小悪魔なきみに恋をする5題
小悪魔なきみに恋をする・7題
3.きみが誰かと笑うたびに
定時にペンを置き、私は立ち上がった。いいように振り回されてばかりでは名が廃るというものだ。ちょっとお返しをしなくては気がすまない。
「鋼のはいるか」
部下を捕まえて聞くと、着替えるために更衣室に行ったという。私は廊下を足早に歩き、更衣室のドアを開けた。
彼はそこにいた。
上半身裸の状態で、他の者たちと一緒におしゃべりをしていた。
なんて無防備な。あの視線に気づかないのか。皆が彼の白い肌を物欲しげに見つめているというのに。
「あれ、少将」
彼が顔をこちらに向けると同時に、そこにいた全員が背筋を伸ばして敬礼した。お疲れさまですとかなんとか挨拶する連中を無視して、私は彼を手招きした。眉が寄るのは仕方ないだろう。そんな姿で平気でいる彼が悪いのだ。
「なんか用?」
しかも半裸のまま駆け寄って来ようとするし。私はドアを開けただけで部屋には入っていないのだ。傍に来たら廊下にいる連中にまで彼の体を見られてしまう。
「先に服を着ろ」
短く命じてドアを閉めた。どんな顔をしていたか見ていないが、驚いているだろう。私が自分から彼になにか話しかけることなど今まで滅多になかったのだから。
「お待たせ!で、なに?」
私服を着た彼が更衣室から出てきて、私は漸く用件を切り出した。彼が書いたエビフライの地図を出し、渡す。怪訝な顔でそれを見る彼に、
「きみの地図はわかりにくい。案内しなさい」
「…………へ?」
金色の瞳が真ん丸になるのを、胸のすく思いで見つめた。
「きみがオススメだと言ったんじゃないか。連れて行ってくれ」
「え……いいけど、」
彼は戸惑ったように私を見上げた。
「あんた、そんなにエビフライ好きなの?」
普通だ。あれば食べるし、なければ食べない。その程度。だがそう言うわけにもいかない。
「まぁな。それに、人がオススメだと言えば興味が沸くじゃないか」
「だよね」
彼は納得して頷いて、じゃ行こうと私の腕を引っ張った。奢りだよね?と確認する彼に頷きながらも、私の意識は腕に集中する。昼といい今といい、彼は誰かと歩くとき相手の腕を掴まなくては歩けないのだろうか。こんな思わせぶりをするから、勘違いする男が増えるんじゃないのか。
それを言おうかどうしようかと悩んでいるうちに、建物から出て門を抜け、通りに出てしまった。こっちこっちと腕を引く彼の笑顔に、なんだかどうでもよくなってしまう。
彼を振り回すつもりが、結局は昼間と同じ。このままではダメだと思いながらも、うまく頭は回ってくれない。どうしたことだろう。
案内された店は確かに見映えはあまりよくなかった。古くたてつけの悪いドアを入ると、いくつかテーブルと椅子が置かれただけの殺風景で煤けて汚れたフロア。以前私が連れ歩いていた女性たちなら確実に店を見ただけで逃げ出すような、場末らしい雰囲気だ。そこにいる客たちもそれなりで、ビールを片手に騒ぐ酔っぱらいや今から仕事に行くらしい化粧の濃い女性たちなどが数人座っていた。
太った女給にエビフライ定食をふたつ注文した彼は、そこに馴染んでいるようだった。酒はどうする?なんて聞いてくる彼に首を振ってみせて、私は店内を見回し、ここに着くまでの道を思い返した。繁華街の隅。まわりは飲み屋や娼館が並び、怪しげなビルやよくわからない店などが入り雑じっていた。
「あまり治安のよさそうな場所じゃないが、きみはよく来るのか?危なくないか?」
「平気だよ」
「だが、こんなところを子供がうろつくのは感心しないな。なにがあるかわからんだろう」
「大丈夫だってば。あんた、そういうこと言う奴だったんだ?意外ー」
彼は肩を竦めて私を見た。
「意外か?」
「うん。他人に関心ないタイプかと思ってたよ」
確かに関心はないが、彼のことは別だ。
そう言ってしまうには、いろいろな事情が邪魔をするのだが。
食事を済ませて店を出ると、来るときはまばらだったネオンがそこら中に瞬いていた。薄暗い路地のような道にそれが反射していろんな色に輝く。客引きらしい男たちがあちこちに立って通行人の服の袖を引っ張っていた。
彼はどうやらお馴染みらしく、客引きたちはこちらには声はかけてこない。たまに手を振ったりしているところをみると、知り合いになった者もいるようだ。他にも客待ちの娼婦やタクシーの運転手などが彼に愛想よく笑顔を向けている。
気さくな彼は、誰とでも親しくなれるのだろう。
それはいいことなのかもしれない。こんな場所では、特に。
だが、私は面白くない。彼が誰かと笑顔を向け合うたびに、胸の奥が疼くような気分になる。
こんな、なんでもないようなことにまで嫉妬するようになるとは。
情けなくて、自分で自分に呆れてしまう。
「じゃ、また明日」
いくらも歩かないうちに、彼が突然言った。
「え?」
「オレのアパート、すぐ近くなんだよ。今日はごちそうさま!ありがと」
言って身を翻す彼の腕を、慌てて掴んだ。
「待て、送るから」
「へ?」
「一人で帰すわけにはいかん。アパートまで送るよ」
金色の瞳が、これ以上は無理というところまで見開かれた。そんなに驚くことなのだろうか。
「いいよ、近いんだし…」
「近くてもだ。治安のよくない場所できみを一人にはできない」
「………………はぁ」
根負けしたらしい彼は、おとなしくアパートまで私を案内した。近いと彼は言ったが、結構歩いた気がする。
「ここだよ」
彼が指したのは、汚くはないがきれいでもない小さなアパートだった。
「……よかったら、お茶くらい飲んでく?」
女性であれば、それは誘い文句だ。
だが男性である彼の場合、その言葉はどう取ればいいのだろう。
「………じゃ、お邪魔するかな」
そのひとことを言うのに、私はずいぶん勇気を振り絞らなくてはならなかった。