魔法の鏡
突然、野次馬たちから悲鳴があがった。
はっとしてビルを見ると、テロリストがビルの最上階から身を乗り出しながら、部屋の奥に向かってなにか叫んでいる。
よく見ると腕に誰かを抱えていて、その頭に銃をつきつけていた。
「おい、あれ……」
近くにいた男が指さす。
言われるまでもなく、抱えられているのはエドワードだとわかった。
エドワードはぐったりしていて、抵抗する様子はない。気絶しているのかもしれない。
それを見た瞬間に、駆け出していた。
まわりの連中がなにか言っていたが、聞こえていない。
エドワードだけを見つめて、ビルに向かって走った。
それを見て、テロリストがこちらに銃を向けた。
その隙にどこかに隠れていたらしい狙撃兵がテロリストを撃つ。正確に肩に空いた穴を見て、その腕前に感心した。
銃はそのままビルの下に落ちていく。テロリストの背後に、青い軍服が迫るのが見えた。
やけくそになったのか。
テロリストはエドワードの体をベランダから外に放り出した。
「………エドワード!」
叫んでも届かない。
彼の体は放物線を描いて飛んでいく。
なにも考える暇はなかった。
ポケットに手を入れて、手袋を引っ張り出す。
昔、手にはめて使っていたもの。
けれど今ははめる余裕はないし、発動させるだけならはめなくてもできる。
計算をし、狙いを定め、それから手袋を両手で叩いた。
数年ぶりに見る青い火花を、願いをこめて見つめる。
頼む。
エドワードの体を、少しでもこちらへ向けて飛ばしてくれ。
エドワードの側を通りすぎた火花は、空中で小規模な爆発を起こした。
小柄な体は爆風にあおられ、こちらに向かって落ちてくる。
「エドワード!」
手袋を放り投げてそっちへ走った。
落ちてくるエドワードだけを目で追い、走る。
だが、まだ遠すぎる。
爆発でエドワードが火傷を負うのを恐れすぎて、規模が足りなかった。
手を差し出して必死で走るが、間に合わない。
「エドワード!」
呼んで、走って。
あと数メートル。
なのに、届かなかった。
エドワードの体と地面との間に、誰かが素早く滑りこんだ。
それに落ちて跳ねた体を、もう一人が抱き止める。
「え、エドワード……」
ようやくでそこにたどり着いたとき、エドワードを受け止めた二人は喧嘩をしていた。
「てめ、最後突き飛ばしただろ!」
「うるせぇ!間に合ったんだからいいじゃねぇか!」
「せっかくかっこよく抱き止めようと思ったのに!腹の中身が全部出るかと思ったぞ!」
「出せばちったぁ痩せるんじゃねぇか?」
下敷きになった男はずいぶんと肥えた男で、それを突き飛ばしたのは背の高い男だった。
どちらも上官だが、部署が違うために顔を見たことがあるくらいで名前は知らない。
二人は肩で息をしながら見つめる自分に気づいて、笑ってエドワードの体を差し出してきた。
「ほらよ。怪我はたいしたことなさそうだぜ」
「………あ、」
受け取って抱き上げて、エドワードを腕に抱くのは初めてだと気づいた。
「……エドワード」
無事でよかった。
本当に、よかった。
目を閉じたままのエドワードの頬にキスをした。
温かい。
涙が溢れて、止まりそうになかった。
「救急車が来ました」
走ってきた男が、全員を見回した。
「軍曹は鋼の錬金術師殿に付き添ってください。あと、そちらも乗ってください」
肩章に准尉の印をつけた男は、太った男に言った。
「痛むでしょう。手当てを受けてください」
「ち。バレたか」
体で受け止めた衝撃で、多分どっか折れちまったみたいでさ。男はなんでもないように笑って、自分を突き飛ばした男を睨んだ。
「覚えてろよ、てめぇ」
「名誉の負傷ってやつだろ」
背の高い男は苦笑して、早く行けと手を振った。
ビルを見上げると、どうやら鎮圧は終わったらしい。司令官がこっちを見下ろしていた。
診察の結果、エドワードは気絶しているだけとわかった。多分暴れたから、テロリストたちに気絶させられたのだろう。それでもビルから落ちたこともあるし、しばらく様子をみるために入院することになった。
「………大丈夫ですか」
病室でベッドに寝かされたエドワードに近づいて、小さな声で話しかけた。
彼はこちらを見て、赤くなって壁を向いてしまった。
「えっと……た、助けてくれて、ありがと……」
呟くような声でそれだけ言って布団を被るエドワードに、胸が痛んだ。
もう彼は自分を好きでなくなってしまったかもしれない。
けれど、言わなくては。
これだけは、伝えなくては。
「お話があるのですが、よろしいでしょうか」
「な、なに?」
顔を見せてくれないエドワードに、不安が募る。
きっとあのとき、彼もこんな気持ちだったんだ。
期待が少しと、不安がたくさん。そして、嫌われるかもしれないという恐怖。
それを押し退けて告白してくれた彼に、自分はなんてひどいことをしたのだろう。
「………あなたが好きです」
「はぇ?」
不可思議な声を出したエドワードが、布団から少しだけ顔を出した。
「もう、ずっと前から。あなたが好きです。愛してます。私と、交際していただけませんか」
「……………………」
真ん丸な目で見つめてくるエドワードに、勇気を振り絞って手を伸ばした。
柔らかい金髪に触れ、布団の端を握りしめた小さな手を握る。
「先日あのようなことを言っておいて、今さらとお怒りになられるかもしれませんが、私は本気です。あなたと付き合いたいし、結婚したい。………もう、ダメでしょうか」
「………………う、え。な、なんで急に、」
戸惑いと羞恥と驚きで、エドワードの瞳は忙しく動く。
そこに拒否する色はない。そのことに、泣きたくなるほど安堵した。
「あなたと大佐の噂を聞いていて……てっきり、からかわれているのだと思ったものですから」
すいません、と言うと、エドワードは慌てたように起き上がった。
「ち、違うよ!大佐は、ちゃんと決まった人が…!」
「大佐からお聞きしました。誤解してしまって、申し訳ありません」
微笑むと、エドワードの顔がさらに真っ赤になった。
「う……くそ、あんたのその顔、もうやだ……」
「か、顔?」
整形しなくてはならないのか。
焦る自分をちらりと見て、エドワードは俯いた。
「………かっこいいんだもん………………」
「………はぁ……すいません」
ああ、だから笑顔を向けるたびに赤くなっていたのか。
ほっとして、握っていた手に力をこめた。
「愛してます。お願いだから、私のところへお嫁に来てください」
「………………」
しばらく黙っていたエドワードは、ぷいと横を向いた。
「名前、呼んでよ」
「え?」
「名前。……あと、敬語も嫌だ」
「……………それは、」
承諾ととって、いいのだろうか。
「………では。えー、エドワード……」
横目でこちらを見たエドワードが、ようやく笑った。
ぱあっと明るくなる表情に、自分まで笑顔になる。
「じゃあ私のことも名前で。私の名前は…」
「知ってるよ」
エドワードは照れ臭そうに俯いた。
「初めて会ったとき、あんたのこと気になって…大佐に、書類見せてもらったんだ」
気にしてくれていたとは。
舞い上がる気持ちを抑えようとして、気づいた。
もう、抑えなくていいんだ。
「ロイ・マスタング、だよね」
「そうだよ」
彼がかっこいいと言ってくれた笑顔で頷くと、彼はまた赤くなった。
「…………ロイ、」
囁くように呼ばれた名前は、いまだかつて聞いたことのない甘さを含んで耳に届いた。