煉獄の街
「…………あ」
思わず声を出したら、ベッドの側で花瓶に花を生けていた鋼のが急いで振り向いた。
「なに?どっか痛い?先生呼ぶ?看護師さん?」
焦って呼び出しベルに手を伸ばす彼を止めて、私は首を振ってみせた。
「違うよ。ちょっと、思い出したことがあって」
「なに、用事?オレ行って来ようか?」
折り畳み椅子の背にかけたコートを手に今にも走り出そうとする鋼のに、私はまたも首を振らねばならなかった。全身包帯だらけの打ち身だらけな体には、それだけの動作も結構きつい。
相変わらずせっかちだな、と笑うと、鋼のはぷくっと膨れてしまった。
「じゃあなんなんだよ。気になるじゃんか」
「いや……夢に出てきた奴が誰だったか、今思い出しただけなんだよ。それだけだ」
あの闇の中で、さらに濃い闇色をした影。口だけがぽっかりと開いて、中は内臓みたいに赤かった。
「……誰?知り合い?」
不安そうな顔になる鋼の。この子は本当に、感情がすぐ顔に出る。
「ああ。前にちょっと会ったことのある、まぁ知り合いだよ」
「……………死んでる人?」
「………ああ」
眉を寄せて私を見つめる鋼のに、大丈夫だと言いたくて笑いかけた。
大丈夫。
奴はあそこから出ては来られないのだから、きみが気に病む必要はないんだ。
「なんだ、昔の彼女かと聞きたいのか?」
「べ、別に!そんなん気にしてねーもん!」
「心配しなくても、初めて会ったときから私にはきみしかいないよ」
「気にしてねーって言ってんじゃん!」
真っ赤になって逃げようとする鋼のの手を掴まえて引いてみる。彼は振りほどくことなく、顔を背けたままその場にとどまってくれた。
『あの子は苦手だよぉ』
闇の影が言った言葉が、今なら理解できる。
そうだな。
あいつは結局、最期の瞬間までこの子に敵わなかったからな。
私の焔に限界まで焼かれ、自害を選んだあいつの死を、この子だけが悲しんでいた。
あいつはそれを覚えている。ひねくれた心の奥底に、この子に感謝と好意を隠し持っているのだろう。
「鋼の」
「なに」
ぶっきらぼうに返事をする彼の頬をつつくと、嫌そうな顔でこちらを向いた。
濁りのない、金色の瞳。
太陽の光と同じ色。
「好きだよ」
「あっそう」
「きみは?まだはっきり聞いてないんだが」
「なにを」
「返事だよ。私を好きなのかどうか、ぜひとも聞きたい」
「怪我人は寝てろ、ばぁか」
またぷいと横を向く彼の顔は真っ赤で、恥ずかしそうだけれど嬉しそうで。
いつかは、またあの場所に行かなくてはならないだろう。私の手でつくられた煉獄の街をさまよう亡者たちが、私を永遠に待ち続けているのだから。
だが、今はまだ。
引き寄せて胸に抱き込んだ金色から抗議の声があがる。私の腕に繋がれた点滴の針を気にしているらしい。
今はまだ行けない。
この子が私と共にある限り。
私はこの子と共に生きていなくては。
看護師がドアを開け、ばたばた暴れる鋼のを抱き込んだ私を見て呆れた顔をした。新しい点滴の薬の袋を持って、肩を竦めて苦笑する。
「マスタングさん、まだおとなしくしててくれなきゃ困ります。傷が開いてしまいますよ」
ほら、だから離せって言ったじゃんか!
そう怒鳴って私の腕から抜け出た鋼のは、くしゃくしゃになった髪を直しもせずにドアに向かった。
「どこへ行くんだ?」
「売店!腹減った!」
そのまま風のようにいなくなった鋼のを見送って、看護師がくすりと笑った。
「元気ですねぇ」
「ええまぁ」
苦笑して答えるしかできずに、看護師が点滴を交換するのを眺めた。手際よくすませた看護師は、空になった袋を持ってドアへ向かって歩きかけた。
そして、そこで立ち止まる。
なんだと思う間もなく、周囲がふいに薄暗くなった。
太陽が雲に隠れたのだろう。
そう思って窓を見たが、開け放たれた窓の向こうは抜けるような青空。雲ひとつないそこに、あの子と同じ色をした太陽が輝いている。
目を戻すと、薄闇に佇んだ看護師はこちらを向いていた。私をじっと見つめる瞳は、暗く澱んでいる。
「いつかぁ、また必ずあんたはあそこに還って来るよぉ」
間延びした声は、喉になにかが詰まっているようにくぐもって聞こえた。
焦げる臭いに気づいて看護師の足元を見る。白いエプロンやスカートが、じりじりと焼けて燃えていた。
「次はぁ、逃がさないからねぇぇ」
にたりと笑う顔は、黒い闇に覆われていた。かぱりと開いた口の中は赤くて、今にもそこから血が吹き出てきそうで。
そのとき、看護師の背筋がすぅっと伸びた。
「償え」
声が少しだけ変わった。別人の声。老人のような。
「償え、ロイ・マスタング。おまえに残された道はそれのみだ」
「…………………」
廊下からぱたぱたと足音が聞こえてきた。左右で違う音に、彼だと気づく。
すぐに勢いよくドアが開いて、鋼のが飛び込んできた。その瞬間に闇は霧散する。看護師がはっと我に返ったらしい表情で、戸惑ったように周囲を見回した。
「たいさ!コーラとサイダーどっちにする?」
手に大きな紙袋を抱えてベッドに駆け寄ってくる鋼のは、頭はくしゃくしゃのままなのに、さっき怒っていたことはきれいに忘れているようだ。
「あら、炭酸はダメよ」
看護師の手が彼の髪を軽く整えた。
「お水とかスポーツドリンクとか、体に負担にならないものがいいのよ」
「あ、そうなの」
素直に頷く鋼のに優しく笑って、看護師は部屋から出て行った。エプロンもスカートも、どこも焼けた様子はない。焦げ臭い臭気も、消えてなくなっていた。
「じゃあ、買い直してこねぇと」
しゅんとする鋼のに手を伸ばし、あとでいいと言って座らせた。
なにもいらないんだ。きみがいればそれで。
償えと言った亡者は、あの煉獄の街の住人なのだろう。
私に警告と、そしておそらくは妥協案を提示しに来たのだろうか。
「たいさ、どうした?大丈夫か?」
心配そうな顔の鋼のの手が、私の頬に触れた。
「………なにが?」
「だって、……顔色悪いよ。痛いの?」
「…………大丈夫だよ」
大丈夫。
彼の温かくて柔らかい体を抱きしめて、私は深く息をついた。
煉獄に行くならそれもいい。とっくに覚悟はできている。
けれど、償うことであの街にいる人々のいくらかでも、救うことができるなら。
いつか私の身が朽ち果てたとき、そこへ向かう私にこの子がついてきてしまっても、共に永遠を過ごすことができるようになるかもしれない。
「愛してるよ、鋼の」
「………うるせぇバーカ」
この子と一緒にいられるなら、私はなんでもする。
そう言ったら、あいつは身勝手だと笑うだろうか。
「たいさ、腹減らねぇ?なんか食う?」
抱えた紙袋をがさがさ探って、鋼のはオレンジを取り出した。
「あーんして、てやってくれるのか?」
「一人でやれよアホ」
言いながらもナイフを出して皮を剥く鋼のは、頼まれなくても食べさせてくれるつもりなのだろう。
これからも、ずっと。
彼はこうして、私の側にいてくれる。
傲慢だろうが勝手だろうが、知らん。
私はこの子のために、償う道を探すことにしよう。
視界の端の部屋の隅で、わずかに残った闇の名残の中から。
にやりと笑う赤い口が、ぼんやりと見えた気がした。
END,