一寸兄さんの冒険
まる3日川を下っていたら、だんだん周囲の景色が変わってきた。家が増え、人が増える。どうやら都に着いたらしい。
苦労してお椀を岸に寄せる。アルのやつ、船を漕ぐのに箸はねーだろ。これ絶対、お椀だから箸だよねとか適当に考えたに違いない。水底に先が届かないし、先が細く尖ってるからいくらばちゃばちゃやっても方向がなかなか変わらねぇ。それでもまる3日も頑張っていたので少しは慣れていたオレは手近な河原に無事にお椀を接岸した。
ぴょんと石の上に飛び降りて、つるんと滑って川に落ちた。這い上がれてほっとしたけど、服はびしょ濡れ。
でも、足の下の地面は揺れてない。はぁ、と息をついてオレは座りこんだ。もうちょっとで船酔いするとこだった。しばらく座って、まだぐらぐら揺れる感覚が残る足がなんとかなるまで待たなくては。
そう思ったと同時に、体がふわりと宙に浮いた。
なんだなんだと焦るオレの目の前に、きれいな薄い茶色の瞳がふたつ。
「あら。お人形かと思ったら、生きてるわ」
可愛らしいけれど凛とした大人の女の人の声。オレは握った針から手を離した。紳士なオレは女には武器は向けないのだ。
「あなた、なに?虫?」
「む、虫………」
いくらなんでも虫呼ばわりされては黙っていられない。オレはばたばた暴れて、女の人の指から逃れて地面に降り立った。
同時にくらりとよろめいて、倒れそうになるところをさっき逃れたばかりの女の人の手に掬われて助けられた。
「まぁ、びしょ濡れだわ。大丈夫?」
見上げると、女の人はたいそう美人だった。立派な着物を着ているから、きっと身分が高い人なんだろう。
「私はリザよ。あなたは誰?」
「…………エドワード。虫じゃなくて、これでもちゃんと人間だよ」
「どうして濡れてるの?ていうか、どこか具合でも悪いのかしら。顔色がよくないわよ。小さくてよく見えないけど」
小さいんじゃなくて、小柄なんだってば。と言いたいけれど、どうにも体に力が入らない。
「………腹、減った」
ウィンリィのおにぎりはとっくに食べ尽くしていて、オレはそのとき腹ペコだったのだった。
リザはオレを手のひらに乗せたまま歩き出し、草むらから出た。河原は広くて、公園みたいに整備されている。その向こうの一角に、なにやら敷物が敷いてあったり日傘が立っていたりしていた。女ばかり数人、そこに座ってこっちを見ている。
「お天気がいいから、ピクニックに来てるのよ。まだお弁当が残ってるから、食べて元気を出してちょうだい」
リザはどっかのお嬢様なのではないかと思う。オレみたいな汚い身なりの見知らぬ男に、こんなふうに施しをするなんて。騙されたり襲われたりしたらどうするんだ。
敷物の上に下ろされると、そこにいた女たちがたちまちオレを取り囲んだ。つままれたり撫でられたり。きゃあきゃあとあがる歓声に、どう反応したらいいのかわからない。
「みんな、エドワードくんはお腹が空いてるの。なにか食べるものをあげてちょうだい」
リザの言葉に、女たちが嬉しそうに次々といろんなものを差し出してきた。おにぎりや卵焼き、焼き魚や煮物。フライドポテトや唐揚げ。生まれて初めて口にするご馳走に、オレは虫とか言われたこともすっかり忘れて必死に口を動かし続けた。
女たちはリザのお供の女中さんらしい。黙って食うオレの頭の上で交わされる会話で、オレはなんとなく状況を理解した。
リザは気にいらない縁談があって、その相手に会いたくないからピクニックだの買い物だのと毎日出かけているらしい。女中たちは、そろそろその縁談の相手が怒るのではないかと心配しているようだ。
「関係ないわよ、あんな男」
リザはつんと横を向いた。でも、と女中は恐る恐る意見を続ける。眼鏡をかけて気弱そうだが、言うべきことは言わないと気がすまない損なタイプだ。
「もうひと月、お会いになっていらっしゃらないし。先方もいい加減、お怒りなのでは」
「シェスカ、あんたあの男のこと知らなすぎよ」
リザは女中といえど意見をないがしろにすることはないようだ。
「いい?あいつはね、都中に彼女がいるの。いい加減で軽くて女好きで、私との縁談もたいして気にしてないわ」
「で、でも……偉い方ですし、万が一お気に障りでもしたらリザ様が……」
「私は構わないわよ。あんなやつの嫁になるくらいなら、家なんて出てよそへ行くわ」
リザはそこでオレを見た。ポテトを一本両手に抱えてまるかじりしているオレににっこりする。本当にきれいな人だとオレは感心した。
「なんなら、エドワードくんのお嫁さんになろうかしら」
「………………へ」
オレはぱかっと口を開けた。まわりの女中もびっくりしてオレを見る。
リザはくすくす笑って、オレの頭を指で撫でた。
「女好きのひとでなしより、あなたのほうが素敵だわ。エドワードくん、どこから来たの?目的地はどこかしら。よかったら連れてってあげるわよ」
「…………どこから、って………」
そこでオレははっと気づいた。のんきに飯を食いながら美人にみとれている場合ではない。
「あの、オレ。リゼンブールっていう村から来たんだけど」
立ち上がってリザの目を見つめ、オレはここに来た訳を話した。村が重税に困っていること。生活ができなくて、よそへ移って行ってしまう者が多くて、村が寂れてしまっていること。それをなんとかしたくて、都に来たこと。
「一番偉い奴のとこに連れてってほしいんだ」
一生懸命言うオレを、リザは真剣な目で見つめた。
「中まで連れてってくれなくていい。オレちょっと小柄だから、どこからでも潜り込めるし。家の前まででいいから」
必死で言うと、リザはなにか考えるような顔をしてから頷いた。
「いいわ。着物の袂に隠れていなさい、連れて行って会わせてあげる」
「え」
そこまでしてくれなくていい。オレは慌てて首を振った。こんな田舎者の怪しい奴を連れ込んだとわかったら、リザがどんな目にあうか。
「優しいのね。でもそんな心配は無用よ、エドワードくん」
リザは笑顔でまたオレの頭を撫でた。
「さっきシェスカと話していた、縁談の相手。そいつが、今この国で一番偉い奴なのよ」
「……………マジでか」
偶然に感謝するべきなんだろうか。
オレは促されるまままた座り、残りの飯を食べた。
リザは顔をあげて話題を変え、知らない店や流行りの着物なんかの話を始めていて、女中たちは心配そうな顔ながらもそれに相づちを打っている。
大丈夫なんだろうか。