黒いアレ
廊下の隅で震えているエドワードを見つけたのはエンヴィーだった。
声をかけようとして様子がいつもと違うのに気付くと、思わず隣に座って肩をぽんと叩いてしまった。
「どしたの、具合でも悪いの?」
エドワードは座りこんで膝を抱き、どこか遠くを見つめている。顔は憔悴しきって青白かった。
「えーと、医務室行く?連れてってやるから」
エンヴィーの言葉にエドワードはそちらを向いて、震えながら小さな声を出した。
「アレがいる」
「え?」
「アレがどっかにいるんだ。さっき見たんだ。なのに見失って……」
エンヴィーはオカルト系がものすごく苦手だった。慌ててまわりを見回すが、特になにもない。昼休みが終わったばかりの司令部は、ざわめきは聞こえるものの廊下には誰もいなかった。
「あの……アレってなに」
怯えながらエンヴィーが聞く。それが耳に届いているのかどうか、エドワードは視線を彷徨わせながら繰り返しアレがいるとぶつぶつ呟いている。
本気で医者に、しかも医務室ではなく精神の専門家に連れて行かねばとエンヴィーが決心しかけたとき、エドワードがエンヴィーの後ろを見て目を見開いた。
「ほら、そこ!」
「ぎゃああぁぁぁ!!」
驚いて奇声をあげながら振り返ったエンヴィーの目に映ったものは。
長い触角を持った、黒い虫だった。
「な、なんだゴキブリじゃん」
ほっとしてエンヴィーが笑った。が、エドワードは笑わない。
「オレ、ガキんとき寝ててアレに顔踏まれたことがあるんだ」
「踏まれたって、ようするに顔の上歩いてたってこと?」
「あれ以来アレがダメなんだよ!おまえだって夜中目が覚めて顔の上にアレがいたらトラウマになるだろ!」
真剣な顔で訴えるエドワードにかける言葉が見つからなくて、エンヴィーはしばらく迷ったあと、
「えーと…まぁほら、口の中とか入らなくてよかったじゃん」
とようやく言った。
慰めの言葉のつもりだった。が、エドワードは愕然とした顔で宙を見つめている。
「…………もしかして、すでに口に入って出たあとだったのかも………」
悪い想像は広がるもので、エドワードはエンヴィーの服をつかんで泣きそうな顔で喚いた。
「耳とか鼻とか目とか!あちこち出入り完了済みだったら!どうしようオレ汚染されてたら!」
いやそんなに出入りされて目が覚めないわけないでしょ、というエンヴィーの声もエドワードには届かない。
そこにいる黒い生物に目をやり、震える両手を合わせた。
「ちょ、なにすん………」
エンヴィーが言い終わらないうちに、エドワードの手から白い光が溢れた。
「抹殺してやる……この世にいるアレ全て闇に葬ってやる!」
エドワードが両手を床につけると、たちまち派手な音とともに床が鋭い針の山になってゴキブリを追った。
「落ち着けよ!ちょっと冷静に……ってうわぁぁ!」
止めようとしたエンヴィーのほうへゴキブリが高速で走ってくる。慌てて逃げ出したが、なぜかゴキブリはエンヴィーが行く方向について走ってきた。
別にゴキブリは怖くない。怖いのはそれを狙って錬成を繰り返しつつ追いかけてくるエドワードだ。
「ちょっとー!やめて!オレが死ぬ!マジ死ぬ!落ち着いてくれ!」
「やかましい!世界平和のために尊く散れ!」
「あああもう!誰か助けてー!」
エンヴィーは司令部中を逃げ回り、廊下は針の山と化した。通りかかる者はみなエドワードの形相を見て手近な部屋に入ってドアを閉めてしまう。もうダメだ、と息を切らしたエンヴィーが諦めかけたとき。
「どうした?なにがあった?」
廊下の向こうからロイが走ってきた。
必死に逃げるエンヴィーと追いかけるエドワードを見て一瞬ひるんだロイだったが、それでもエンヴィーを背中に庇ってエドワードと対峙した。
「鋼の、落ち着け。どうしたんだ」
「だって大佐……アレが」
「アレ?」
エドワードが指差す方を振り向くとエンヴィーがいる。
「貴様、鋼のになにをした?」
「違う違う!オレじゃなくて!」
濡れ衣を晴らそうとエンヴィーが下を指差した。
そこには、黒い生物がまだエンヴィーの足元をうろついている。
「おまえ、ゴキブリ飼ってるのか?珍しいな」
「ちーがーう!普通飼うかよこんなん!そーじゃなくて、エドはコレを狙ってんだよ!」
ロイはエドワードを見て、またゴキブリを見て。
手袋をした手をパチンと鳴らした。
ゴキブリは火に包まれて燃え尽きた。
「まったく、こんなことで廊下をこんな状態にしたのか?あとでちゃんと直して……」
説教しようとしたロイは、そこで固まった。
エドワードが、きらきらと輝く瞳でロイを見つめていた。
「かっこいい……」
「へ?」
「かっこいいよ大佐!今までで一番!オレ見直しちゃった」
「そ、そうか?まぁきみのためならゴキブリの1匹や2匹…」
素直に称賛の目で見つめるエドワードに一気に舞い上がったロイは、ではお茶でも飲んで落ち着きたまえ、とか言いながらエドワードの肩を抱いて廊下の向こうに消えた。
あとに残されたエンヴィーは、はーっと息をついてその場にへたりこんだ。
「助かったー………」
だが、この司令部にアレが生息する限り安心はできない。そういつも都合よくロイがいるとは限らないのだ。
翌日から熱心に掃除して歩くエンヴィーの姿が司令部のあちこちで見られた。アレが生息できない環境になるまで。エンヴィーは、脇目もふらずに箒を動かし続けた。
END