霧の向こうへ
「無事だ!今から降りる」
下へ向かって声をかけ、ロイは少年を見た。少年は不思議そうに珍しげにロイと階下を見比べている。
「きみも来なさい」
手を差し出して、それからそんな自分に戸惑った。連れ出してどうしようというのか。親もいない、家もない子供を連れて、どこへ行くつもりなんだ。
少年はその手を眺め、自分の手をそっと差し出した。躊躇いがちなその仕草に年がいもなく胸がどきんとする。手が触れた瞬間に少年が驚いたような顔をしたのを見て、この子が初めて触れあった相手が自分なんだと改めて意識した。
手を強く握り、ドアを抜けて階段を降りる。いくらも降りないうちに、背後にいる少年が感心したように呟いたのが聞こえた。
「手、あったかい」
他のところはもっと暖かいよ、なんて口に出したらまるきり変質者だ。ロイは必死に口を閉じ、手をひいて階段を降り続けた。途中で待っていたハボックが少年を見て目を丸くする。
「うお、可愛い!」
こいつはここに置いて行かれたいらしい。ロイは黙ったまま部下の足を蹴飛ばして先へ行けと促した。
「なぁ、なにそんなに急いでんの?」
後ろから少年が聞いてくる。
「どこ行くの?」
どこ。
自分たちは帰る。
少年は?
エドワードは、どうする?
ブレダと合流し、一気に下へ駆け降りた。塔の外へ出て息をつき、まわりを見回す。エドワードが投げた牛乳が散らばる場所を見つけ、こっちだとハボックが声をあげた。
自分たちが来た方向へ。
とにかく急ぐ。
霧が晴れないうちに出なくては。
おとぎ話の世界に、取り残されないうちに。
やがて車が見えてきた。無骨でなんの飾りもない軍用車が、今日ほど頼もしく見えたことはない。ロイは夢中でエドワードの手をひいて走った。
あと少し。
先にハボックがたどり着き、車に乗ってエンジンをかけた。
「大佐、早く!」
ブレダが後部座席のドアを開き、助手席に乗り込む。がきんと固い音がしたのは、ハボックが急いで無理やりギアを入れたからだろう。
「痛!」
小さな声に振り向くと、エドワードが顔をしかめて頭を触っていた。
「どうした」
「髪が、引っ掛かって…」
エドワードはロイの手を離し、両手で自分の長い三つ編みを引っ張った。月明かりにきらきら輝く金色が、茂みの小枝に絡まっている。
まるで、エドワードを逃がすまいとするように。
ロイは小枝から髪を外そうとそちらへ足を踏み出した。だが、車はエンジンを吹かしてロイを急かす。
「大佐!急がねぇと!」
「わかってる!」
焦って答えるロイを、エドワードが見上げた。
「行きなよ、大佐」
「………な、」
「いいから」
部下たちがさっきから大佐大佐と連呼するからだろう。エドワードはロイの名前を忘れてしまったようだった。髪を握ったまま笑って、手を振ってみせる。
「塔から出してくれてありがとう。さよなら大佐」
「…………エドワード」
さよならと言われて、ロイはやっと自覚した。
一目惚れだ。
別れるなんて、冗談じゃない。
「ダメだ、一緒に…」
「大佐ぁ!」
悲鳴みたいな部下の声が邪魔をする。うるさく鳴らされるクラクションに、ロイの声は完全に消されてしまった。
「ほら、早く。なに急いでんのか知んねぇけど、行かねぇとまずいんじゃねぇの?」
エドワードはそう言うと、森の奥へと駆け出した。
「エドワード!待ってくれ!」
「またいつかね、大佐!」
少年の姿が見えなくなってすぐ、髪も小枝からするりと外れた。
后になったという女の念は、まだここにあるのか。
呆然としたロイのすぐ傍に車が走り寄ってきて、助手席から飛び出してきたブレダが無理やりロイを車に押し込んだ。
「よし、行くぞ!」
「よっしゃあ!」
ブレダが乗り込んでドアを閉めると同時にハボックがアクセルを踏み込んでハンドルを思い切り切った。車はその場でタイヤを滑らせて回転し、一本道をフルスピードで走り出した。
森を抜け、いくらか薄らいだ霧に突っ込む。振り向いたロイの目に、塔の影がぼんやりと見えた。
「…………エドワード…」
すぐに周囲は霧に包まれた。がたがた揺れる振動を耐え、ひたすら前へ進む。
いきなり視界がクリアになって、ハボックがブレーキを踏んだ。車は急停車し、ブレダがダッシュボードにどこかを打ったと文句を呟く。フロントガラスの向こうには星が輝き農地が広がり、家が点在していた。いくつかの家にはまだ明かりが灯っている。トラックや乗用車が置いてある家も見えた。
「も、戻れた」
ほっとしてハボックがハンドルに凭れかかった。ブレダも息をついてシートにどさりと身を預ける。
ロイはドアを開け、外に出た。来た道を振り返ったが、深い森もそびえ立つ塔もない。視界を遮っていた霧もどこにもなかった。
翌日司令部に戻り、適当な報告書を書いて中央に送った。ブレダもハボックも、誰にもなにも言わなかった。ロイも副官にすら黙っていた。
信じてもらえるはずがないというのもあるが、なぜだか口にするのが躊躇われた。
言えば、夢になりそうな気がして。
手にはいつまでも少年の手の感触があり、目を閉じればその姿を思い出すことができた。
金色の髪と、金色の瞳。
さよならと言ったときの、少しだけ寂しげな顔。
またいつかね、と少年は言った。
そのいつかという時が永遠に来ないことを、知っていたのだろうか。