霧の向こうへ
「見たことない服だね。どっから来たんだい?」
老婆の言葉にまた顔を見合わせる。アメストリスに住んでいて国軍の軍服を知らない者がいるとは。
「……私はアメストリス国軍大佐、ロイ・マスタングです。失礼ですがご婦人、お名前は?この塔はどなたの所有でしょうか?」
老婆は片眉をあげただけで、顔色も変えなかった。3人を順に眺め、ため息をつく。
「霧を抜けて来たのかい?」
「は?」
「狭間を越えたんだろう。悪いが、ここはあんたらの世界じゃない。さっさと帰りな」
「……………」
なにを言っているのかわからない。
ハボックが一歩前へ踏み出した。
「ばあさん、オレたちゃ仕事で来てんだ。世迷い言聞いてる暇はねぇんだよ」
「あたしだって暇じゃないさ。だから親切に言ってやってるんじゃないか」
「わけわかんねぇこと言われても……」
「まぁまぁ」
ブレダが割って入った。
「落ち着けよハボ。なぁばあさん、わかるように話してくんねぇか?なにがなんだかわかんねぇよ」
老婆はちらりと塔を見て、くるりと向きを変えた。
「ついて来な」
そのまますたすた歩き出す後ろ姿に少し迷って、ブレダとハボックはついて歩き始めた。
その後ろをついて行きながら、ロイはもう一度振り向いた。
塔のてっぺんの窓は明るい。時折揺らめくところを見ると蝋燭だろうか。
そこに、さっき見えた金髪の人影は見えなかった。
しばらく歩き、森を抜けると小さな集落があった。畑が広がり、小さな小屋のような家が点在している。どの家も寝静まっているのか、明かりはついていなかった。
老婆はその中の一軒のドアを開け、3人を招き入れた。燭台の蝋燭に火を灯し、暖炉に薪をくべる。どうやら電気などは存在しないらしい。
老婆は黙ったまま鍋を温めて、スープらしいものを皿に注いでテーブルに出した。パンの入ったカゴも出し、軍人たちに椅子を指してみせる。戸惑いながらそこに座ると、かまどの上の大きなフライパンから焼いた肉を皿に移して目の前に置いた。
「ほら、食いな。ろくなもんはないけどね」
「え。えーと、」
部下たちがどうしようという目でロイを見る。
「ご婦人、先ほどの話ですが……」
「食いながらにしよう。あんたらいつからここにいるのか知らないが、腹が減っただろ?」
ロイは迷ってから頷いた。
「では、ご馳走になります。ありがとうございます」
それを見て部下たちも同じように頭を下げた。
「あたしはピナコってんだ。もう長いことここに住んでるよ」
「………はぁ」
食事を始めてしばらくして、老婆は話し始めた。
「あの塔は、昔はお城の見張り塔だったんだ。ちゃんと出入口もあって、兵隊が代わる代わる見張りに立っていたもんさ」
「お城って、……」
ブレダが言いかけて黙った。アメストリスには城はない。それはロイも知っていた。
「まぁ聞きな。それでね、国はずっと平和だったわけだよ。だけどある時、王様が后を迎えてね」
「………王様、スか」
ハボックがパンをちぎったままバカみたいにあんぐり口を開けて呆けた。
「うん。けど、王様には惚れた女がいたんだよ。后になった女はその女が邪魔でね。あの塔に閉じ込めて、出入口を塞いでしまったんだ」
「塞いで………」
だからドアがなかったのか。ロイは頷いたが、おとぎ話のようなそれを信じきることはどうにも難しかった。どこの世界のいつの話なんだそれは。
「あたしはその時、お城に仕える魔女だった。それで、お妃さまはあたしに命じたんだよ。塔を見張り、誰一人近づけるなって」
「……………ま、」
魔女ってなんだ。
食べることを忘れて凝視してくる3人にはお構い無く、ピナコは頬杖をついてカップからお茶らしいものを飲んだ。
「けどねぇ。王様の子供が、その女の腹にいたんだよ。后は怒って、塔に火を放てと言った。あたしにはできなかったよ。罪のない女と、まだ生まれてもいない子供を殺すことなんかできないだろう?だから、逃げたんだ」
「逃げた?」
「そう。この狭間の世界に、塔ごと逃げて来たんだよ。ここは異次元だからね、ごくたまに迷い込む者はいても来ようと思って来れるところじゃない。時の流れからも取り残された、最果ての場所だからね」
「い、異次元て」
ハボックがパンをぽろりと落とした。
「待て待て!それが本当なら、オレたちどうなんの?」
「か、帰れねぇのか?」
ブレダの顔も真っ青だ。
「落ち着きな。帰れなくなった連中は、ここで暮らしてるよ。見ただろ?他に家があるのを」
明かりのついていない小さな小屋を思い出す。そこで暮らす者たちは、どこから来てなにを思っているのだろう。
「いやいやいや!そんな、オレたち仕事もあるし!帰らねぇと!」
焦った顔で立ち上がるハボックを見て、ピナコはくすりと笑った。
「来た道を戻りな。まだ霧があれば、道は通じてるよ」
「た、大佐!」
「落ち着け」
ロイはスープを飲み干してピナコを見た。
「すぐには信じられないお話ですね。では、あの塔にいるのは女性だと?聞こえた声は少年のようでしたが」
「ああ、あれは女が生んだ子供だよ」
ピナコはカップを持ったまま塔のあるほうを見た。
「女は子供を生んですぐに死んでしまった。あたしは女に頼まれて、あの子の世話をしてるのさ」
「………亡くなられたのですか」
それが本当の話なら、やりきれない話だ。
ロイはため息をついて空になった皿を眺めた。