに向かい合って座ってから、30分。
話をしているうちに、ここが異世界であることが理解できてきた。
「………そうね、確かに私が知ってる社長とあなたとでは、別人なような気がするわ」
眉を寄せて言う中尉。私はこちらでは小規模な会社を経営する社長で、中尉はそこの社員らしい。聞く限りでは、他の社員も皆馴染みの連中ばかりのようだ。しかもその中にはヒューズもいるとか。
「ヒューズは、元気なのか………」
「ええ、そりゃもちろん。色々サポートしてくれて、助かってるわ」
「……………そうか」
異世界の別人とはいっても、中尉もこのとおり私がいた世界とあまり変わった様子はない。ならばヒューズもそうなんだろう。
「でも」
懐かしむ気分を打ち消すように、中尉が立ち上がった。
「ここでこうして話をしてても仕方がないわ。とりあえず、出勤しましょうか」
そして冒頭に戻る。
中尉が運転する小さな車で向かった先は、空き地に掘っ立て小屋を乗せたような小さな小さな会社だった。黒い大きな車が何台か停まっていて、他にも普通車と思えるものが何台か。
「あら、エドワードくん今日は早かったのね」
「え!」
呟きに盛大に反応してしまう。今聞こえたのは、私の愛しい新妻の名前ではないか。
「鋼のがいるのか!?」
「鋼……?誰ですか?」
そうか。中尉の説明ではこの世界にはアメストリス国軍は存在しないらしいから、国家錬金術師もいないんだろう。つまり銘も存在しないということだ。
「あ、いやえーと。エドワード、が……」
彼の名を口にすることは滅多になかったから、なんだかちょっと照れてしまう。中尉は頷いて、空き地の隅に停まった小さめのトラックを指した。
「あれがエドワードくんが仕事で使っている車です。今日は早く終わったようですね」
「……………あれを、鋼のが……?」
そのへんにある普通車より大きくて長いトラック。それを、鋼のが。私の新妻である鋼のは運転免許も持ってないのに。
「社長の車はその隣です。車の運転のご経験は?」
「………………えっ」
鋼のの車の隣にあるのは、巨大な黒いトラック。高さも幅も長さも、普通車の比ではない。
あれを、私が。
たまにしか運転することがなく、ペーパードライバーになりかけていた私が、あれを。
「…………いや、免許はあるが………」
「じゃあ問題ないですね」
「いやいやいや!ありまくりだろう、だってほら、私は異世界から来たんだぞ!持ってる免許も異世界のものなんだから、こちらでは無効だろう!」
「あなたの持ち物は、すべてあちらの世界に置いてきているんでしょう?その理屈ならこちらの社長の持ち物はこちらにあるはず。その中には免許証もあるはずだわ。同一人物なんだから有効に決まってるでしょう」
慌ててポケットから財布を出す。革製のそれの中に、紙幣やレシートに混ざって免許証が入っていた。
「……………大型免許………」
「さ、行きましょう。この時間ならみんないると思うわ」
すたすた歩く中尉についていきながら、なおも免許証を眺める。
取得した覚えのない、見慣れない免許証。そこに私の写真が貼ってある。
これは確かに私の顔だ。
けれど、どこかが違う。ただ無表情に写っているだけなのに、それでも違和感がある。
「そうね、やっぱりどこか違うわね」
ちらりと覗いた中尉が、私を見上げた。
「雰囲気、かしら。あなたがいた世界はなんだか物騒なところみたいだし、そういうところで生きてきた人とそうでない人とでは、同じ人でも違ってきて当たり前じゃない?」
確かに、そうかもしれない。
ここは平和だ。
そんなところで普通に生きていれば、この写真のような能天気なロイ・マスタングが出来上がるのだろう。
能天気というか薄ぼんやりというか、軽そうというかアホっぽいというか。
そんなこいつでも、こっちの鋼のはちゃんと側に置いてるらしい。そこだけは抜け目がないというかちゃっかりしてるというか。
「………そうだ、鋼の」
私の大事な、大事な新妻。
中尉が開けたドアに、急いで飛び込んだ。
驚いた顔で私を見る、見慣れすぎてもう正直見飽きたレベルの連中を無視して、金色を探す。
「あ、ロイ。おはよ」
おんぼろなソファに座ってコーヒーを飲んでいた鋼のが、振り向いて笑顔になった。
「………鋼の!」
「わぁ!」
勢いよく抱き締める。紙カップが落ちてコーヒーが飛び散った。
「ちょ、ロイ!なにすんだよ、いきなり!」
真っ赤になって抵抗する鋼の。そのさらさらの髪や、すべすべの頬の感触に心の底からほっとした。
そうしてやっと気づく。
見たことのない世界で、知っているのに知らない人しかいない場所で、これでも冷静に落ち着いていたつもりだったんだが。
それでも、私はずいぶん緊張していたらしい。
「……ロイ?どうしたの?」
動かない私を怪訝そうに見上げてくる鋼の。
私が知っている彼よりも、いくぶん幼く見える。
「………社長、」
あっちの鋼のとこっちの鋼のの違いについて考える私の耳に、副官の声。
「この子はあなたの可愛いハガネノではありません。さっさと離れないと、痴漢で警察に突きだしますよ」
鋼のじゃない。
その言葉に、思わず腕の中の金色を見つめる。
「……鋼、ってなに?てかロイ、どうかした?熱でもあんの?」
戸惑うような気遣うような、そんな目で私を見る、鋼の。
「………そうだったな。すまん、忘れてたよ」
手を離して解放してやると、鋼のは不安そうな顔をした。
そうだ。これは鋼のじゃない。鋼のはこんな顔はしない。
「……ちょ、リザちゃん。ロイのやつ、どうかしたのか?」
後ろから聞こえてくる懐かしい声に、振り向いた。
ヒューズが事務机に座り、コーヒーを片手に私を見ている。
「それがね、なんだか私にもよくわからないんだけど………」
説明を始める中尉の声が、ぼやけて消える。
私の世界ではとっくに死んだはずの親友が、変わらない姿で当たり前のようにそこにいた。
ああ、ここは本当に異世界なんだ。
「わ!ロイ、大丈夫?」
倒れるようにソファに座りこんだ私に、鋼のが焦った声を出す。
険のない瞳で心配そうに私を見る鋼の。私の鋼のは、そんな表情をする子じゃなかった。
素直じゃなくて生意気で、口が悪くて乱暴で、狡くて卑怯で。
そしてどこまでもタフで前向きで、強くて優しくて。
鋼のに会いたい。
彼は今、どうしているだろうか。
私であって私じゃない私と、なにを………
「…………まさか、」
能天気でアホっぽくても、私は私だ。鋼ののような魅力的な可愛い子と二人きりで、手なんて出してないだろうな。
まさかとは思うが、私のことは私が一番信用していない。なので大丈夫とは言い切れない。
「あの。社長、ほんとに大丈夫なんスか?」
呆れたような声のハボックに、中尉が言い聞かせるように言葉を選ぶ。
「だから言ってるじゃない、その人は社長じゃないの。異世界からきた、ロイ・マスタングっていう別人なのよ」
「………はぁ。異世界…ってじゃあ社長はどこに?もしかして入れ替わっちまったんスか?」
こっちのハボックも、頭の回転は鈍いらしい。
ヒューズがいて、素直な鋼のがいて。
ここは異世界などではなく、もしかしたら天国なのかもしれない。
けれど、それでも。
「…………鋼の………」
あの獰猛な金色が恋しくて、泣きたくなるような気持ちは抑えようがなかった。
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