霧の向こうへ
「完全に道を見失ったようだな……」
「野宿か。ついてねぇな」
ハンドルに突っ伏してハボックがため息をついた。
「仕方ないだろ。適当に走って、どっか停まろう」
地図にない村がある。
その報告を聞いて来てみたのはいいが、とんでもなく濃い霧に方向感覚を狂わされてしまった。1メートル先も見えない白い闇の中を手探りのように少しずつ進んでいくうちにあたりはどんどん暗くなり、ようやく薄れた霧から上空を見れば星が輝いていた。
周囲は森と草原。舗装もしていない道が闇の先へと延びていて、人家の明かりはひとつも見えなかった。
「食料を積んでおいて正解でしたね」
助手席のブレダが窓の外を見ながら言った。
「レストランの看板が見当たりませんや」
「ていうか、なんにもねぇよ」
感心したようにハボックがきょろきょろした。
「オレんちも田舎だけどさ、こうまで見渡す限りなんもねぇ場所なんてねぇぞ」
「だよなぁ。農家とかありそうなもんなのにな」
部下たち二人が周囲を見ている間に、ロイは後部座席で靴を脱いでくるりと丸くなった。いそいそとコートを体にかけ、手枕に頭を乗せる。
「あ!大佐、ずりぃ!ひとりで先に寝る気ですね!」
「うるさい。昨日まで残業続きだったんだ、こんなときくらいゆっくり寝させろ」
ふぅ、と息をついてロイは目を閉じた。寝不足の体がたちまち重くなり、意識が遠くなる。
そのまま心地よく睡魔に誘われてあっちの世界に旅立ちそうになったとき、ブレダの声が聞こえた。
「なんだ、あれ」
嫌々目を開ける。前を見ると、停まった車のフロントガラスに張り付くようにして部下たちが前方を凝視していた。
「なにかあったか」
渋々体を起こして問うと、ハボックが黙って前を指差した。
暗い森の木々の向こうに、そびえ立つ高い塔が見えた。
近くまで行って車を停め、エンジンを切って降りる。そこから塔までは歩き。誰がなんのために作ったものかも不明だし、こんな人里離れた場所にそんなものがあるなんて不審もいいところだ。もしかしたらテロリストやそれに類する者のアジトかもしれない。
ゆっくりと足音を消して近づいて、塔の周りをまわってみた。入り口はない。窓はこの塔のてっぺんにあるだけだ。塔の石造りの壁を子細に検分したが、隠しドアのようなものは見当たらなかった。
「めんどくさいな。破壊して中に入るか」
「バカですかあんた」
手袋をはめようとするロイの手をぺしっと叩いてハボックが小声で抗議した。
「下を破壊したら塔が崩れますぜ」
ブレダも眉を寄せてロイを見る。仕方なく手袋をポケットにしまって、ロイは上を見上げた。
「だが、中に入れないことには調査もできんぞ」
「そのへんに隠し階段かなんかあるんじゃねぇっスか」
「なんかスパイ映画みたいになってきたな」
ぼそぼそと話をしながら地面を見回す。だが、どこにもそれらしきものはない。
「朝になってから調べたほうがいいんじゃねぇかな」
「だな。暗いと見落とすものもあるし」
ブレダの言葉にハボックが頷いて、車を隠したほうへと歩き出した。
「大佐、」
「ああ」
ロイはそれへついて歩き出しながら、振り向いて塔を見た。
「………おい、」
ロイの緊張した声に部下たちが振り返って塔を見る。
てっぺんに明かりがついていた。
「さっきまではついてなかったな?」
「誰かいるらしいっスね」
「オレたちに勘づいたか?」
ひそひそと話しながら、木々の陰に隠れた。てっぺんからの明かりが森を照らしている。なんの声もしないし、物音もない。
そのまましばらく待っていると、森の奥から足音が聞こえてきた。
3人が息を潜めて気配を消して待つと、現れたのは老婆だった。手にカゴを持ち、特に気配や足音を消すでもなく、周囲を窺う様子もない。すたすたと塔の下まで行くと、上を見上げた。
「あたしだよ!飯食いたきゃ髪をおろしな!」
すぐに窓に人影が現れて、するするとロープのようなものがおりてきた。月明かりに輝くそれはよく見れば三つ編みにした金髪だった。老婆はそれを掴み、カゴをそれにくくりつける。
「いてぇなマイクロババァ!引っ張んなよ!」
上から怒鳴り声が降ってきて、それと同時にその髪の持ち主が顔を出した。
「うるさいね!腹減ってんなら我慢しな!」
カゴをくくり終えた老婆が髪をぐいと引っ張ると、美しい三つ編みはするすると上へ戻っていった。しばらくしてカゴが中へ引っ込み、またひょこっと顔が出てくる。
「くそババァ、牛乳入れんなっつったろ!」
「贅沢言うんじゃないよミクロチビ!飲まなきゃ大きくなれないよ!」
「でっけぇ世話だ!」
上からなにかが投げ落とされて地面で割れた。飛び散る白い液体は話の流れからして牛乳だろうとロイは判断した。瓶は老婆がいる場所とは違う方向、つまりこちらに向かって投げられたので老婆に怪我はない。思わず避けようと身動きしてしまい、足元で枯れ草ががさりと音をたてた。
老婆がこちらを見た。息を詰めてじっと身を固くしていたが、気づかれたようだった。老婆は少し黙ったままこちらを見つめ、それからまた上を向いた。
「明日また来るからね!」
「牛乳入れるんなら飯なんかいらねぇぞ!」
塔のてっぺんにいる人物はよほど牛乳が嫌いらしい。老婆は答えずに肩を竦め、こちらに向かって歩いてきた。
「誰だい?」
3人は顔を見合わせた。
だが、気づかれているなら隠れていても仕方がない。老婆は見たところ武器も持っていないようだ。
頷き合って、ハボックとブレダは銃を握った。ロイは手袋を両手にはめる。
そうして、3人はゆっくりと木の陰から出て老婆に向き合った。